第27話 筋を通す
森は、歩きながら考える場所じゃない。
考えれば、足が遅れる。遅れれば、枝が鳴る。枝が鳴れば、獣に先に気づかれる。
それでも今日は、頭が勝手に動いた。
金の筒が、胸のところで静かに重い。
匂いは薄く、線になって遠くへ伸びている。
薄鐘へ続く筋――その先に、もう一本、別の匂いが混じっていた。
ハルは歩幅を崩さないように、息だけを整えた。
(……また、だ)
『浮つくな』
ガルムが前を見たまま言った。
声は低く、叱るというより、森の音に混ぜるみたいな言い方だった。
「……浮ついてない」
『浮ついている。匂いが二つになったとき、お前はいつもそうなる』
言い返そうとして、やめた。
図星だからだ。
ガルムは枝を避けながら、続けた。
『勘違いするな。筒は“金目”だけを嗅ぐものではない』
ハルは眉を寄せた。
「……じゃあ、何を嗅いでる」
ガルムは少しだけ首を傾けた。
言葉を選ぶ、というより、人の言葉に合わせるのが面倒そうだった。
『持ち主に必要なものだ』
「必要……」
『お前が生き延びるために要るもの。
次に進むために要るもの。
時に、他者のために要るものも含む』
ハルは足元の落ち葉を踏み割らないように、靴底を滑らせた。
「……他人のためのものが、“俺に必要”になるのか」
『なる。
お前は商いをする。商いは、人の欠けを埋めて金を受け取る行いだ。
欠けが大きいほど、金も大きい。――分かるな』
分かる。
分かるのが、腹立たしい。
あの屋敷の子がどうなろうと、ハルの飯が増えるわけじゃない。
そう思っていた。
けれど、違う。飯が増える。
だから筒が鳴る。
(結局、俺は――)
『卑しい、と思うな』
ガルムが言った。
振り向きもしない。
『腹が減った者が腹を満たすのは当然だ。
その代わり、手順を踏め。線を踏み外すな。
お前が拾うのは、ただの運ではない。責任も拾う』
責任。
その言葉が、冬の冷気みたいに胸へ落ちた。
ハルは短く頷いた。
「……分かった」
ガルムが鼻先を動かす。
『来た。薄鐘の筋だ』
――薄鐘は、岩の影に薄く貼りついていた。
鐘の皮のように薄いのに、触れた指が一瞬だけ冷える。
ハルは慣れた手つきで、必要な分だけを剥がした。
欠けないように、散らさないように。
袋に収まったところで、筒の匂いがいったん落ち着く。
……落ち着いた、はずだった。
別の匂いが、まだ残る。
薄鐘の冷たさと違う。
もっと静かで、奥へ沈む匂い。
ハルは歩きながら、ガルムの言葉を思い出す。
持ち主に必要なもの。
(あれが必要なのは――)
貴族令嬢の顔は見ていない。
見ないほうがいい。
知れば、余計な義理が増える。
それでも、必要なのは分かる。
熱を抜いたあとに残る“ひきつれ”をほどくもの。
化粧が割れる溝を、少しだけ埋めるもの。
春までに間に合わせるための、薄い救い。
(……あんたに必要なんだろうな)
言葉にはしない。
森が揺れるから。
ガルムが半歩、前へ出た。
『そこだ。石の縁。影の濃いところ』
ハルは視線だけで探した。
――岩の縁に、黒でも白でもない“薄いもの”がある。
膜でもない。粉でもない。
乾いているのに、指先がわずかに引っかかる。
(違う素材だ)
筒の匂いが、そこでだけ濃くなる。
鼻の奥が熱くなる。薄鐘の冷たさとは逆の反応だ。
ハルは息を止めて、爪先で体重を移した。
刃を入れない。削らない。
剥がすというより、“抜く”。
根元を生かして、ゆっくり。
薄いものは、ほんの少しだけ、糸のように伸びた。
伸びて、切れた。
手の中に残ったのは、小さな欠片が二つ。
どちらも、昼の目にはただの鈍い石片に見える。
でも、筒は嘘をつかない。
ハルは布の端にそっと受けて包み、リュックの底へ滑り込ませた。
(……売れない。まだ早い)
売るためじゃない。
――鑑定のためだ。
※
工房の台に、包みを置いた。
薄鐘の袋とは別だ。
底に沈めてきた、小さい布包み。
親方はそれを見て、すぐには手を出さなかった。
鼻で嗅ぐ。目で量る。
――値段じゃない。危なさのほうを。
「……こいつは、どこだ」
「言えない」
ハルは先に言った。
言い訳みたいに聞こえるのが嫌で、声を低くした。
「場所を口にしたら終わる。取れなくなる」
親方の眉がわずかに動いた。
怒りじゃない。理解のほうだ。
「薄鐘より厄介か」
「……分からない。だが、匂いが違う」
親方は布包みの結び目をほどき、端をほんの少しだけ開けた。
光はない。音もしない。
それでも、工房の空気がひとつ重くなる。
「……」
親方はすぐ閉じた。
見続けない。触れ続けない。
「うちで抱える。――治療院に回す」
ハルは頷いた。
それでいい。工房の縄で、治療院へ渡る。
筋を通す。
親方は布包みを棚の奥へしまい、言った。
「お前は今から、治療院へ行け」
「俺が?」
「お前の顔で、釘を刺す。
工房も行く。……今日の話は“落とし前”になる」
落とし前。
その言葉が腹に落ちた。
ハルは一拍だけ迷った。
――治療院の裏に立つのは、嫌だ。
だが、嫌だからと逃げたら、また踏まれる。
「……分かった」
親方は外套を掴み、弟子に短く言いつけた。
「戸を閉めろ。火を落とすな。
それと――余計な口は出すな。今日は“筋”の日だ」
⸻
治療院の奥は、薬の匂いがする。
乾いた根。焦げた皮。甘い蜜。
それらを隠すための苦い匂い。
普段、ハルはこの奥へ入らない。
入れる身分じゃない。入る理由もない。
今日は理由がある。
親方が前へ出て、受付の療養士に言った。
「工房だ。鑑定と、話がある」
療養士の目が一瞬だけ揺れた。
知っている揺れだ。
“最近の件”を、向こうも覚えている。
奥へ通される。
扉が閉まる音が、やけに厚い。
机の向こうに、医師がいた。
白衣の裾がきれいだ。手もきれいだ。
――ハルは、その清潔さが腹に刺さる。
親方が布包みを置いた。
「これを鑑定に回してほしい。うちの名で」
医師は布包みを見て、視線だけで頷いた。
手はすぐに伸ばさない。治療院も、危なさは分かる。
「……少量ですね」
「少量でいい。危ないものは、少しで足りる」
親方の声が硬い。
医師は療養士に合図し、布包みは奥へ消えた。
しばらくの沈黙。
親方が先に口を開いた。
「本題だ。――“尾行”の件」
医師の目が細くなった。
「……尾行のことですか」
言い逃れをしない。
その一点で、医師はまともだ。
まともで、なお腹が立つ。
親方が机を軽く叩いた。
「森へ付けたな。工房を通すと言いながら」
「必要でした。素材の確保が――」
「必要で済むなら、森は誰でも歩ける」
親方が遮る。
言葉が切れる。刃みたいに。
「森の中は危険だ。
薄鐘の筋だけでも足場が悪い。
慎重に動かないといけない場所だ。
そこへ“付ける”? 尾行? 冗談じゃない」
親方は一呼吸置いて、さらに言った。
「採取の安全も考えろ。
怪我をさせれば、次は持ち込まれない。
工房も治療院も、結局困る」
医師は口を結んだ。
反論できない種類の話だ。
その沈黙の間に、ハルは言った。
声が勝手に出た。愚痴じゃない。事実として。
「……俺は、ただ拾ってるわけじゃない。
落ちたものを拾うなら、付けてもいい。
だが、あれは“取りに行く”ものだ。
足場も、匂いも、風も読む。――一人増えるだけで事故が増える」
医師の視線がハルへ向く。
初めて、こちらを“商人”として見た目だった。
親方が言う。
「落とし前をつけろ。
次に同じことをしたら、工房は仲介を止める。
治療院の依頼も、工房の縄で止まる」
医師の喉が動いた。
「……分かりました。二度としません」
「言葉だけじゃ足りない」
親方は淡々と続けた。
「上乗せだ。
危険手当。段取りの手当。
“苦労”に対して払え。
工房が抜く分じゃない。持ち込む側へ回す」
医師は眉を寄せる。
財布の痛みだ。
けれど、拒めない痛みでもある。
「……額は」
親方が答える前に、ハルが言った。
「少量しか出せない。場所が遠い。
一日が潰れる。店も回らない。
それでも必要なら、値で納得させるしかない」
医師は、そこでようやく息を吐いた。
「……工房を通して、条件を詰めます」
親方が頷く。
「それでいい。筋を通せ。
――そして次は、最初から通せ」
⸻
廊下へ出た瞬間、ハルは肩の奥が痛んだ。
怒鳴ったわけでもないのに、疲れだけが残る。
親方が歩きながら言った。
「今の話で、治療院は二度と勝手な真似はしない。
――お前の苦労は、金に換えろ。金にしないと、誰も学ばん」
ハルは頷いた。
(同情は、もういい)
必要なのは、同情じゃない。
次を守る段取りと、値だ。
そして――
奥で鑑定されている、あの布包み。
薄鐘より希少で、薄鐘より面倒で、薄鐘より高い。
そういうものほど、“管理”が要る。
管理するのは、工房だ。
手順を踏ませるのも、工房だ。
ハルはただ、黙って“出す量”を決める。
その決める権利を、今日、少しだけ取り返した。




