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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第26話 商い


夜の帳面を閉じたあと、ハルはしばらく机に残っていた。

灯りは油皿一つ。火は小さく、部屋の影が濃い。


売れた。

薄鐘の袋も、縄物も、工房の顔も立てた。

回り始めた。――回り始めたからこそ、見えるものがある。


治療院はルールを犯した。尾行までした。


令嬢の顔は見ていない。


治療院の裏は薬の匂いが濃く、白布と箱が行き交うだけだ。

見えるのは、箱の角の欠けと、運ぶ者の手元と、親方の顔色――それだけ。


それでも、分かったことがある。

あれは“可哀想”で片づける話じゃない。

誰かが手順を踏まなかったせいで、傷が深くなっている。


(同情は薄れた。けど……)


ハルは指先で、銅貨の端をなぞった。

冷たい金属の感触が、妙に現実的だった。


商売は、腹を満たすためにやる。

そう思っていた。ずっと。


だが、工房で聞いた声。

壊れた姿写し。


あれは誰かの暮らしの、端を折る。


(……俺は、何を売ってるんだ)


答えは出ない。

出ないまま、手は動く。帳面を整え、次の段取りを書き足す。


三の納品。

五の市。

ユマ――加工、半日から一日へ。

オウ――二運び、必要なら解体も。

リツ――三と五、固定。釣り銭と帳面、預ける。


文字の並びが、ようやく“商い”の形になる。

形になったところで、胸の奥に空洞が残る。


空洞の底で、あの筒が――微かに匂った。


棚の奥。布で包んだ金の筒。

触れなくても、鼻の奥に熱が刺す。金属じゃない、乾いた甘さ。


(また、呼んでる)


ハルは立ち上がった。

外はまだ暗い。冬の夜明け前だ。


壁際に置いたリュックを引き寄せ、道具を確認する。

短い刃。縄。小袋。

薄鐘用の小さな布袋――“出す分”だけを入れるための袋も、別に用意した。


余計は持たない。

余計を持てば、余計が漏れる。


戸を開けると、冷気が頬を打った。

雪は積もらない土地だが、空気は固い。骨の芯が鳴るように冷える。


裏路地を抜ける。

灯りの少ない町は、音が少ない。

犬の遠吠えも、今は聞こえない。


ギルドへは――まだ早い。

今日は森が先だ。


“薄鐘”は遠い。

あれだけのために一日が潰れる。

だからこそ、段取りが要る。


(……誰かの幸せを願うことが、売り上げに繋がる)


ふと、思った。

見返りを期待するほど綺麗な気持ちじゃない。

それでも、顔を戻せるなら戻してやれ、と思った瞬間が確かにある。


それは善意じゃなくてもいい。

商売の顔だ。

相手が生きて、動けて、暮らせれば、金は回る。


(俺の腹だけ満ちても、町は回らないのかもな)


その考えに、少しだけ寒気がした。

自分がいい人になった気がして。違う。そんなのは嘘だ。


ハルは歩く速度を上げる。

余計なことは、森で切る。


町の外れ、切れ間へ向かう道。

霜が降りた草が白い。踏むと小さく鳴る。


切れ間へ出ると、いつもの影がいた。


木陰の奥。

銀の毛並み。動かない巨体。

立っているだけで、景色が変わる。


ガルム。


ハルは息を整え、声を出す前に一度だけ舌で唇を湿らせた。

言うのが怖い。

だが、言わないと始まらない。


「……来た」


『来たな』


ガルムの声は低い。眠気も、優しさもない。


ハルは筒の包みを指で押さえた。

匂いが、薄く強くなる。


「筒が……また匂う。前と同じじゃない。遠い」


『遠いな』


それだけで、ガルムは分かっている顔をする。

いや、顔は変わらない。ただ、鼻先がわずかに動いた。


ハルは言った。


「今日は、森に入る。薄鐘の分を“少し”だけ採る。出すのも、少しだけだ」


『当然だ』


「治療院が……付けてくる。たぶん」


ガルムは一拍おいて、低く息を吐いた。


『付けるだろうな。手順を踏まず、嗅ぎ回る。あれはそういう口だ』


ハルは眉を寄せた。

工房経由で筋を通すと言いながら、裏で嗅ぐ。

それが腹立たしいのに、今さら怒っても仕方ない。


「巻けるか」


『巻く。だが――』


ガルムの目が細くなった。


『次からは、森の話をするなら準備してから来い』


言葉は短い。

叱るでもなく、ただの条件提示だ。


ハルは頷いた。


「……分かった。今日は準備してきた。縄も、袋も、出す分の小袋も」


『それだけではない』


ガルムは鼻先を上げ、冬の匂いを嗅いだ。


『期限だ』


ハルの喉が鳴った。

来た。ここを入れたいと思っていた。逃げられない。


ガルムは動かずに言う。


『お前は言った。店を立てる。人を使う。段取りを組む。

だが、“いつまで”がない。

いつまで手伝えばいい』


ハルは言葉を探した。

逃げる癖が、背中の中で疼く。


だが、ここで曖昧にしたら、ガルムは動かない。


「……一年」


自分で言って、息が漏れた。

軽く言ったつもりはないのに、言葉が軽く聞こえるのが怖い。


ガルムが鼻先を動かす。


『一年で何をする』


ハルは噛んで、吐いた。


「一年で――店の形を作る。

工房と治療院の案件があっても、俺が折れない形。

森へ入る手を増やす。加工の手を固める。

……金貨に手をかける。技術書に届く足場を作る」


ガルムは黙って聞いている。


ハルは続けた。


「そのために、今日も頼む。

森の中で、獲物や荷を“人目につかないところ”まで運んでほしい。

森の出口の手前で止めていい。そこから先は人の手に渡す」


ガルムが低く唸った。拒否ではない。考える音だ。


『対価は』


ここだ。

物では難しい。

金は意味がない。

ガルムは自分で獲れる。


ハルは筒の包みを一度だけ握った。


「……約束を守る、必ず。

一年で形にする。

俺が店を持てたら、お前は好きに旅立てる。

……それまでは、俺は逃げない」


言ってしまった。

逃げないなんて言葉は、普段の自分からは出ない。

でも、出した。


ガルムは少しだけ鼻で笑った。


『逃げるかどうかは、お前が決めることではない。

逃げ道がなくなった時、逃げないなら――それは“形”になる』


そして、淡々と条件を積む。


『一年。

その間、私は森の中で手を貸す。

ただし三つ守れ』


ハルは頷く。


『一、森の場所は人に言うな。

二、工房の口も治療院の口も、余計に増やすな。

三、雇うならギルドを通せ。裏口は使うな。――耳が増える』


ハルは短く息を吐いた。


「分かった」


ガルムが一歩、ハルの横へ出る。

巨体が木陰から外へ出ただけで、空気の温度が変わる。


『行く。獣道を使う』


「獣道?」


『人の足が迷う道だ。迷えば付けない。

付けられたなら、足を折る』


言い方が物騒だが、意味は分かる。

足を折る――追う足を折る。距離を折る。道を折る。


ハルはリュックを背負い直した。

肩紐のきしみが、冬の静けさに妙に響く。


「……薄鐘は少量だけ採る。出すのも少量。

工房に渡す袋も、小さい袋だけだ」


『よい。

出せば、また嗅ぎ回る。

嗅ぎ回れば、また巻く。――同じだ』


ガルムが歩き出す。

足音がしない。

雪のない冬の森なのに、地面が音を飲み込む。


ハルはその背中を追い、胸の奥で小さく言った。


(商売ってのは……誰かの幸せを願うこと、か)


願うだけじゃ足りない。

願って、段取りを組んで、守って、取って、出す。


それを続ける。――一年。


森の入口が、闇の端を開く。

ガルムが振り返らずに言った。


『遅れるな。付けられる前に、先に折れ』


ハルは頷き、足を踏み出した。


今日は、ただ拾いに行く日じゃない。

約束と段取りを背負って、取りに行く日だ。

ガルムとの契約期限

残り、317日。

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