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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第25話 鏡の部屋


◆伯爵邸


屋敷の音は、春に向けて忙しかった。


針の音。布を払う音。箱を開ける音。

廊下を行き交う侍女たちの声は明るいのに、どこか慎重で、笑いが短い。


鏡のある部屋だけ、空気が違う。


厚いカーテンは昼でも閉じられ、香を焚いても甘さが届かない。

令嬢は椅子に座ったまま、顔を覆う薄布を外せずにいた。


壁際の長い箱――仕立て上がった舞踏用のドレスが収まっている。

縫い目は完璧で、宝石も留められている。

けれど箱の蓋は開かれない。開ければ、春が来てしまう。


本当は、その箱を眺めるだけで胸が浮いた。

誰に言うでもないのに、夜になると一人で指を重ねて数えた。

あと何日。あと何度眠れば、あの人に会える。


婚約は政ごとじゃない。

初めて顔を合わせた日、相手が自分の名を呼んだ――ただそれだけで、息が詰まった。

礼の言葉も、笑い方も、視線の置き方も、全部が眩しくて。

帰り道、馬車の揺れが止まっても心臓だけが止まらなかった。


だから、決まったと聞いた時は嬉しすぎて泣いた。

好きな人と結婚できる。

そんな幸運が、この世にあるんだと信じた。

表に出せば軽いと思われるから、隠して。

隠したまま、ずっと温めてきた。


――それが今、薄布の向こうで砕けた。


「……会えない」


令嬢は小さく言った。

頼みでも愚痴でもなく、事実として。

「こんな顔で。あの人の前に立てない」


薄布の内側は、息があたたかい。

それだけで頬が疼く。


指先でそっと、傷の端をなぞった。

触れるたびに、皮膚が“そこだけ”違う硬さで返してくる。


頬の高い位置から口角の脇へ――線が一本、ではない。

線の周りが薄く盛り上がっている。細かな段があり、色がまだ落ち着かない。赤みと、紫がかった影が混じる。


笑おうとすると引っかかる。

口角が上がる途中で、そこだけが先に突っ張って、痛みが遅れて追いかけてくる。


夜になると、そこだけぬるくなる。

火傷の痕がうずくのに似ているが、違う。

もっと芯が深い。

皮膚の奥に冷たい針が埋まっているみたいに、じわじわと痛む。


医師は「治りかけです」と言った。

でも、これは治りかけの匂いじゃない。

治ろうとしているのに、何かが邪魔をする。

魔道具の事故――魔力が絡んだ傷は、肌の上だけで終わらない。

治った“ふり”をして、内側に残る。


だから薄布を外せない。

痕が残るのが怖いんじゃない。

この引き攣れたままの顔で、声をかけられるのが怖い。


化粧で隠せるか、何度も試した。


白い粉は、頬の上でいったん均一になる――ように見える。

けれど、少し顔を動かした瞬間、割れた。


盛り上がった縁が先に乾く。乾いたところから細い筋が走る。

逆に溝の部分は粉が沈む。沈んで溜まって、影になる。

ならそうと指でならせば、境目が立つ。

平らにしようとするほど、平らじゃないことが露になる。


「もう少し……重ねますか」


その声が優しいほど、胸が冷える。

重ねれば厚くなる。厚くなれば、割れやすくなる。

笑えば溝に溜まり、黙れば縁がひび割れる。


隠せない。

化粧が負ける。

鏡の中の自分だけが、先に諦めていく。


「……やめて」


声が掠れた。

声を出しただけで頬が動く。動けば割れる。割れれば見える。


隠すための手が、逆に見せていく。

化粧は味方じゃない。鏡の前では、敵だ。



事故が起きた日。


鏡台の前だけが明るい。

姿写しが淡く唸り、肌の色を“正しい昼”に寄せていく。


彼の目に映るのは、この顔だ。

だから、最後までやり切らないといけない。


侍女が言った。

「輪郭を立てます。仕上げです」


光が一段、硬くなる。


(綺麗になりたい)

ただそれだけだった。好きな人の前に、綺麗なまま立ちたかった。


娘は、姿写しの縁に指を置いた。

自分で確かめたかった。――ほんの少し、角度を変えるだけ。


その瞬間、芯が小さく鳴いた。

ぱき、と乾いた音。


光が跳ねた。


熱じゃない痛みが、頬の内側から裂ける。

指の間に温いものが増える。血の匂い。金属の焦げた匂い。


侍女の叫び声が遠い。

娘の頭の中には、ただ一つだけ残った。


(間に合わない)


結局、壊れた姿写しは木箱に入れられ、釘で止められた。

逃げるみたいに。見ないために。


翌朝、箱は治療院へ運ばれた。

治療院が診たのは娘の顔だけじゃない。“壊れた道具”のほうもだった。



◆治療院 事故直後


治療院の医師は、箱の釘穴から漏れる微かな光を見て、眉を寄せた。

「……うちでは触れない。工房へ回せ」


「でも、早く直さないと――」


「直す道具じゃない。触れば傷が深くなる」


言い切って、蓋を閉めた。


「工房の縄を切られたら、こっちも食えん。手順を踏め」


その言葉どおり、箱は“工房”へ渡った。


◆工房 事故当日


工房の親方は、箱を見た瞬間に顔色を変えた。


「……姿写しか」


釘を抜き、蓋を外す。

白布をめくり、芯が露わになった。


親方は指を伸ばさない。近づかない。

獣の死骸を見るみたいに、距離を測っている。


「治療院が触ったのか」


弟子が言い淀む。

親方はそれだけで察した。


「馬鹿が。芯は“落ち着かせて”運ぶもんだ。急げば残り火が暴れる、離したところでだ」


布越しに縁金へ軽く触れた。

ぴり、と空気が鳴った気がした。


「……顔の傷が治らんのは、これだ。奥がまだ燃えてる」


親方は息を吐き、箱を閉めた。釘を仮止めする。


「この傷を“落ち着かせる手当て”が要る。だが、今ここで口にするな」


弟子が顔を上げる。


「名と扱いを確かめろ。鑑定筋へ回せ。――うちの手順でな」


「治療院には?」


「勝手に触らせるな。筋を通せと言え。箱ごと預かる」


弟子が頷き、箱を抱えて奥へ下がる。

親方は独り言みたいに言った。


「……誰だ。こんなものを工房へ回せる“口”を持ってるのは」


◆治療院 事故発生から2週間後


治療院の奥。薬の匂いの濃い部屋で、別の包みがほどかれた。


ハルが工房を介して鑑定に出した素材だ。


薄い欠片。

光はないのに、触れた指が一瞬だけ冷える。


窓口の療養士が、一度だけ息を止めた。


「……薄鐘」


名を口にした途端、部屋が少し静かになる。

珍しいからじゃない。扱いを間違えれば、効きすぎるからだ。


薄鐘は、傷を“埋める”ものじゃない。

盛り上がった肉を押し込む薬でもない。

傷の縁に残った熱――魔力の残り火を冷まし、引き攣れをほどく。


魔道具の傷は、見た目より奥が焼ける。

治りかけのところで、内側が暴れる。


その暴れを止める。

それが薄鐘だ。


療養士は小さく息を吐き、量った。

ほんの少しで足りる。ほんの少しで、足りすぎる。


「……これで、まず“痛み”が落ちる」


誰に言うでもなく呟いた。



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