第23話 少量の袋
工房へ戻ると、炉の熱が頬に当たった。
鉄の匂いと、油の匂い。外の冷えが薄れる。
親方は奥へ行き、扉の鍵を外した。
弟子に目で合図して、邪魔を追い払う。
「こっちだ」
奥の物置は暗かった。
棚の上に、布をかけた壺が一つ。
他の道具より、扱いが丁寧だ。――放置じゃない。寝かせている。
布をめくる。
胴は厚い陶。口縁に金具。
ただの壺に見えるのに、近づくと肌が少し冷える。
炉の熱の中で、それだけが違う。
「冷封壺。医療用の下取りだ」
親方が指で金具の刻印をなぞった。
古い。だが、刃こぼれのない古さだ。
「治療院の新品みたいなもんじゃねえ。
だが、効きを“少し伸ばす”なら、これで足りる」
ハルは喉の奥で唾を飲み込んだ。
「どれくらい伸びる」
親方は答えを急がない。
壺の縁を軽く叩き、耳で鳴りを確かめる。
底に手を当て、冷えの戻りを測る。
「……中身の質と、量と、詰め方次第だ。
だが、薄鐘なら――二日、三日は無理をしない。四日以上は“賭け”になる」
「二日か三日」
「ただし、手を入れる。
芯石が痩せてる。封の革も硬い。――整えりゃ、三日寄りにはできる」
親方は壺の金具を外し、内側の溝を見せた。
乾いた粉が薄く残っている。
昔の薬の名残だろう。
「掃除。封の張り替え。芯の調整。
“預かる”以上、こっちも責任を負う」
ハルは頷いた。
責任という言葉が、ここでは重い。
「……それで、出す上限を決める」
親方は目を細めた。
「上限の決め方は単純だ。
“壺が守れる量”まで。守れねえ量は、持ってても腐る」
ハルは頭の中で、薄鐘の袋の数を並べた。
採れる量。運ぶ手間。森へ入る日。治療院の要求。
その全部に、壺の“日数”が噛む。
「三日寄りにできるなら、三日分を一単位にする。
一単位以上は出さない。……治療院には、“遠いからこれだけ”で通す」
親方は短く頷いた。
「それでいい。
向こうは急ぐ。だから、数を欲しがる。
だが“急がせる”のは、こっちだ」
親方は壺に布をかけ直し、言った。
「で、賃料だな」
ハルは少し構えた。
工房も仲介で儲けている。
ここで取られても文句は言えない――はずだった。
だが親方は、肩をすくめる。
「大金は要らねえ。こいつは下取り品だ。
売るにも売れず、寝かせてた。回るなら回した方がいい」
言い方が、商人じゃなく職人だ。
“使われる”ことが、道具の価値だと言っている。
「ただ、手間は手間だ。
封は替える。芯石も削る。壊したら終わりだ。――そこだけ払え」
ハルは静かに息を吐いた。
「いくらだ」
親方は少し考え、指を二本立てた。
「ひと月で銅貨二十。……それで、こっちが面倒を見る。
薄鐘の預かりと一緒にやる。治療院には言うな。
壺の存在を嗅がれたら、値の主導権が移る」
「……銅貨二十」
ハルの胸の中で、計算が走る。
今の稼ぎなら、払える。
払っても、戻りがある。何より“首輪”を握れる。
「それでいい。
ただし、壺を使う間は工房に置く。持ち出さない」
親方は頷く。
「持ち出すな。工房の縄を切る真似はするな。
預けるなら、預けたまま回せ。――外で壊したら、俺が困る」
ハルは短く返した。
「分かってる。工房で預ける。
出すのは小袋だけ。期限は“三日以内”の顔で押す。
実際は壺で三日寄りに伸ばす」
親方が鼻で笑った。
「やっと“汚え顔”ができるようになったな」
褒め言葉じゃない。
だが今のハルには、それがちょうどいい。
「……やる」
親方は最後に、壺の上へ手を置いた。
「じゃあ段取りを決める。
いつ持ち込む。いつ治療院へ渡す。
“壺が冷えてる時間”に合わせろ。――勝手に動くな」
ハルは頷き、帳面を取り出した。
今日から、薄鐘は“走って取るもの”じゃない。
“回して出すもの”になる。
※
夜明け前の森は、音が少ない。
少ないぶん、ひとつ増えた音がよく分かる。
――同じ間合いで、枝を踏む。
ハルは歩幅を変えないまま、息だけを浅くした。
気づいていないふりをする。気づいた顔をした瞬間、向こうは“確信”に変える。
切れ間に出ると、ガルムがいた。
木陰の奥、銀の毛並み。鼻先が、先に空気を裂いた。
『……来ているな』
小声だった。
小声だから、余計に嫌だった。
「……うん」
昨日、治療院は「もうしない」と言った。
――なら、この足音は誰だ。
どこで嗅ぎつかれた。工房か。市か。ギルドか。
思考が走るぶん、胸の奥が冷える。
ハルは、背中の荷を握り直した。
薄鐘の場所は、近くない。前に一度、遠出して、戻ってきた場所だ。
また尾行を巻いてあそこへ行くのか、と思うだけで胃が重い。
けれど、出す量は決めた。出す分だけ。あとは――黙る。
ガルムが、風を嗅ぐ。
一拍。
『……面倒だ』
吐き捨てるような声。
怒りじゃない。苛立ちでもない。
“雑に片付ける”と決めた声だ。
「巻けるって――」
言いかけた瞬間だった。
ガルムが、半歩詰めた。
巨大な影が落ちる。
次の瞬間、ハルの体がふわりと浮いた。
首根っこ、じゃない。
服の襟と、背負い紐のあたりをまとめて噛まれた。
痛みはない。けれど、息が詰まる。
「う、わ――」
声が途切れた。
足が地面を離れると、人はあっさり黙る。
ガルムは走った。
森の中なのに、枝を折る音がほとんどしない。
獣道の筋を拾って、根を避け、石を踏まず、土の柔らかいところだけを選んでいく。
木々が横に流れる。闇が後ろへ置き去りになる。
ハルは、振り子みたいに揺れながら、歯を食いしばった。
腹が持っていかれる。
胸の中身が、遅れて追いつく。
――これ、人間は追えない。
追う以前に、どこを通ったかも分からない。
音が残らない。足跡も、残らない。
ただ、森が一瞬ずつズレていくだけ。
風が冷たい。
鼻の奥が痛い。
涙が出るのは寒さのせいだと思いたかったが、たぶん違う。
どれくらい走ったのか、分からない。
時間の感覚が、置いていかれた。
ガルムがようやく止まったのは、森の奥――ではなかった。
森の“癖”が変わる場所。
木が痩せ、地面が固くなり、岩が増える。
獣道が細くなって、人の足が嫌がる地形。
ガルムは、ぶっきらぼうにハルを降ろした。
降ろす、というより落とすに近い。
ハルは膝をつき、土を掴んだ。
「っ……げほ……」
咳が出た。
肺が怒っている。
心臓がまだ走っている。
ガルムは振り返りもしないで、言った。
『ここから先は歩け』
「……雑……!」
声が裏返った。
文句というより、呼吸の余りだ。
ガルムは鼻で笑った。
『文句が言えるなら生きている。――尾は切れた』
ハルは背中を丸めたまま、耳を澄ました。
さっきまで背中に貼りついていた“気配”がない。
代わりにあるのは、風と、岩の冷えと、遠くの水の音。
「……ほんとに?」
『追う者がいるなら、匂いが動く。
今は動かぬ。――あいつらの足は、ここまで届かん』
“足”。
人の足。
人の執念。
そこまで言われて、ようやく背中の汗が冷え始めた。
ハルは立ち上がる。
足がふらつく。
荷が重い、というより、自分の中身が追いついていない。
「薄鐘の場所、遠いんだよな……」
独り言みたいに漏れた。
遠い。
遠いほど、尾けを嫌う者には面倒だ。
ガルムがちらりとこちらを見る。
『だから走った。
……おまえが巻けぬなら、我が巻く。
一年のうちに“自分の足”でやれるようになれ』
言い方はきつい。
けれど、そのきつさに、変な優しさが混じっている気がして、ハルは目を逸らした。
「……分かってる」
分かっている、で済ませるのはずるい。
けれど今は、肺がまだ痛い。
ガルムが先に歩き出す。
獣道じゃない。獣が“嫌がる”道――岩の肩、崩れた斜面、木の根が露出した細い筋。
人間は転ぶ。荷も落とす。
それでも、ここは匂いが残りにくい。
ハルは、息を整えながら付いていった。
踏み外さないように。
音を立てないように。
(……薄鐘は、出す分だけ)
思い出す。
工房に渡す分。治療院の顔を立てる分。
それ以上は、黙って底へ。
森は静かだ。
静かだから、欲の音がよく聞こえる。
ハルはそれを噛み潰して、足を前に出した。
※
岩が増え、木が痩せたあたりで、匂いが少しだけ変わった。
薄く、乾いているのに、金属みたいに冷たい。
ガルムの背中が止まる。
『ここだ』
ハルは返事をせず、息だけを整えた。
ここまで来るのに、体がまだ追いついていない。
指先が白い。握りしめすぎている。
岩の肩。割れ目。砂が溜まった窪み。
目で探すのは遅い。
筒の匂いを頼るのは、まだ下手だ。
だが、今日は下手でもやる。期限がある。
ハルは筒を掌で包み、息を吐いた。
封を緩める。ほんの少し。
匂いが、細く立つ。
筋が、岩の縁へ引かれる。
(……ある)
岩の割れ目に、薄い“膜”みたいなものが貼りついている。
光は昼の目には鈍い。だが、近づくと分かる。
石の肌とは違う、わずかな浮き。
ハルは膝をついた。
刃は使わない。刃は、欠けを作る。
薄鐘は欠ける前に散る。散ったら拾えない。
指の腹だけで、端を捻る。
ゆっくり。
根元を殺さない。
膜が糸のように伸び、最後にぷつりと切れた。
掌に残るのは、欠片というより“薄い片”。
ハルはそれを袋へ落とし、同じ手つきでもう一枚。
もう一枚。
袋の底に、軽い音が溜まっていく。
軽いのに、落とすたび心臓が重くなる。
(取れるだけ取れ)
頭が言う。
(でも、出すのは少しだけ)
もう一つの頭が言う。
治療院は工房経由と言いながら尾けた。
尾けた連中に、量を見せるのは餌だ。
餌を撒けば、次はもっとしつこくなる。
場所が遠いほど、しつこさは恨みに変わる。
ハルは袋の口を一度結び、ほどいて、また覗いた。
(……これだけで、十分だ)
“十分”は嘘だ。
十分じゃない。欲はまだ出る。
でも、ここで欲に負けたら、終わりが早い。
ハルは掌で袋を二つに分けた。
大きい方を深く結ぶ。
小さい方だけを、出す分として別にする。
(工房へは小さい方。
治療院へ回るのも、工房の顔で小さい方。
……大きい方は、保存機)
自分の中で、声に出さずに反芻した。
何度も。
呪文みたいに。
ガルムが鼻先を動かす。
『……終わりか』
「まだ。……もう少し」
言いながら、ハルは足元を見直した。
薄鐘とは別に、砂の中に“違う浮き”がある。
石の欠片。
さっきの薄い片とは形が違う。
硬い。薄くない。膜でもない。
なのに――筒の匂いが、一瞬だけ濃くなる。
鼻の奥が熱くなる。
あの、嫌に甘い熱。
ハルは喉を鳴らした。
(これ……前のやつと、同じ系統か?)
思い出す。
この前、遠出の帰りに拾った名もないもの。
岩に貼りついた、鱗の欠片みたいな光り方をするやつ。
それを二つとも、工房の檻――預かり棚へ入れた。
鑑定札をつけて、鍵の向こうへ。
“名がつくまで触るな”。
親方の目がそう言っていた。
(預けたのは、見本だ)
ハルは自分に言い聞かせた。
あれは“預け”。全部じゃない。
全部を手放したら、工房の気分ひとつで終わる。
ハルは、指先だけでその欠片を拾った。
冷たい。
軽いのに、落としたくない重さがある。
布に包むほど大げさにしたくなくて、
掌の奥、指の影に隠して、いちばん底の小袋へ滑らせた。
(……これは、今は出さない)
薄鐘の量を絞る代わりじゃない。
代わりにしたら、理由を作ってしまう。
これは、別口。別の怖さ。
ガルムが、低く言った。
『よい。
預けた分が“檻”にあるなら、今日は手元に残せ。
比べられる。……そして、逃げ道にもなる』
逃げ道。
その言葉が、生々しくて、ハルは口の中を噛んだ。
「……分かった」
ガルムが歩き出す。
『帰るぞ。
風が変わる前に戻れ。匂いは残る』
ハルは頷き、袋の重さを背中で確かめた。
小さい袋は表へ。大きい袋は底へ。
名もない欠片は、さらに底。
出す分だけを先に触れる位置に置く。
触れれば、心が揺れるから。
(出すのは少量だけ)
もう一度、頭の中で繰り返した。
今度は、少しだけ楽に言えた。
※
森を出るころには、東の光がもう薄く広がっていた。
ガルムは途中で踵を返す。いつも通り、言葉は少ない。
『ここまでだ』
「……分かってる。助かった」
返事はない。
銀の影が木々の間へ溶け、音もなく消えた。
ハルは肩の荷を背負い直し、町へ戻った。
背中の袋は二つ。
表に小さい袋。底に大きい袋。
触る順番まで決めてある。
(出すのは、少量だけ)
息と一緒に、頭の中で繰り返す。
※
工房の前は、いつもより人が少なかった。
それでも、視線はある。噂の匂いは、金より早い。
戸を開けると、油と鉄と、乾いた木の匂いが鼻を打った。
奥で槌の音が一つ止まり、親方が顔だけこちらへ向ける。
「早いな」
「……森が、早朝、暗いうちから出た」
言い訳みたいに聞こえるのが嫌で、ハルは言葉を切った。
代わりに、袋を作業台へ置く。
結び目は固い。固いまま出す。
親方は袋を見ただけで、すぐに手を伸ばさなかった。
先に、ハルの目を見る。
「今日は“どれだけ”だ」
ハルは小さい袋だけを指で押した。
音が軽い。
「樹脂の余りはこれだけ。工房の分」
親方の眉が、わずかに動く。
「……少ねえな」
「今日は場所が遠い。出す量を増やすと、足が付く」
嘘ではない。
遠いし、足も付く。
肝心なところだけは言わない。
親方は短く鼻を鳴らした。
「治療院の縄を切られたら、こっちも食えん。分かってるな」
ハルは頷いた。
だからこそ、工房の“顔”を立てる。
治療院に回るのも、工房の手柄にしてやる。
その代わり――工房はハルの口を守る。
親方がようやく袋を開ける。
中身を掌に受け、光の具合を確かめる。
昼の明かりの下では鈍い。だが、角度を変えると薄く返す。
「……質は落ちてねえ」
それだけ言って、親方は棚の方へ顎をしゃくった。
札を作る音。帳面をめくる音。
それから、銀貨の重たい響きが一つ、二つ。
「工房の分、いつもの値で受ける。銀貨で――」
ハルは息を殺して聞いた。
数字が出るたび、心臓が勝手に跳ねるのが腹立たしい。
「それと、薄鐘を預ける。回す方と、壺に」
冷封壺に薄鐘を数枚、指先でつまみ丁寧に並べる。
蓋を閉じる。
受け取りが終わると、親方は銀貨を机に置き、指で押し出した。
受け取れ、という圧だけがある。
ハルは銀貨を革袋へしまい、口を縛り直した。
縛る手だけは、もう迷わない。
親方が言う。
「治療院には、工房から回す。――お前は余計な顔を出すな」
「分かってる」
「それと」
親方の目が、ちらりと工房の奥――檻みたいな預かり棚へ向いた。
札が二枚、ぶら下がっている。
ハルが“名もないもの”を預けた場所だ。
「預け物、また増やすなら先に言え。棚が狭い」
言い方は雑だが、意味は重い。
預けた物は、工房が覚えている。
勝手に消えることはない。消えたら、工房の面子が死ぬ。
ハルは目だけで棚を見て、すぐに戻した。
「今日は増やさない。……まだ早い」
親方は鼻で笑った。
「そうだ。森の話をするなら、準備してから来い。
半端な段取りで持ち込むと、縄が切れる」
ハルは頷いた。
縄を切られたら、食えないのは、こっちも同じだ。
工房を出ると、冷たい風が頬を撫でた。




