第21話 獣道に混ぜる
冬の朝は、音が少ない。
少ないぶん、気配が浮く。
切れ間へ出ると、ガルムがいた。木陰の奥。銀の毛並みだけが、まだ暗い森で浮いて見える。
ハルは息を整えきらないまま言った。
「……今日は付けられる」
『治療院か』
「多分。工房の揉め方が、あれだ。探しに来る」
ガルムは鼻先をわずかに動かし、風を嗅いだ。返事は短い。
『ならば、こうしよう。獣道に混ぜる。人の歩幅を捨てろ』
ハルは頷いた。
付けられる前提で動く――それだけで、背中の硬さが変わる。
森へ入る。筒は開けない。今日は匂いを追う日じゃない。
追わせない日だ。
しばらくして、背の方で枝が鳴った。
薄い音。わざと消そうとした足だ。――やっぱりいる。
ガルムが、半歩だけ先に出る。
『左へ』
獣道は、人の道じゃない。
根がせり出し、石が浮き、土が滑る。足首を取ろうとする。
ハルはわざと足を乱し、転びそうな所へ踏み込んだ。普通なら避ける場所だ。
後ろの気配が、遅れる。
一度、止まる。二度、止まる。
斜面の崩れた所で、ガルムが急に間合いを変えた。
木の間を縫い、低い藪を割り、沢へ落ちる手前で折り返す。
ハルの肺が冷える。
冷えるのに、笑いそうになる。
――巻けた。
もう一度だけ耳を澄ませる。
追ってくる音がない。代わりに、遠くで別の枝が鳴った。探している音だ。
「……助かった」
『当然だ。付けられるなら、付けさせるな』
言い方が淡々としていて腹が立つ。
だが今日は、腹が立つだけの余裕がある。
※
樹皮の採取は、あっという間に終わった。
夜明け前の光は弱い。弱いから、発光は目に刺さる。
ハルの手はもう迷わない。拭って、分けて、湿りを飛ばす。欠けを避ける。
袋が工房分で満ちたところで、ハルは一度だけ手を止めた。
まだ動ける。指も、腹も。
――もう少しだけ。
工房の分とは別の小袋へ、縄物を少し。
多くは要らない。目立つほどは、要らない。
※
町へ戻る。
工房の裏口に入ると、熱と金属の匂いが戻ってきた。
親方は、目だけで袋を見た。
「いつものか」
「いつもの。……それと、少しだけ余り」
ハルは小袋を出した。
“余り”と言ったが、余りじゃない。わざとだ。
親方が袋を覗き、鼻を寄せ、指で転がす。
一拍置いて、口の端がほんの少しだけ上がった。
「……気が利く」
その二文字が、銀貨より重い。
今、工房は揉めている。治療院の連中が、工房の“口”を飛ばして素材を押さえたがる。
工房としては、勝手を許せば終わる。だが、断ち切れば仕事が減る。
面倒な綱の上で、ハルが渡したのは――工房の顔だ。
親方は銀貨を二枚、余分に置いた。
少ない。だが、少ないからこそ意味がある。金額じゃない、と言われている。
「こっちは“工房が取った”ことにする。治療院には、俺が回す」
ハルは頷いた。
自分が直接出したら、話にならない。工房の名義で回す。工房の縄張りで回す。
そのための“余り”だ。
「……助かります」
「礼は要らん。次、余計に揉める時は言え。森へ行く前にな」
親方の声は低い。叱っているようで、段取りを認めている。
ハルは小さく息を吐いた。
“商いの顔”を立てるのは、こういうことだ。
※
工房を出た帰り道、ハルは袋の底を指で確かめた。
いつもの樹皮の重さ。余分の銀貨。――そして、別の硬さ。
森の崩れた斜面で、あれを拾った。
追い手を巻いた折り返しの瞬間、岩の縁に、薄く鈍い光が残っていた。
粉じゃない。石でもない。
触れると、皮膚に冷たさが残る。
(……また、だ)
筒を開けなくても、鼻の奥が一瞬だけ熱くなる。
匂いが、ほんのひと呼吸だけ濃くなる。
ハルは布の端でそっと受け、包み、リュックの底へ滑り込ませた。
昼の目には、ただの欠片にしか見えない。
見られていない。
――そう思った瞬間に、心臓が遅れて鳴った。
ガルムの声が、後ろから落ちてくる。
『よい。あれはまだ“口”では出すな。早すぎる』
「……分かってる」
分かっている、と口で言いながら、分かっていない自分もいる。
それでも、包みは握り直した。
この欠片が、何になるかは分からない。
ただ――金の匂いだけは、嘘をつかない。
※
店は、回り始めていた。
朝、リツが布を張る。
瓶を並べ、札を立て、釣り銭の巾着を指で確かめる。
声は大きくない。けれど、途切れない。
ユマは裏で手を動かす。
脂は先に。肉は塩へ。皮は削り、骨は削り、細い道具に変える。
火の強さを見て、湯の匂いで時間を測る。言葉が少ないぶん、手が早い。
オウは運ぶ。
荷車を転がす音が、町に馴染んでいく。
縄は二重。布は噛ませる。板は敷く。
力仕事の顔で、段取りを崩さない。
ハルは――その隙間に、森へ入れるようになった。
三人に任せている間、息がつける。
息がつけると、怖さが戻ってくる。
余裕ができると、余計なものまで見えてしまう。
※
工房の裏口は、いつも通り熱かった。
だが、いつもより静かだった。
親方は袋を受け取り、手早く量を確かめる。
銀貨を置く。いつもの流れ。
「……治療院が、また来た」
置かれた銀貨より、その一言の方が重い。
「揉めてるんですか」
「揉めてる、という言い方は違う。――“急いでる”」
親方は言葉を選んで、それだけ言った。
選ぶということは、言えない事情があるということだ。
「貴族筋で、道具の事故があったらしい。顔をやった、とだけ聞いた」
顔。
その二文字が、ハルの腹を冷やした。
傷は治る。だが、顔の傷は“治る”だけじゃ済まない。
親方は続けた。
「材料を押さえたい。口を飛ばしたい。そういう話だ。
だが、口は工房の縄でもあり、切られたら、こっちも食えん」
「……俺が出すと、まずいですね」
「当たり前だ。お前が表に出たら、治療院が森へ付く。
工房の顔も潰れる。お前の首も危うい」
ハルは頷いた。
今日、付けられた――という感触が、ここで繋がる。
「余計は、また持って来る。少しだけ」
親方は鼻で笑った。
「少しでいい。少しが効く時がある」
※
ギルドへ戻る道すがら、ハルは人の顔を避けて歩いた。
避けても、視線は当たる。荷車が通る。瓶が売れる。帳面が増える。
稼ぎが形になるほど、町がこっちを見る。
窓口の前で、治療院の使いらしい男が立っていた。
白い布。薬の匂い。視線だけが鋭い。
ハルは知らないふりをした。
相手も、知らないふりをした。
――ふり、の中で測っている。
すれ違いざま、男の袖から乾いた薬草の匂いがした。
そして、一瞬だけ。
焦げた鉄みたいな匂い。
血の匂いじゃない。火傷の匂いに近い。
(顔……)
ハルは歩幅を変えずに通り過ぎた。
胸の奥で、金の筒がないのに、あの匂いの熱だけが蘇る。
店は回り始めた。
だからこそ――次の厄介も、回り始める。
※
翌日。
工房の戸を押すと、いつもの匂いがした。
木屑と油。熱した鉄の名残。粉じんの苦さ。
ハルは荷を下ろし、札を出した。
言葉は少なく。余計な顔をしない。最近ようやく、それができるようになってきた。
帳面の脇で、親方が指先だけ動かす。
数える音が、乾いて短い。
「……よし」
銀が二枚と、端数の銅が落ちた。
工房の取り分は抜かれている。抜かれているが、揉める気はない。
揉めたら“縄”が切れる。切れたらこっちも食えない。――それも、もう分かった。
親方は銀を渡しながら、わざとらしくない間で言った。
「治療院が、うちに噛みついてきてな」
ハルは手を止めなかった。
銀を袋へ滑らせ、口を縛り直す。顔だけで頷く。
「……何で揉めるんです」
「向こうは“数”が要る。こっちは“質”が要る」
親方は鼻で笑う。笑い方が硬い。
「上の家の娘が、顔をやったらしい。跡が残ると困る家だ。
治療院は焦る。焦れば、雑に集めろと言い出す。――それで揉める」
ハルの喉が小さく鳴った。
顔。跡。困る家。
それだけで、金の匂いがする。嫌な匂いじゃない。ただ、面倒の匂いだ。
「樹脂ですか」
「樹脂だけじゃ足りねえ。治療院が欲しいのは“性質”だ」
親方は帳面を閉じ、言い方を変えた。
「薄く塗れて、固くならねえ。
塞いでも突っ張らず、赤みが引く。……そういうものだとよ」
薄く、固くならない。
ハルの頭の奥で、別の感触が動いた。
リュックのいちばん底。布の中。
昼に見れば、ただの鈍い石片。
けれど筒は、あれにだけ一瞬、匂いを濃くした。
(……似てる)
そう思った瞬間、自分の考えにぞっとした。
似ているだけで、渡せるものじゃない。
渡した途端、場所が死ぬ。
ハルは言葉を探した。
口が勝手に動きそうになるのを、歯で止める。
「親方。相談があります」
親方の目が上がった。
鋭いが、驚かない目だ。工房の目。
「言え」
ハルはリュックをほどき、底を探る。
布包みをひとつ。指先だけで取り出す。
包みを開くのは、工房の影に入ってからにした。
外でやれば、目が寄る。
布をほどくと、欠片が二つ、転がった。
薄い。角が立っていない。樹脂みたいな脆さがない。
親方は手を伸ばしかけて、止めた。
代わりに、木べらでつつく。職人の癖だ。
「……これは、樹脂じゃねえな」
「場所は言えません」
ハルは先に言った。
声が乾く。けれど言った。言えた。
「言ったら終わる。俺の“口”も、親方の“口”も」
親方は一拍だけ黙り、鼻で息を吐いた。
「……いい。筋は分かる」
木べらが欠片を押す。
薄いのに、粉にならない。
親方は指で触れず、目と道具だけで確かめる。
「熱を入れても割れにくい。
油にも水にも、馴染まねえ……膜になるかもしれん」
ハルの背中に、冷たい汗が出た。
膜。
治療院の言っていた“薄く塗れて固くならない”に、ぴたりと重なる。
「……俺は、これを売りたいわけじゃないです」
思ったより素直な声が出た。
ハルは言い直す。
「いや、売りたい。売りたいけど――勝手に売りたくない。
筋を通したい。親方の口を汚したくない」
親方が、初めて少しだけ口角を上げた。
「ほう。商人らしくなったじゃねえか」
褒め言葉じゃない。
試しの言い方だ。けれど、悪くはない。
親方は欠片を布ごと包み直し、掌で押さえた。
「預かる。治療院には、うちから話を回す。
おまえが直接行くな。顔が割れる」
「はい」
「代金は――まだ決めねえ。
まずは“使えるか”を向こうが確かめる。
使えるなら、相応に払わせる。使えねえなら、ここで終わりだ」
ハルは頷いた。
終わりでもいい。
終わりなら終わりで、場所は生きる。
親方は最後に、釘を刺すように言った。
「ひとつだけ。次からは、森の話をするなら準備してから来い。
治療院が焦ってる時期だ。耳が増える。――おまえの“口”もな」
ハルは短く息を吐いた。
「……分かりました」
工房を出ると、空は冬の色をしていた。
白く、薄い。光が冷たい。
リュックの底が、少しだけ軽い。
代わりに、胸の内側が重い。
(これで、動く)
動かしてしまった。
もう戻れない――というほどじゃない。
だが、戻る気が薄くなったのは確かだった。
ハルは袋の口をもう一度縛り直し、町の方へ歩き出した。
ガルムとの契約期限
残り、319日。




