第20話 工房の影
固定で回し始めて、ひと月。
最初の一週は、毎日が綱渡りだった。誰が来る日で、誰が来ない日で、何を先に作って、何を後に回すか。帳面の端が擦り切れるほど書き直した。
だが今は、形になっている。
三の日と五の日は、リツが店に立つ。
釣り銭の袋も、値札の列も、もう“預ける”じゃない。“任せる”に近い。
閉めたあとの銅貨の数が、ぴたりと帳面と合う。それだけで、肩の力が抜ける日が増えた。
ユマは朝から台所の匂いを立てずに手を動かす。
腐るものは先に。骨は乾かし、皮は寝かせ、油は濾す。
作業台の上で、材料が商品になっていく速度が、前より一段早い。
オウは荷車を引く。
森の外で待つのが仕事だった男が、今は工房までの道も覚えた。
親方の目の前で余計な口を利かず、印札を見せて、銀貨を受け取って帰ってくる。
一度それが出来た日から、ハルの手はようやく“森”に戻った。
――だから、今朝は静かだった。
夜明け前。
筒を両手で包む。息を吐く。肩を落とす。腹の温かさを掌へ落とし、押さずに流す。
一回目、冷たい。
二回目、ほんの少しぬるい。
三回目。匂いが立った。薄いのに、確かに鼻の奥を掠める。
細い筋が一本、森の方へ伸びた。
前は芽だった。今は“道の影”みたいな形になっている。
「……よし」
声に出すと、気持ちが落ち着く。
焦って噛ませると、また戻る。だから急がない。急がないための段取りを、ようやく作れた。
そこへ、工房帰りのオウが言った。
「親方がな、治療院の連中と揉めてた」
ハルは顔を上げた。
「揉めてた?」
「材料が足りねえってさ。……樹脂だけじゃない」
オウは荷車の柄を叩いた。
「工房ってのは魔道具だけ作ってるわけじゃねえ。治療院が使う小物も回してる。
傷口を焼かずに塞ぐ留め具だの、消毒箱の継ぎ目の封だの、針具の柄だの――ああいう“濡れると困る”道具の腹に、封止が要る」
ハルは思わず眉を寄せた。
工房の熱と鉄の匂いは覚えているが、“治療院の道具”までは頭になかった。
オウは続けた。
「で、急ぎが出た。数が要る。納期も短い。
親方は親方で、魔道具の仕事を止められねえ。向こうは向こうで『人の顔だ』って言う。
――優先順位で揉めた、ってだけだ」
「顔……」
「詳しくは言わねえ。上の方の話らしい。口にするなって言われた」
オウは肩をすくめた。面白がっているわけじゃない。面倒に触れたくないだけの仕草だ。
オウが荷車の柄から手を離す。
「……で。今日も森か」
「行く。店は回ってる」
言い切ると、自分でも少しだけ驚いた。
前なら「回ってるはず」と濁した。今は、回る。回す。
オウは鼻で笑って、去っていった。
笑いに馬鹿にする色はない。確認みたいな笑いだ。
ハルは家に戻り、作業場の戸を開けた。
木屑と油の匂い。乾きかけの皮。骨の白。
ユマが手を止めずに言う。
「工房、揉めてたんでしょ」
「知ってるのか」
「噂じゃないよ。ああいうのは、職人の手元に先に落ちる」
ユマは骨針の先を布で拭き、淡々と続けた。
「急ぎが出ると、材料の質まで揉める。
“上物を治療院に回せ”とか、“こっちは魔道具が先だ”とか。
……親方は、どっちも止めたくないんだろうね」
ハルは返事をせず、棚の瓶を確認した。
防水油の小瓶。塩漬け肉の包み。骨の留め具。皮の端切れ。
並ぶ量が増えたせいで、逆に足りないものが目につく。
“守り”が薄い。
何かが起きたとき、跳ね返す札がまだ少ない。
「今日は工房にも寄る。納める」
「いつも通り?」
「いつも通り。……ただ、顔を見せる」
ユマが一瞬だけ目を上げた。
それだけで、言いたいことが伝わった。
――揉めてる時ほど、顔を見せろ。
言葉じゃなく、立ち方を覚えさせろ。
ハルは外套を羽織り、革袋を確かめ、筒を胸の内側へしまった。
底に、硬いものが当たる。
布に包んだ、あの欠片。
薄い光の先で拾った、“石片にしか見えないもの”。
(……まだ、早い)
ガルムの声が、思い出の形で残っている。
売る口がない、じゃない。
売れば、口が増えすぎる。耳が増えすぎる。
だから今は、黙って持つ。
⸻
工房街は、朝でも熱が残っていた。
炉の赤が消えきらない匂い。金属粉。油の焦げ。
裏口の扉を押すと、若い男が顔を出した。
昨日までなら、そこで一瞬、足が止まっていた。今日は止まらない。
「納めに来た」
「……ああ。親方、奥にいる。今は、機嫌が悪い」
「知ってる」
中へ入ると、声が聞こえた。
男の声と、女の声。
どちらも抑えているのに、刺がある。
「――治療院の納期は、明後日だ。数が足りない」
「数は出せる。だが上物は出せん。魔道具の封止が先だ」
親方の声だ。低い。動かない。
「顔に使う道具だぞ。代替が利かない。
……誰の顔か分かって言ってるのか」
女の声が、そこで一段だけ冷えた。
工房の空気が、さらに固くなる。
親方は返事をしない。
黙っているのに、拒絶が見える。
ハルはその場で、息を殺した。
見なかったことにする。聞かなかったことにする。
その方が、長生きする。
若い男が目で「待て」と合図し、ハルを炉の陰へ押しやった。
汗と鉄の匂いが濃い。
女が出ていく。足音が早い。
扉が閉まる。
しばらくして、親方がこちらを見た。
目が細いまま、火の赤だけが映っている。
「……品」
ハルは上物と欠け物を分けて差し出した。
余計なことは言わない。顔を見せる。立つ。
親方は黙って確かめ、言った。
「質は落ちていない。――銀貨、八。いつも通りだ」
「ありがとうございます」
銀貨の音が、革袋で重く鳴った。
その音が、さっきの揉め事の音を少しだけ押し返す。
ハルは一歩だけ踏み込みたくなった。
今なら、値を上げられるかもしれない。
材料が足りないなら、足元を見るのはこっちだ。
でも、やめた。
値を上げるより先に、口を潰す。
この町でやっていくなら、順番がある。
ハルは頭を下げ、言葉を選んだ。
「……もし、追加で要る日があるなら。
“何日前に、どれくらい”を決めてください。無理は言えませんが、段取りは組みます」
親方の目が、ほんのわずかに動いた。
驚きじゃない。測り直しだ。
「……ほう。口だけじゃなく、段取りか」
「最近、痛い目を見ました」
親方が、口の端だけで笑った。
「良い。だが覚えろ。
次、森の話をするなら、準備してから来い」
ハルは頷いた。
準備。段取り。契約。
その言葉が、胸に残る。
工房を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
朝の冷えが、ようやく外にあった。
(顔の道具、か)
誰の顔か、なんて知らない。
知りたくもない。
けれど、筒の匂いの筋が――
ほんの一瞬だけ、工房の壁の向こうへ伸びた気がした。
ハルは足を止め、喉の奥で息を飲む。
(……関係ない、って言い切れないのが、一番いやだ)
嫌だ。
でも、目を逸らしたら、また端っこの布の上へ戻る。
ハルは歩き出した。
ギルドへ向かう足取りは、少しだけ早い。
※
工房を出ると、空気が冷たかった。
炉の熱が皮膚に残っているせいで、余計に冷える。
ハルは革袋を叩いて、銀貨の位置を確かめる。
八枚。重さは同じなのに、今日は違う音がする気がした。
揉め事の残り音が、袋の中に混じっている。
(関係ない。俺は、納めて、受け取って、帰る)
そう思いながら、足はギルドへ向いた。
“関係ない”と言い切れるようにするために。
⸻
ギルド前は相変わらず落ち着かない。
荷車の音、呼び込みの声、受付の怒鳴り声。
人が動く場所の音は、いつだって腹に響く。
窓口の列に並び、順番を待つ。
今日は手続きがある。
リツの定期雇い。
ユマとオウの賃金の枠も、ここで通す。
ハルは内側の布袋から札を出した。
小さな木札と、紙片。
保証金の記録。雇いの記録。
慣れてない字が並んでいる。
順番が来た。
窓口の女が顔を上げる。
「――雇いの更新ね」
声は事務の声だ。
感情は薄い。だが、薄いほうが怖い。
「リツ。定期にする。三の日と五の日」
「条件は?」
「店番。売る物と値段だけ。帳面は俺が付ける。釣り銭は預ける」
女は指先で紙を押さえ、淡々と書いた。
「……銅貨二十五。定期扱い。保証金は?」
「前に預けた分がある」
女は帳面をめくり、頷く。
「確認。まだ残ってる。――次。ユマとオウ」
ハルは一息だけ吸う。
「ユマは半日と一日。
半日は銅貨二十。一日は三十五。
オウは半日二十五。一日は四十」
女の手が止まらない。
「固定じゃないのね」
「まだ。……だが、三の日は動く。今後は増える」
女はちらりとハルの顔を見た。
“増える”と言い切った顔かどうか、確かめる目だ。
ハルは目を逸らさない。
言った以上、逃げない。――そういう言い方はしない。
ただ、逸らさない。
「よし。通す。
定期にするなら、次は前もって申請しな」
「分かった」
木札に新しい刻みが入る。
それだけのことなのに、腹の奥が少しだけ締まる。
“雇う”の重さが、形になった。
⸻
窓口を離れた瞬間だった。
背後から、声が掛かった。
「……あなたが、ハルさん?」
男の声。若くはない。
丁寧なのに、急いでいる。
振り向くと、灰色の外套を着た男が立っていた。
手が荒れている。薬草の匂いがうっすらする。
治療院の人間――と、分かる匂いだ。
ハルは一瞬で身構えた。
口を知られていないはず。
工房のことは、口にしていない。
「……違うと言ったら?」
男は笑わない。
笑えない用事なんだろう。
「工房の裏口で、あなたが納めたのを見た者がいます。
“余計なことは言わない商人がいる”と」
工房経由。
それが一番、嫌な辿られ方だった。
口が汚れる、と言った親方の言葉が頭をよぎる。
ハルは言葉を削った。
「用は何だ」
男は一拍置いてから、声を落とす。
「治療院です。
至急で……素材が要る。封止に使う樹脂。上物が欲しい」
「工房に言え」
「言いました。――だから揉めています」
揉めてる理由が、ここで形になる。
工房は魔道具を優先したい。
治療院は顔の治療を急いでいる。
どっちも“急ぎ”だ。急ぎがぶつかると、金の匂いが濃くなる。
「あなたは、工房に卸している。
なら、あなたが森へ入る日も知っているはずだ、と」
ハルの腹が冷える。
(知ってるはずだ、じゃない。
“知りたい”の間違いだ)
男は続けた。
「……お願いしたい。
工房を通さず、治療院へ直接。
もちろん、相応の金は出します」
“相応”。
その言い方が、危ない。
相応の金には、相応の面倒が付く。
そして治療院は、工房よりも口が広い。
噂が広がる。耳が増える。終わる。
ハルは、すぐに首を振れなかった。
金が要る。
技術書の金。保証金の金。人の賃金。
店を太くするための金。
でも――今ここで、口を増やしたら、全部が崩れる。
「無理だ」
短く言う。
男の眉がわずかに動く。
引かない。
引けない理由がある顔だ。
「……事情を聞くつもりはありません。
ただ、こちらも“時間”がない。
工房が止めるのは、分かります。
しかし、治療院が止まったら、困る人がいる」
誰のことかは言わない。
言わないのに、言っている。
ハルは喉の奥が乾くのを感じた。
そして、余計なことを言わないよう、先に決める。
「俺は、工房の口を持っている。
それを潰すつもりはない」
男が、そこで少しだけ息を吐いた。
やっぱり、口の話を探っていた。
「……では、工房を通して、治療院へ回す道は?」
「俺が言う筋じゃない。親方に言え」
「言っています。――だから、あなたに来た」
ぐるぐる回る。
こういう時に、口が汚れる。
ハルは一歩だけ距離を取った。
「……俺は明日、森に入る。
工房分の約束がある。
それ以上は出せない」
男の目が鋭くなる。
“明日”を聞き逃さない。
ハルはすぐに付け足した。
「場所は言わない。
取れる量も約束しない。
治療院が欲しいなら、工房と話せ」
男は黙ってハルを見た。
腹の底で、何かを計算している顔だ。
「分かりました」
丁寧に言って、男は一礼した。
「最後に一つ。
あなたが“余計なことを言わない”のは、良い評判です。
……ただ、評判は、良くても悪くても広がる。
気をつけてください」
そう言って、男は去った。
背中が人混みに紛れる。
薬草の匂いだけが、しばらく残った。
⸻
ハルは、しばらく動けなかった。
寒いのに汗が出る。
(工房の揉め事が、俺の方へ伸びてきた)
関係ないはずが、関係になっていく。
それが一番、いやだ。
胸の内側で、筒が冷たい。
けれど、筒の冷たさは――今は嫌じゃない。
嫌なものを嫌だと言える冷たさだ。
ハルは踵を返した。
家へ戻る。段取りを組む。
明日の森は、ただの森じゃない。
“見られる森”だ。
ガルムとの契約期限
残り、320日。




