第2話 銀貨三枚と買い足し
金環茸は、指先ほどの小さな塊だった。
けれど家へ戻るまでの道のりで、ハルは何度も胸の内ポケットを押してしまった。確かめたところで増えもしないのに、指が勝手に動く。
家に着くと、布を広げた。
金環茸をそっと出して、転がさないように置く。土の匂いがまだ残っている。膜は薄く、指で押せば潰れそうで、押せない。
乾かし方は見たことがある。
親父の手つきだけ覚えている。火に近づけすぎない。湯気の上に置かない。焦らず、夜を越す。――頭は覚えているのに、指は慣れていない。
鍋に水を張って火にかけた。
湯が小さく鳴り始めた頃、腹が鳴った。黒パンの端が残っている。根菜も布に包んだままだ。
商品だが、干し肉もある。
食べれば楽になる。
けれど食べれば、明日の並べ物が減る。塩も干し肉も、減った分だけ次が苦しくなる。そう思いながら、結局パンを薄くかじり、湯に塩を一つまみ落としてすすった。味は薄い。温かさだけが腹に落ちる。
金環茸は、布の上でじっとしている。
夜が更けるにつれて膜の張りが少し変わり、香りがわずかに立ってきた。強くない。それでも昨日の“何も匂わない”よりは確かだ。
「……これで、いいのかよ」
独り言が増える。
返事をするやつはいない。ガルムも来ない。来ないほうがいい。来たら来たで、心臓がもたない。
夜半、ハルは金環茸を小さな布袋に移した。
指先の動きがぎこちなくて、布袋の口を結ぶだけで時間がかかる。親父だったら笑っただろうな、と思って、笑えなかった。
朝。市場へ向かう道は、昨日と同じだ。
端の角。風が抜ける場所。変わらない。
布を広げ、干し肉の束、塩、薬草を並べる。
通り過ぎる足が多い。止まるのは値切るやつばかり。ここに立っているだけで、時間がすり減る。
「……売る相手を選べ」
親父の声が、ふいに耳の奥で響いた。
値切りに負けた日、親父は笑いながら言った。
「売り物より先に人を見ろ。足がどこへ向かってるか。手が何で汚れてるか。袋が重いか軽いか。……急いでる理由が分かれば、話が早い」
ハルは人の流れを眺めた。
顔を見る。手を見る。荷を見る。歩き方を見る。自分が“見る側”になるだけで、少しだけ腹が据わる。
午前の半ば、端の通りを急ぎ足で歩く若い男が目に入った。
袖は肘までまくり上げられ、指先が黒っぽい。土汚れじゃない。薬草を揉んだ汁が乾いた色だ。肩の袋は軽そうで、腰の紐に小さな札が下がっている。役所か治療院の類の札に似た形。
――使い走りだ。
上役じゃない。けれど、必要なものを必要なだけ持ち帰る役。こういう相手なら、干し肉の値切りとは話が違う。
ハルは息を整えた。
男が通り過ぎかけたところで、一歩だけ前へ出る。
「すみません」
男は振り返った。眉間にうっすら皺が寄っている。急ぎ足が止まるだけで、苛立ちが見える。
「……何だ」
ハルは相手の札をもう一度だけ見た。腰の紐に下がっている、小さな印。やっぱり治療院の類だ。
「薬の――治療院の方ですよね」
男の目が細くなる。
「治療院の者だ。急いでる。要件を言え」
言い方が硬い。優しくない。
でも、こういう相手は話が早い。親父もそう言っていた。無駄口が少ないぶん、こちらの出し方がそのまま結果になる。
「珍しいキノコが一つあります。貴族向けの薬の材料になるやつで……
よかったら、見ていきませんか。金環茸です」
“金環茸”と口にした瞬間、男の顔つきが変わった。
ほんの一瞬だけ、足の向きが止まる。急いでいるはずの人間が、品の名前で止まる。
「……本当に金環茸か?」
「たぶん。昨日、森で採って。昨夜、乾かしました」
男は一歩だけ近づいた。
値切り客の距離の詰め方じゃない。確認するための寄り方だ。
「見せてみろ」
ハルは胸の内ポケットから布袋を出した。
指が震えて、結び目がほどけそうになる。落としたら終わりだ、と頭の奥が叫ぶ。ハルは布袋を両手で押さえ、慎重に口を開いた。
男は布袋に鼻を寄せ、短く息を吸う。
それから膜の具合を指先で確かめた。雑じゃない。扱い慣れている。
「……なるほど」
男は顔を上げた。
「乾きは浅いな。一晩か」
ハルの胸がきゅっとなる。
当たっている。自分でも分かっている。だから悔しい。
「……一晩です」
「出所は?」
「……言えません」
男は小さく舌打ちした。怒っているというより、面倒くさがっている。
「そうか。なら、こっちは品で判断する。
香りは悪くない。膜も崩れてない。だが小粒で、乾きが浅い。……値段はいくらだ」
ハルは喉を鳴らした。
ここが怖い。高く言って逃げられるのが怖い。安く言って後悔するのも怖い。
「……銀貨四枚」
男はすぐに答えず、もう一度だけ茸を見た。
それから首を横に振る。
「四枚は無理だ。うちの小口じゃ出せん。
それに、出所が言えない品は帳面に乗せにくい。――銀貨三枚」
銀貨三枚。
昨日、干し肉の束を一つ売ってやっと銅貨十枚だった。
昨日の稼ぎの三十倍。
いま目の前にあるのは、銅貨をちまちま積む稼ぎとは、手触りが違う金だ。
ハルの口が勝手に動きそうになる。
もっと取れるかもしれない、と欲が囁く。けれど、もう一つの声が言う。逃したら次がない、と。
「……分かりました。銀貨三枚で」
男は銀貨を置き、茸を持っていった。
迷いがない。手が早い。仕事として買っていく動きだ。
男が去っても、ハルはしばらく銀貨を見下ろしていた。
触ると冷たい。冷たいのに、胸の奥が熱い。息が少し荒いのが自分で分かる。
「……売れた」
声にした途端、笑いが出そうになって、堪えた。
笑ったら崩れそうだった。今日はまだ、形を保っていたい。
ハルは布を畳み、さっさと市場を抜けた。
足取りが軽い。軽いのに、急ぎすぎるとまた何か落としそうで、歩幅をわざと揃えた。
市場の外れに、湯気の立つ屋台がある。
豆と刻んだ野菜の汁。肉の匂いは薄いが、温かい。
「一杯、いくらですか」
「銅貨八枚」
ハルは銀貨を崩し、銅貨を受け取ってから椀を受け取った。
湯気が頬に当たって、肌がゆるむ。両手で椀を包むと、指先の冷えがほどけていく。
一口すすった。
塩がきちんと効いている。豆が柔らかい。野菜は噛むと甘い。温かさが腹の底へ落ちて、そこから静かに広がっていく。
「……うまい」
二口目、三口目。
椀の底が見えるころ、胸の奥の硬さが少しだけ緩んだ。
そのあと、パン屋へ回った。
白いパンは高い。黒パンでもいい。けれど今日は、厚めに切ってもいい。そう思えるだけで、喉が鳴った。小さな肉の端切れと、しおれていない野菜も少しだけ買う。袋が重くなる。重いのが嬉しい。
「……一息つけるな」
言ってから、慌てて周りを見た。
誰に聞かせるわけでもないのに、恥ずかしい。
帰り道は森道だ。
腹に熱が入っている。袋にパンと肉と野菜が入っている。銀貨がまだ残っている。それだけで、足が前に出る。
風が抜ける切れ間が近づくと、空気がまた少し重くなる。
鳥の声が途切れて、葉が擦れる音だけが残る。
来る。
分かっているのに、背中が少し硬くなる。
木陰が動き、灰と銀の毛並みが現れた。
肩の高さが人間より高い魔獣。太い首の顎が、ハルの頭の上に影を落とす距離。琥珀色の目がこちらを見ている。
『戻ったか』
声が頭に落ちる。
雑で短い。挨拶だけだ。
ハルは銀貨を一枚、掌に乗せて見せた。
見せびらかしたいわけじゃない。ただ、事実を見せたい。
「売れた。……銀貨三枚」
ガルムは近づきもしない。
鼻先を少し動かしただけで、銀貨を見下ろす。
『ほう。やったじゃないか』
「褒めてんのか、それ」
『事実を言っただけだ。
で、食ったか』
ハルはさっきの汁を思い出し、袋の中のパンの重さを思い出した。
「食えた。……久しぶりに、温かいのを腹に入れた」
『ならいい。次だ』
次。
その二文字だけで、ハルの背筋が少し伸びる。昨日までの「どうせ」が、少し引っ込む。
ガルムが首を振り、森の奥へ向いた。
影がずれて、落ち葉がさらりと鳴る。
『今日の目印は覚えたな。白縁草だ。
明日も同じ場所に出るとは限らん。――だが、見方を覚えりゃ拾えるもんは増える』
ハルは銀貨を革袋へ戻した。
冷たい音がして、妙に現実だった。
「……分かった」
『ついて来い、ハル』
ハルは一歩、踏み出した。
怖さは残っている。それでも息ができる。腹に熱がある。袋が重い。硬貨がある。――売れたという事実がある。
それだけで、足が前に出た。
あとがき用:この世界の貨幣価値メモ
作中の金額が分かりやすくなるように、貨幣価値の目安を決めています。
■ 貨幣の交換目安
銀貨1枚 = 銅貨100枚
金貨1枚 = 銀貨100枚(=銅貨10,000枚)
■ 最低賃金(雇い日当)の目安
町の一日雇い(荷運び・掃除などの最低ライン):銀貨1枚/日(=銅貨100枚)
※これを基準にすると、値段の感覚が掴みやすくなります。
例:ハルが干し肉を銅貨10枚で売っても、最低日当の1/10ほど。
逆に、銀貨3枚で売れたキノコは「日当3日分」に相当し、成功体験として大きい額になります。
■価格設定の目安
干し肉1束:銅貨10〜12
安宿1泊:銅貨20〜40(銀貨1枚で数泊)
銀貨3枚:腹を満たして、道具も少し買えて、数日〜1週間は生活ができる
金貨1枚:装備更新・長旅の資金・仕入れのまとまった資金になる




