第19話 段取りの朝
夜明け前の森は、音が少ない。
樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルはようやく肩の力を抜いた。
東の空が薄む。――次は水場だ。
『付いて来い。音を立てるな。水場は耳が利く』
沢へ下りるにつれ、空気が冷たくなる。
苔の匂い。泥の匂い。水の匂い。
石を踏む音さえ大きく感じて、ハルは息を殺した。
ガルムが先に止まった。
鼻先が水面の風を掬うみたいに動く。
『いる』
見えたのは一瞬だ。
黒い背。太い尾。水を割る影。
次の瞬間、銀の影が跳ねた。
水音が短く弾けて、すぐ黙る。
ハルが駆け寄った時には、獲物はもう動いていなかった。
「……でかいな」
『食う分は食う。残りはおまえが使え』
言い方は淡々としている。
だが、これは“手伝い”だ。ハルは喉の奥で頷いた。
ガルムは獲物の胴へ牙を掛け、そのまま引いた。
泥が擦れる音。重いものが地面を滑る音。
森の静けさの中で、その音だけが道を作っていく。
森の縁が見えたところで、ガルムが止まる。
『ここまでだ』
「……助かった」
返事はない。
鼻先をわずかに動かして風を嗅ぎ、ガルムは木々の奥へ消えた。
ハルは汗を拭う暇もなく、縄を確かめた。
見られる前に、動く。
荷を引きずり、道へ出る。
そのまま町へ。――ギルドへ。
朝の空気がまだ固い。
それでも人の匂いが増えてくる。
ハルは俯きがちな顔を上げ、歩幅を詰めた。
(先に段取りだ)
※
冬の朝だった。
霜は降りていないのに、空気だけが硬い。鼻の奥が冷える。
ハルは革袋を握り直して、ギルドへ向かった。
今日の話は、売り物じゃない。人の時間の値段だ。
ここを曖昧にすると、後で必ず揉める。
ギルドの板張りの床は、朝から靴音が忙しい。
窓口の前で待っていると、先に来ていたリツが小さく頭を下げた。
「おはようございます。きょう、三の日ですよね」
言葉は丁寧だが、目は眠そうじゃない。仕事の目だ。
「ああ。……先に決める。前に話したが、三の日と五の日は固定で頼む」
リツが真っ直ぐにハルを見る。
「呼びに行く手間も減る。お前の時間を縛ることになる。だから日当は上げる。銅貨二十五」
リツは口を結んで、少しだけ頷いた。
「分かりました。……釣り銭も、持ちますか」
「少額だけ。銅貨の山は預けない。帳面は最後に一緒に確認する」
「はい。ちゃんと合わせます」
その返事の歯切れが、ハルの胸を少しだけ軽くした。
信用じゃない。仕事だ。仕事ができる、という安心だ。
そこへ、オウが来た。
相変わらず肩が厚い。荷車の柄を握る手が、もともと縄でできているみたいに見える。
「決め事か」
「決め事。お前は今日は半日で頼む。荷車と運び。銅貨二十五」
オウは短く頷いた。
「了解。……運ぶ物が危ない類なら、先に言え」
「危険がある時は言う。中身は言えなくても」
オウはそれ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、目だけで釘を刺す。
最後にユマが窓口の陰から出てきた。
包丁の柄みたいな指をしている。台所あがりの手だ。
「今日は?」
「一日で頼む。銅貨三十五。腐り物を先に回せたら、手当を足す」
ユマは頷いた。
「分かった。順番を決めてやる。肉、脂、皮、骨。先に死ぬのから」
ハルは窓口へ向き直り、札を出した。
固定の登録。日当の登録。保証金の扱い。
言葉にすると固いが、要は「逃げない」ための形だ。
窓口の男が帳面に書きつけ、札を二枚押し返す。
「店番固定は三の日と五の日、銅貨二十五。釣り銭預け、帳面確認あり。……よし。次」
ハルは頷いた。
形ができると、腹の奥が静かになる。怖さが消えるわけじゃない。ただ、逃げ道が減る。
「じゃあ、私は市場へ行きます」
リツが言って、先に出ていく。
小さい背中が、人の波に飲まれる前に振り返った。
「売る物、増えてますよね。……きょうも、棚がそれっぽくなりそうです」
その一言が、効いた。
ハルは笑いそうになって、やめた。嬉しいときほど、顔に出る。
「頼む」
「はい」
リツは走らずに、早足で消えた。
ハルとオウは工房へ回った。
裏道に入ると、鉄と焦げ油の匂いが増える。打つ音が腹に響く。
裏口で若い職人が顔を出した。
「来たか。……今日は納めだな」
「上物と欠け。いつも通り」
袋を渡す。
職人が中を覗き、指先で数片だけ確かめる。奥へ声を投げた。
「親方、質は落ちてねえ」
返事は聞こえない。
代わりに銀貨が出てきた。
「上物、銀貨六。欠け、銀貨二。合計八」
銀貨が掌に落ちる。冷たい。重い。
八枚は心強いはずなのに、今はすぐに勘定が走る。誰の一日が何日分か。棚が何列増えるか。
オウが、工房の戸と路地を一度見た。
「場所は覚えた。……次からは俺が来てもいいのか」
「まだ早い。顔を覚えさせるのは、俺が先だ。今日は道だけでいい」
オウは「了解」とだけ言った。
筋肉のくせに、聞き分けがいい。
工房を出て、ギルドへ戻る。
ユマを拾って、そのままハルの家へ。
荷車の車輪が石を噛み、重い音を立てた。
視線が集まる。
ハルは背が固くなる。固くなるほど、貧しさが出る気がした。
※
家に戻る途中、早朝に採って森の入口に隠した水トカゲをオウが荷車に積み込んだ。
オウは、荷そのものより先に地面を見た。
視線が一度、泥の筋をなぞる。
次に、ハルの肩へ上がる。
そこで止まった。
言葉は出ない。出さないと決めた顔だ。
けれど、眉だけがほんの少し動く。
「またか」と言いたげに。
ハルは気づいたふりをしない。
ここで答えを出せば、口が増える。耳も増える。
オウは一拍置いて、いつも通り縄に手を伸ばした。
指が縄を掴む瞬間だけ、動きが遅れる。
それから、何事もなかったみたいに締め上げた。
※
家に着くと、作業場の戸を開けた。
ここなら臭いが残ってもいい。火が強くても、家までは燃えにくい。
オウが荷車を止める。
「降ろすぞ」
板を敷き、布を噛ませ、縄をほどく。
力だけじゃなく段取りがある。見るだけで、ハルの肩が少し落ちた。
水トカゲの体は、近くで見るとさらにでかい。
冷たい鱗。厚い脂。匂いはまだ浅い。冬が腐りを遅らせている。
「俺は半日。ここまでだな」
「助かった。……次は三の日の森の外、昼からで頼む」
「分かった。時間は融通きかせる。だが、前日に言え」
「言う」
オウが帰る。
背中が遠のくと、家の外が少し静かになった。
ユマが袖をまくる。
「じゃあ、腐るのからやる。肉は切って塩。脂は溶かしてこす。皮は剥ぐだけ剥いで、きょうは塩で寝かす。骨は……」
「骨は、針と留め具に回す」
ハルが言うと、ユマが目を細めた。
「分かってるじゃない」
「親父の手帳に、少しだけな」
ユマは頷き、包丁を置く位置を決める。
位置を決めるだけで、作業が始まる前の空気が変わる。
ハルは革袋を開き、銅貨を数えた。
銀貨は底へ沈める。鳴らしたくない。
「今日の賃金は……帰りに渡す。手当は、骨まで回せたら足す」
「いいよ。まず形を作る。売り物は数が揃ってから強くなる」
その言い方が、商人の言葉みたいで、ハルは少しだけ救われた。
自分が一人で言えない言葉を、他人の口が言ってくれる。
戸口で、ハルは一度だけ作業場を振り返った。
鍋が火にかかり、脂の匂いが薄く立つ。骨の白が机に並び始めている。
棚の形が見える。――「店」になる形。
「……よし」
声が漏れた。
「午前中、任せる。俺は……もう一回、森へ行く」
ユマは顔も上げずに頷いた。
「はい。油と内臓は先に。皮は傷めません。骨も分けておきます」
言い切る声が淡々として、頼もしい。
同時に、胸がちくりと痛む。――自分がやるべき仕事を、人に預けている。
けれど今日は、迷っている暇がない。
「戻ったら、昼前には戻る」
「分かりました。帰ってきたら声をかけてください」
ハルは頷き、戸を引いた。
一度戻った道を、また森へ。
(拾いに行くんじゃない。取りに行く)
息を整えながら、歩幅を早めた。
ガルムとの契約期限
残り、350日。
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賃金:確定版(以後この金額で統一)
リツ(店番)
•臨時(1日だけ):銅貨20
•条件:売る物と値段だけ/釣り銭は基本なし(または少額のみ)
•定期(3の日・5の日 固定):銅貨25
•条件:釣り銭を預ける/帳面の確認あり(=責任が増える)
※「毎回呼びに行く」手間が減る代わりに、リツの時間を縛る。固定は+5銅貨が自然。
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ユマ(解体・加工)
•半日:銅貨20
•1日:銅貨35
•手当たまに:腐り物の優先処理/皮・骨の加工まで回せた日は +銅貨5
※“台所あがりの手”は希少。店番より高いのが筋。
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オウ(二運び・荷車・力仕事)
•半日(荷車+運搬だけ):銅貨25
•1日(運搬+解体の力仕事も手伝う):銅貨40




