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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第18話 売り物の列


前の三の日から、七日。


五の日は見送った。

仕込みが間に合わなかった。瓶も足りない。塩も足りない。干す時間もない。――焦って動くほど、手元が散るだけだった。


だから、一週間かけた。

火を見て、塩を待って、骨を削って、皮を束ねた。やることは増えたのに、不思議と胸は軽い。


今日は三の日。

“売り物がある”というだけで、朝が違う。



冬の朝は、息が白いだけで腹が減る。


ハルは火を起こし、鍋の湯気をひと息ぶん吸ってから、机の上を片づけた。


今日は三の日。


市が立つ日で、人が多い。声も多い。金も多い。


机の上に、布を敷く。


並べる。


小瓶がいくつも。防水油。


薄く切って、塩が馴染んだ肉。紐で束ねた塩漬け肉。


皮の端切れは、同じ厚みのものを揃えて小束にした。小さくても、まとまっていれば道具になる。


骨針は、ユマが削ってくれた。針先は細いのに、折れにくい。


骨の留め具は、小さな輪と棒。紐の先を留めるやつだ。数があるほど、よく売れるとユマは言った。


布の端に並んだ列を見て、ハルは喉の奥が熱くなるのをこらえた。


今までは、瓶が三つ、塩が少し、薬草が少し。


「少ないけど、並べないよりはましだ」


そうやって、腹をなだめていた。


今日は違う。


布の上が、ちゃんと“店”になっている。





「おはようございます」


リツだ。約束の通り、朝早い。


冬の冷え込みで鼻が赤いのに、背筋は伸びている。口調も崩れない。


「早いな」


「三の日なので。混む前に場所を取った方がいいと思いました」


気が利きすぎて、かえって怖い。


ハルは苦笑して、巾着を二つ渡した。


「こっちが釣り銭。銅貨だけ。銀は入れてない」


「分かりました」


「売るのは、これだけ。値札どおり。無理に押さない」


「はい」


帳面はハルが持つ。今日は、閉めた後にまとめて書く。


その代わり、売れた数と、銅貨の動きだけは、リツに覚えておいてもらう。


「……大丈夫か」


言ったあとで、ハルは自分が情けなくなる。


人に任せると決めたのに、口だけが揺れる。


リツは一拍置いて、淡々と言った。


「売るだけなら。出来ます」


言い切りじゃない。言い張ってる感じでもない。


ただ、出来ることを言っているだけの声だ。


それが、妙に頼もしい。


ハルは頷いた。


「じゃあ、行く。終わったら、いつもの場所で待ってろ。俺が迎えに行く」


「はい」



市の道は、もう人の匂いがしていた。


パンの焼ける匂い。肉の匂い。油の匂い。


腹が鳴る。無視する。


今日は買い食いをする日じゃない。今日は、売って、残して、次へ回す日だ。


ハルは家へ戻った。





作業場の戸を開けると、ユマがもういた。


炭の灰を小鉢に集め、湯で溶き、布で濾している。灰汁を作る手つきが、迷いなく速い。


「早いな」


「腐る順からやった方が、失敗が減ります」


ユマは顔も上げずに言った。


その横で、骨針の削り屑が小さく積もっている。昨日の続きだろう。


「骨針、あれでいいのか」


「針先だけ尖らせると折れます。芯を残す。糸穴の角を落とす。これで手が切れにくい」


言いながら、ユマは骨の棒を指先で転がした。


慣れのある手だ。


ハルは、父親の机の引き出しのことを思い出す。


紙は貴重で、字は貴重で、書いてあることはもっと貴重だったのに。


自分は長いこと、開けもしなかった。



昼前。


加工した端切れと留め具を布袋に詰め、ユマが言った。


「留め具は、市で回ります。安くても数が出ます。針は、まとめ売りがいいです」


「まとめ売り」


「一本だと迷います。三本なら“買う理由”になります」


ユマの言葉は、商いに寄っている。


台所あがりの言い方じゃない。


ハルはその違和感に、少しだけ安心した。


この女は、食わせるために動いてきた人間だ。


怖さの種類が、自分とは違う。


午後。


ハルは工房へ向かい、いつもの裏口へ入った。


親方は顔だけで挨拶を済ませ、袋の口を開けた。


夜光樹脂の質を一つ二つ確かめる。


それだけで十分らしい。


「……落ちてない」


短い声。


褒めているわけじゃない。


確認だ。


ハルは頷いた。


それでいい。


戻り道、ハルは足を早めた。


店先が気になるのは、売り上げよりも、リツが心配だからだ。


任せると決めたのに。


決めたのに、まだ腹が騒ぐ。





夕方。


市はまだうるさい。だが、朝のうるささとは違う。


買う匂いが薄れて、帰る匂いが増える。


人が流れ、声が軽くなり、手が空く。


いつもの端の場所へ行くと、リツが布を畳んでいた。


箱は閉められ、縄はまとめられ、釣り銭袋は膝の上にある。


逃げていない。


当然みたいにそこにいる。


ハルは、それだけで胸の奥がほどけた。


「……どうだった」


リツは帳面の代わりに、指を折って数えた。


「防水油。小瓶が、七つ」


ハルは思わず息を止める。


七つ。売れた。


それだけで、今日は勝ちだ。


リツは続けた。


「塩漬け肉。束が、五つ」


「……まじか」


声が裏返りそうになって、ハルは咳払いでごまかした。


リツは表情を変えない。


「皮の端切れ。小束が、三つ。骨針は、三本束が、四つ。留め具は、十……十一」


十一。


数が出る、とユマが言った通りだ。


リツは釣り銭袋の口を開け、銅貨をきちんと並べた。


数えやすいように、十枚ずつ小山にしてある。


「釣り銭は合っています。足りなくなりそうな時は、値切りの客は避けました」


「……避けた」


「はい。釣りが出ないと揉めますので」


言い方が丁寧なのに、判断が冷たい。


それが、頼もしい。


ハルは頷いて、売り上げ袋を受け取った。


銅貨の重みが、ずしりと掌に落ちる。


嫌な重さじゃない。


手元に残る重さだ。


帰り道、リツは小さく言った。


「瓶が多いと、止まって見ます。一本だけだと、通り過ぎます」


「……そうか」


「はい。次も、並べた方がいいです」


ハルは返事をしなかった。


喉の奥がつまって、うまく声が出ない。


並べた。


売れた。


それだけのことが、今日の自分には大きい。





家へ戻り、作業場の戸を開けると、ユマが片づけを終えていた。


骨の屑が掃かれ、皮は束ねられ、鍋は洗われている。


「市、どうでした」


「……売れた」


それだけ言って、ハルは笑いそうになるのをこらえた。


ユマは小さく頷いた。


「なら、次は増やせます」


簡単に言う。


簡単に言うから、怖い。


だが、怖いままで動けるようになりたい。


ハルは売り上げ袋を握り直した。


三の日は、回る。


三の日に合わせて、並べる。


並べたぶんだけ、店になる。





夕方、店を畳んだリツから報告を受けた。

売れた数、残った数、欠けた瓶。釣り銭の合い具合。

言葉は少なかったが、要ることは全部そろっていた。


ユマを返し、戸を閉める。

家の中が静かになると、昼の喧噪が嘘みたいに遠い。


ハルは机の引き出しから、薄い帳面を出した。

親父の字とは違う。自分の字はまだ弱い。けれど、今日は逃げない。


灯りの下で、売れた分だけを書き出す。

値札は変えていない。数だけを足す。


—-

防水油は一本、銅貨十二。七本で銅貨八十四。

塩漬け肉は一束、銅貨十二。五束で銅貨六十。

皮の小束は銅貨六が三つで銅貨十八。

骨針は三本束で銅貨五が四つで銅貨二十。

留め具は一つ銅貨二。十一で銅貨二十二。


最後に、合計。


売上 銅貨二百四。

—-


息を吐いて、次の行。


—-


銅貨を小銭袋へ移す。

ちゃり、と薄い音がして、それで終わりだ。

銀貨みたいに胸は鳴らない。だが――今日は、手元に残った。


帳面を閉じた。


指の腹に、紙のざらつきが残る。

商売は気分じゃない。段取りだ。


ハルは小さく息を吐く。


「……次は五の日だ」


五の日は、市がいちばん膨らむ。

人も銭も動く日だ。そこで売れれば、棚が“店”になる。


二日後。

その日に合わせて、瓶も肉も、針も揃える。

揃えられるだけ揃えて――並べる。



火の前で、ハルはふと思い出して、切れ間の方を見た。


ガルムの影は、まだ森の奥だろう。


あいつが言った。


手が増えれば、口が増える。口が増えれば、耳が増える。


耳が増えるのは怖い。


でも、怖いからって、端っこの布の上へ戻るのはもっと怖い。


「……次だ」


誰に言うでもなく、ハルは小さく呟いた。


明日は五の日に向けて、仕込みをする。


三の日で出来た列を、次は崩さない。


崩さないために、また手を動かす。




ガルムとの契約期限

残り、357日。



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