第18話 売り物の列
前の三の日から、七日。
五の日は見送った。
仕込みが間に合わなかった。瓶も足りない。塩も足りない。干す時間もない。――焦って動くほど、手元が散るだけだった。
だから、一週間かけた。
火を見て、塩を待って、骨を削って、皮を束ねた。やることは増えたのに、不思議と胸は軽い。
今日は三の日。
“売り物がある”というだけで、朝が違う。
冬の朝は、息が白いだけで腹が減る。
ハルは火を起こし、鍋の湯気をひと息ぶん吸ってから、机の上を片づけた。
今日は三の日。
市が立つ日で、人が多い。声も多い。金も多い。
机の上に、布を敷く。
並べる。
小瓶がいくつも。防水油。
薄く切って、塩が馴染んだ肉。紐で束ねた塩漬け肉。
皮の端切れは、同じ厚みのものを揃えて小束にした。小さくても、まとまっていれば道具になる。
骨針は、ユマが削ってくれた。針先は細いのに、折れにくい。
骨の留め具は、小さな輪と棒。紐の先を留めるやつだ。数があるほど、よく売れるとユマは言った。
布の端に並んだ列を見て、ハルは喉の奥が熱くなるのをこらえた。
今までは、瓶が三つ、塩が少し、薬草が少し。
「少ないけど、並べないよりはましだ」
そうやって、腹をなだめていた。
今日は違う。
布の上が、ちゃんと“店”になっている。
※
「おはようございます」
リツだ。約束の通り、朝早い。
冬の冷え込みで鼻が赤いのに、背筋は伸びている。口調も崩れない。
「早いな」
「三の日なので。混む前に場所を取った方がいいと思いました」
気が利きすぎて、かえって怖い。
ハルは苦笑して、巾着を二つ渡した。
「こっちが釣り銭。銅貨だけ。銀は入れてない」
「分かりました」
「売るのは、これだけ。値札どおり。無理に押さない」
「はい」
帳面はハルが持つ。今日は、閉めた後にまとめて書く。
その代わり、売れた数と、銅貨の動きだけは、リツに覚えておいてもらう。
「……大丈夫か」
言ったあとで、ハルは自分が情けなくなる。
人に任せると決めたのに、口だけが揺れる。
リツは一拍置いて、淡々と言った。
「売るだけなら。出来ます」
言い切りじゃない。言い張ってる感じでもない。
ただ、出来ることを言っているだけの声だ。
それが、妙に頼もしい。
ハルは頷いた。
「じゃあ、行く。終わったら、いつもの場所で待ってろ。俺が迎えに行く」
「はい」
市の道は、もう人の匂いがしていた。
パンの焼ける匂い。肉の匂い。油の匂い。
腹が鳴る。無視する。
今日は買い食いをする日じゃない。今日は、売って、残して、次へ回す日だ。
ハルは家へ戻った。
※
作業場の戸を開けると、ユマがもういた。
炭の灰を小鉢に集め、湯で溶き、布で濾している。灰汁を作る手つきが、迷いなく速い。
「早いな」
「腐る順からやった方が、失敗が減ります」
ユマは顔も上げずに言った。
その横で、骨針の削り屑が小さく積もっている。昨日の続きだろう。
「骨針、あれでいいのか」
「針先だけ尖らせると折れます。芯を残す。糸穴の角を落とす。これで手が切れにくい」
言いながら、ユマは骨の棒を指先で転がした。
慣れのある手だ。
ハルは、父親の机の引き出しのことを思い出す。
紙は貴重で、字は貴重で、書いてあることはもっと貴重だったのに。
自分は長いこと、開けもしなかった。
昼前。
加工した端切れと留め具を布袋に詰め、ユマが言った。
「留め具は、市で回ります。安くても数が出ます。針は、まとめ売りがいいです」
「まとめ売り」
「一本だと迷います。三本なら“買う理由”になります」
ユマの言葉は、商いに寄っている。
台所あがりの言い方じゃない。
ハルはその違和感に、少しだけ安心した。
この女は、食わせるために動いてきた人間だ。
怖さの種類が、自分とは違う。
午後。
ハルは工房へ向かい、いつもの裏口へ入った。
親方は顔だけで挨拶を済ませ、袋の口を開けた。
夜光樹脂の質を一つ二つ確かめる。
それだけで十分らしい。
「……落ちてない」
短い声。
褒めているわけじゃない。
確認だ。
ハルは頷いた。
それでいい。
戻り道、ハルは足を早めた。
店先が気になるのは、売り上げよりも、リツが心配だからだ。
任せると決めたのに。
決めたのに、まだ腹が騒ぐ。
※
夕方。
市はまだうるさい。だが、朝のうるささとは違う。
買う匂いが薄れて、帰る匂いが増える。
人が流れ、声が軽くなり、手が空く。
いつもの端の場所へ行くと、リツが布を畳んでいた。
箱は閉められ、縄はまとめられ、釣り銭袋は膝の上にある。
逃げていない。
当然みたいにそこにいる。
ハルは、それだけで胸の奥がほどけた。
「……どうだった」
リツは帳面の代わりに、指を折って数えた。
「防水油。小瓶が、七つ」
ハルは思わず息を止める。
七つ。売れた。
それだけで、今日は勝ちだ。
リツは続けた。
「塩漬け肉。束が、五つ」
「……まじか」
声が裏返りそうになって、ハルは咳払いでごまかした。
リツは表情を変えない。
「皮の端切れ。小束が、三つ。骨針は、三本束が、四つ。留め具は、十……十一」
十一。
数が出る、とユマが言った通りだ。
リツは釣り銭袋の口を開け、銅貨をきちんと並べた。
数えやすいように、十枚ずつ小山にしてある。
「釣り銭は合っています。足りなくなりそうな時は、値切りの客は避けました」
「……避けた」
「はい。釣りが出ないと揉めますので」
言い方が丁寧なのに、判断が冷たい。
それが、頼もしい。
ハルは頷いて、売り上げ袋を受け取った。
銅貨の重みが、ずしりと掌に落ちる。
嫌な重さじゃない。
手元に残る重さだ。
帰り道、リツは小さく言った。
「瓶が多いと、止まって見ます。一本だけだと、通り過ぎます」
「……そうか」
「はい。次も、並べた方がいいです」
ハルは返事をしなかった。
喉の奥がつまって、うまく声が出ない。
並べた。
売れた。
それだけのことが、今日の自分には大きい。
※
家へ戻り、作業場の戸を開けると、ユマが片づけを終えていた。
骨の屑が掃かれ、皮は束ねられ、鍋は洗われている。
「市、どうでした」
「……売れた」
それだけ言って、ハルは笑いそうになるのをこらえた。
ユマは小さく頷いた。
「なら、次は増やせます」
簡単に言う。
簡単に言うから、怖い。
だが、怖いままで動けるようになりたい。
ハルは売り上げ袋を握り直した。
三の日は、回る。
三の日に合わせて、並べる。
並べたぶんだけ、店になる。
※
夕方、店を畳んだリツから報告を受けた。
売れた数、残った数、欠けた瓶。釣り銭の合い具合。
言葉は少なかったが、要ることは全部そろっていた。
ユマを返し、戸を閉める。
家の中が静かになると、昼の喧噪が嘘みたいに遠い。
ハルは机の引き出しから、薄い帳面を出した。
親父の字とは違う。自分の字はまだ弱い。けれど、今日は逃げない。
灯りの下で、売れた分だけを書き出す。
値札は変えていない。数だけを足す。
—-
防水油は一本、銅貨十二。七本で銅貨八十四。
塩漬け肉は一束、銅貨十二。五束で銅貨六十。
皮の小束は銅貨六が三つで銅貨十八。
骨針は三本束で銅貨五が四つで銅貨二十。
留め具は一つ銅貨二。十一で銅貨二十二。
最後に、合計。
売上 銅貨二百四。
—-
息を吐いて、次の行。
—-
銅貨を小銭袋へ移す。
ちゃり、と薄い音がして、それで終わりだ。
銀貨みたいに胸は鳴らない。だが――今日は、手元に残った。
帳面を閉じた。
指の腹に、紙のざらつきが残る。
商売は気分じゃない。段取りだ。
ハルは小さく息を吐く。
「……次は五の日だ」
五の日は、市がいちばん膨らむ。
人も銭も動く日だ。そこで売れれば、棚が“店”になる。
二日後。
その日に合わせて、瓶も肉も、針も揃える。
揃えられるだけ揃えて――並べる。
火の前で、ハルはふと思い出して、切れ間の方を見た。
ガルムの影は、まだ森の奥だろう。
あいつが言った。
手が増えれば、口が増える。口が増えれば、耳が増える。
耳が増えるのは怖い。
でも、怖いからって、端っこの布の上へ戻るのはもっと怖い。
「……次だ」
誰に言うでもなく、ハルは小さく呟いた。
明日は五の日に向けて、仕込みをする。
三の日で出来た列を、次は崩さない。
崩さないために、また手を動かす。
ガルムとの契約期限
残り、357日。




