第17話 森の外の手
戸を開けると、土間の匂いがした。
冷えた灰、古い木、少しだけ酸っぱい鉄。
親父が使っていた作業場だ。
竈も、梁に通した縄も、干し棚もあるのに、ハルはまともに使ってこなかった。
見ないふりをしてきた場所だ。
今日は逃げられない。
ここでやる。
—-
冬の朝は、音が少ない。
空気が乾いていて、吐く息だけが白く見えた。
ハルは家を出る前に、革袋を二つに分けた。
ひとつは売り上げ用。ひとつは釣り銭用。釣り銭は小さく、銅貨中心。銀貨は入れない。
万一のために、札も入れておく。ギルドの印が押された、雇いの保証の札だ。
机の引き出しを一度、指で押さえた。
親父の手帳がそこにあると分かってるから、触れただけで落ち着く。
今日は、段取りの日だ。
その段取りに、人の手が入る。
市場の端に着くと、リツがもう来ていた。
薄い息を吐きながら、襟元を直している。雪は積もらないが、風は冷たい。
リツは約束通り、朝早い。
「……早いな」
「遅れると、信用が落ちます」
淡々と言う。
子どもの声なのに、言い方だけ大人だ。
ハルは布を広げ、瓶と札を並べた。防水油の小瓶。塩。薬草の束。干し肉は、今は少ない。
場違いに見えるが、並べないよりはマシだ。
「今日はこれだけ。値段はここ」
板切れに炭で書いた札を渡す。
油は銅貨いくら、薬草はいくら。端数を作らない値段にしてある。
「釣りは、銅貨だけなら渡す。銀貨は受けない。銀貨が出たら、『今日は細かいのがない』って言って断れ」
リツが頷く。
「釣り銭袋はこれ。足りなくなったら閉めていい。無理はするな。帳面は、ここに線を引くだけでいい」
ハルは小さな帳面を渡し、項目だけ作っておいた。
売った数、受け取った硬貨。余計な言葉はいらない。
リツは、札と帳面と釣り銭袋を順に確認した。
指が慣れている。手元が落ち着いている。少なくとも、遊びで来てない。
「……賃金。銅貨二十。終わったらここから抜く。足りなければ、俺が足す」
言い終えて、ハルは少しだけ息を吐いた。
“払う”と口にしただけで、責任が重くなる。
リツは小さく頷いた。
「分かりました」
布の端を整え、リツが売り口上を小さく言ってみせる。
「防水油。雨具の縫い目に。……薬草、少量」
声は大きくない。けれど通る。
背伸びしない声だ。
ハルは、視線を布から外した。
ここから先は、森だ。
※
切れ間へ向かう道で、ハルは何度も肩の荷を確かめた。
縄。厚い布。刃の厚い小刀。背負い枠。空の袋。
そして、金の筒は奥に入れたままにする。今日は嗅がない。
切れ間に着くと、ガルムがいた。
木陰の奥。いつもの距離。
冬の光でも、銀の毛並みが目立つ。
『来たか』
「来た。……今日は、頼る」
自分で言って、喉が少し乾いた。
言うと決めたのに、言葉にすると重い。
「樹脂を採る。その後、水場へ行く。水トカゲ。油が要る。運ぶのは、森の外まで手伝ってほしい」
ガルムはすぐには動かなかった。
鼻先がわずかに動く。
『一年だ』
「……一年」
『一年で形にしろ。
森を出る段取りを作れ。人の手を整えろ。口を増やせ。
一年で“動ける”だけの地を作れ』
ハルは息を飲んだ。
期限を言われると、逃げ道が消える。
「……やる」
『口先では要らぬ。
守れ。森の場所は言うな。口は売るな。余計な噂を作るな。
人を使うなら、縛りを作れ。保証を通せ。』
ガルムの言葉は短い。
けれど、千年の重さみたいなものが混じる。
ハルは頷いた。
「ギルドを通した。保証金も払った。店番はリツ。加工はユマ。荷運びはオウに半日だけ頼む」
『よい。……付いて来い』
ガルムが先に歩き出す。
ハルは背負い枠を背に当て直し、追った。
森の中は、冬でも湿りが残る。
足元の苔が滑る。枯れ枝が折れる音が響くから、踏み方を選ぶ。
ガルムが立ち止まり、顎先で木を示す。
針葉樹。裂け目。黒い筋。
そこから滲んだ樹脂が、薄く固まっている。
ハルは無言で作業に入った。
削らない。捻る。根元を生かす。
欠けを減らす。汚れを落とす。湿りを飛ばす。
手が覚えてきている。
嬉しいのに、少し怖い。慣れは雑を呼ぶ。
樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルは肩の力を抜いた。
『付いて来い。音を立てるな。水場は耳が利く』
沢が近づくにつれ、空気が冷たくなる。
湿り気のある匂い。苔。泥。水。
水辺の石の陰で、ガルムが伏せた。
『いる』
ハルは目を凝らす。
水面の際、泥の縁。鈍い影が動いた。
水トカゲ。
でかい。想像より、ずっとでかい。
前に見かけた時も思ったが、改めて見ても運べる気がしない。
次の瞬間、ガルムが跳んだ。
水しぶき。泥が跳ねる。低い唸り。
水トカゲが暴れる。尾が石を叩き、乾いた音がする。
だが、ガルムの牙が首元に入った瞬間、暴れが止まった。
静かになった。
ハルは近づき、膝をつく。
刃を入れるのは自分だ。ガルムは道具を使えない。使う必要もない。
血抜き。腹。内臓。
胆嚢は今回は要らない。油だ。皮だ。骨だ。
冬の冷気が、匂いを抑えている。
腐りは遅い。けれど、時間は味方じゃない。
ガルムは肉を食う。
骨の周りの旨いところだけ、迷いなく。
油の厚い部分は残る。好みじゃないらしい。
食い残しは、そのまま置かれた。
『余すな。全部使え』
「分かってる……」
ハルは歯を食いしばって、残りを解体した。
皮は剥ぐ。
骨は折らずに外す。
脂は袋に分ける。瓶に入れる分と、工房に回す分。
背負い枠に乗る重さじゃない。
ガルムが首を振った。
『森の外までだ。引け』
ハルは縄を出した。
太い縄。胴に回し、崩れないように結ぶ。
ガルムの肩に引き綱を通し、荷を“滑らせる”形にする。
枝で引くなんて無理だ。
森の中は石も根も多い。引くなら、力と体が要る。
ガルムが引いた。
泥が擦れる音。
重いものが地面を滑る音。
その音が森の奥へ抜けるたび、ハルは胸の奥がひゅっとなる。
目立つ。
けれど、ここから先は、人の手だ。
森の縁が見えたところで、ガルムが止まる。
『ここまでだ』
「……助かった」
ガルムは返事をしない。
鼻先を動かし、風を嗅いで、森へ戻っていった。
※
森の外。小さな道の脇に、オウがいた。
荷車のそばで腕を組み、待っている。
背が高く、肩が厚い。立っているだけで、運び手だと分かる体つきだった。
オウはハルの顔より先に、地面を見た。
泥に深い筋が一本。引きずった跡。
その横に、爪で抉ったみたいな傷がいくつもある。
視線が荷へ移る。
水トカゲの胴体。濡れた皮。重さが、見ただけで伝わる。
「……これを、一人でここまで出したのか」
疑いというより、確かめる声だった。
ハルは喉の渇きを飲み込んだ。
ガルムの背中は、もう森へ消えている。
「森の中で、手があった」
「手? もう一人雇ってたのか」
「違う」
一拍置く。言葉を間違えたら終わるやつだ。
「“契約”だ。今は言えない。場所と同じで、口にしたら終わる」
オウは眉だけ動かした。
それ以上は聞かない。代わりに、地面の跡をもう一度見てから、短く言う。
「……分かった。詮索はしねえ」
そして、声を少し落とす。
「だが、危ねえ類なら先に言え。中身はいらん。“危険がある”だけでいい。
運びの段取りが変わる。逃げ道も作る。命は安くない」
ハルは頷いた。
「分かった。危険がある時は、先に言う」
「それでいい」
オウは腕を解き、縄へ手を伸ばした。
「積むぞ。……でけえな」
板を敷き、布を噛ませ、縄を二重にする。
力任せじゃない。傷まない縛り方を知っている手つきだった。
ハルはそこで、ようやく息を吐いた。
「……半日で足りるか」
「足りるように動く。どこまでだ」
「家だ。まず家で水トカゲを降ろす。工房は、その後になる」
オウが鼻で短く息を吐く。
「なら、先に言っとけ。寄り道は?」
「ある。ギルドに寄る。半日雇いをもう一人拾う」
「……誰だ」
「ユマ。台所あがりだ。解体と、皮の扱いを少し知ってる」
オウは縄を締めながら言った。
「いい。手があれば早い。だが、道は混むぞ」
「分かってる」
オウが荷車の柄を握る。
「行くぞ。家と、その後はギルドだな」
オウが荷車を引き出す。
車輪が泥を噛み、重い音を立てて転がり始めた。
※
家に着くと、ハルは裏の土間へ回した。
人目に晒したまま置くのが嫌だった。
オウが荷車を止める。
「ここか」
「ここ。……降ろす」
二人で縄を解き、板を外し、ずるりと水トカゲの胴を土間へ滑らせる。
濡れた皮が冷たく光る。鼻に生臭さが残った。
「手早く戻る。ギルドで人を拾う」
オウは頷き、荷車を空にした。
「空なら早い。行くぞ」
ハルは扉を閉め、掛け金を確かめた。
中身がでかいほど、鍵が軽く感じる。
ギルド前は、人の出入りで落ち着かなかった。
今度は荷車が空なのに、視線が集まる気がする。
ハルは見られるのが嫌で、つい背が固くなる。
オウが低く言った。
「顔に出すな。余計に寄る」
「……分かってる」
ギルド前は、人の出入りで落ち着かなかった。
荷車の車輪が石を噛み、音が跳ねる。冬でも汗の匂いがする。
「……置いとく。すぐ戻る」
オウが頷いた。
「見張っとく。盗む奴がいたら、腕ごと折る」
冗談みたいな声だが、目は冗談じゃない。
ハルは短く礼を言って、ギルドへ戻った。
窓口は混んでいた。
札を受け取る手、荷を運ぶ手、揉める声。帳面を繰る音が止まらない。
順番が来て、ハルは短く言った。
「半日雇い。解体手伝い。ユマって名で」
窓口の男が帳面をめくる。
「ユマか。今日ならいる。保証金は前と同じだ」
ハルは銅貨を出した。
減る音が、指先に残る。
札が一枚、押しつけるように渡された。
「呼べ。あそこだ」
柱の影に、女がいた。
腰に布を挟み、手が荒れている。顔は若いが、目が落ち着いている。
ハルが札を見せると、ユマは一度だけ頷いた。
「分かりました。半日ですね」
「そう。うちへ来てほしい。――その前に、寄る所がある」
ユマが首をかしげる。
「どこですか」
「工房。納め物がある」
三人で路地へ入る。
オウは黙ってついてくるが、歩き方が“道を覚える”歩き方だった。曲がり角ごとに一度だけ目が動く。
「……ここか」
裏口の簡素な扉の前で、オウが低く言う。
ハルは頷いた。
「今日だけ、覚えといてくれ。次から荷が増える。俺一人じゃ回らん」
オウは一拍置いてから、短く言った。
「口は固い。だが、余計な揉め事は持ち込むな」
「分かってる」
扉が開き、若い作業着の男が顔を出した。
「来たか。……今日は連れが多いな」
「半日雇いだ。家で加工する。道具と、人手が要る」
男の視線がオウの肩と腕に止まり、次にユマの手へ落ちる。
職の手を見ている。
「親方は奥だ。品、先に出せ」
ハルは背負い袋から小袋を一つだけ出した。
樹脂。上物と、欠け物を分けた分。混ぜてない。
親方は無言で一つ摘まみ、光り方と断面を確かめる。
鼻先を近づけ、指先で粉の出を見た。
「……質は落ちてない」
それだけ言って、銀貨を机に置いた。
数えるのは早い。商いの指だ。
「上物、銀貨六。欠け物、銀貨二。合わせて八。――前と同じだ」
ハルは頷いた。
この“前と同じ”が、今はいちばんありがたい。
作業着の男が、横から小さな包みを差し出した。
革の端切れと、短い縄、木釘が数本。
「ついでだ。余りだが使える。背負い枠の補強にでもしろ。……代は銀貨一でいい」
ハルは迷わず払った。
こういう「使える余り」を逃すと、あとで詰む。
親方が、顔も上げずに言う。
「森の話をするなら、準備してから来い。運び手が増えたなら尚更だ。――口を汚すな」
ハルは一度だけ頭を下げた。
「守る」
工房を出ると、外の空気が冷たかった。
オウが銀貨の音を聞いたのか、横目だけで見てくる。
「……これが、お前の稼ぎ口か」
「一つだけな」
「一つでいい。増やすなら、段取りも増える」
ハルは苦笑しかけて、やめた。
図星だから、笑えない。
ユマが静かに言う。
「家に戻ったら、まず湯を用意してください。刃と布も。皮は、温度で駄目になります」
「分かった」
ハルは歩きながら、銀貨を革袋の奥へ落とした。
音が出ないように、底に当ててから入れる。
今は、見せない。
見せたら、余計な目が増える。
「戻るぞ」
三人は、ハルの家へ向かった。
※
台所上がりの女だと聞いていたが、手の動きが違う。
火を怖がらない。刃を怖がらない。
臭いを嫌がる様子もない。
「これ、水トカゲか。……皮、いいね」
ユマが言い、オウが荷を降ろす。
「油はここ。肉は塩。皮は剥いで、灰と水で洗って……なめすなら、次は樹皮の汁が要る」
ハルは耳を澄ませた。
「できるのか」
「やったことある。完璧じゃないけど、売り物にはなる」
売り物。
その言葉が、ハルの腹の奥を温めた。
「やってくれ。賃金は払う」
ユマは目だけでハルを見て、頷いた。
「じゃあ、材料と道具もいる。全部は無理。優先を決めて」
ハルは迷いかけて、止めた。
迷ってる場合じゃない。一年だ。
「油を先。次に皮。肉は塩漬けでいい。骨は——」
「骨は、削って針や留め具にできる。工房が欲しがることもある」
ユマが言い、オウが小さく笑った。
「やっぱり、お前ら二人がいると話が早いな」
ハルは、胸の内側で小さく頷いた。
この二人は、使える。
使えるからこそ、手放せなくなる。
※
夕方。
ユマとオウに加工の段取りを任せて、市場へ戻る。
人の波は引き、地面に落ちた藁と紙屑だけが残っている。
リツは布を畳み、縄をまとめ、瓶の口を一つずつ確かめていた。
ハルの足音に気づくと、顔を上げて小さく頭を下げる。
「おかえりなさい」
「……どうだった」
リツは言葉を選ぶみたいに一拍置いてから、布包みを差し出した。
「売れたのは、二つです。値段は言われた通り。釣りが必要な人には、断りました」
それだけで喉の奥が少し軽くなる。
ハルは頷いて、布包みを受け取った。
中には銅貨がきっちりまとめてある。別にしておいた釣り銭の袋も、口が固く結ばれている。
「……開けるぞ」
「はい」
ハルは膝をつき、銅貨を並べた。
一枚ずつ数える。指先が冷たい。けれど、数は狂わない。
釣り銭も確かめる。減っていない。増えてもいない。
合っている。
その事実が、今日いちばん効いた。
「……合ってる」
「よかったです」
リツは嬉しそうというより、ほっとした顔をした。
ハルは銅貨の山から、先に決めていた分を抜いた。
抜いた瞬間、手元が薄くなる。
それでも渡す。渡さないと、次がない。
「銅貨二十。約束どおり」
リツは両手で受け取って、胸の前で握った。
「分かりました。……次も、呼んでください」
ハルは少し黙ってから言った。
「呼びに行くのが手間だ。銅貨二十五。固定で頼みたい。週に二回。三の日と五の日。」
リツは目を瞬かせて、すぐ頷く。
喜ぶほど子どもじゃない。だが、軽くもない。
「はい。次は五の日の朝、ここに来ます」
ハルは頷いた。
保証金を預けたのはギルドだ。だが、こういうのは数字だけじゃない。
「……助かった」
「いえ。お仕事です」
リツは最後に、残りの瓶を布で包み直して差し出した。
「売れ残りです。割れてません」
「……よし」
ハルは包みを受け取り、背負い直した。
今日の売上げは大きくない。
けれど、釣り銭が合っている。
それだけで、次の段取りが組める。
家へ戻る途中、ハルは革袋を一度だけ開けた。
金貨が一枚。
銀貨が二十七枚。
銅貨が四十枚。
数は少しずつ動いている。だが、まだ厚くはない。
だから、崩し方を間違えたら終わる。
袋の口を縛り直し、背中に戻した。
ガルムとの契約期限
残り、364日。




