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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第17話 森の外の手

戸を開けると、土間の匂いがした。


冷えた灰、古い木、少しだけ酸っぱい鉄。


親父が使っていた作業場だ。


竈も、梁に通した縄も、干し棚もあるのに、ハルはまともに使ってこなかった。


見ないふりをしてきた場所だ。


今日は逃げられない。


ここでやる。



—-




冬の朝は、音が少ない。


空気が乾いていて、吐く息だけが白く見えた。


ハルは家を出る前に、革袋を二つに分けた。

ひとつは売り上げ用。ひとつは釣り銭用。釣り銭は小さく、銅貨中心。銀貨は入れない。

万一のために、札も入れておく。ギルドの印が押された、雇いの保証の札だ。


机の引き出しを一度、指で押さえた。

親父の手帳がそこにあると分かってるから、触れただけで落ち着く。


今日は、段取りの日だ。


その段取りに、人の手が入る。


市場の端に着くと、リツがもう来ていた。


薄い息を吐きながら、襟元を直している。雪は積もらないが、風は冷たい。

リツは約束通り、朝早い。


「……早いな」


「遅れると、信用が落ちます」


淡々と言う。

子どもの声なのに、言い方だけ大人だ。


ハルは布を広げ、瓶と札を並べた。防水油の小瓶。塩。薬草の束。干し肉は、今は少ない。

場違いに見えるが、並べないよりはマシだ。


「今日はこれだけ。値段はここ」


板切れに炭で書いた札を渡す。

油は銅貨いくら、薬草はいくら。端数を作らない値段にしてある。


「釣りは、銅貨だけなら渡す。銀貨は受けない。銀貨が出たら、『今日は細かいのがない』って言って断れ」


リツが頷く。


「釣り銭袋はこれ。足りなくなったら閉めていい。無理はするな。帳面は、ここに線を引くだけでいい」


ハルは小さな帳面を渡し、項目だけ作っておいた。

売った数、受け取った硬貨。余計な言葉はいらない。


リツは、札と帳面と釣り銭袋を順に確認した。

指が慣れている。手元が落ち着いている。少なくとも、遊びで来てない。


「……賃金。銅貨二十。終わったらここから抜く。足りなければ、俺が足す」


言い終えて、ハルは少しだけ息を吐いた。

“払う”と口にしただけで、責任が重くなる。


リツは小さく頷いた。


「分かりました」


布の端を整え、リツが売り口上を小さく言ってみせる。


「防水油。雨具の縫い目に。……薬草、少量」


声は大きくない。けれど通る。

背伸びしない声だ。


ハルは、視線を布から外した。


ここから先は、森だ。





切れ間へ向かう道で、ハルは何度も肩の荷を確かめた。

縄。厚い布。刃の厚い小刀。背負い枠。空の袋。

そして、金の筒は奥に入れたままにする。今日は嗅がない。


切れ間に着くと、ガルムがいた。


木陰の奥。いつもの距離。

冬の光でも、銀の毛並みが目立つ。


『来たか』


「来た。……今日は、頼る」


自分で言って、喉が少し乾いた。

言うと決めたのに、言葉にすると重い。


「樹脂を採る。その後、水場へ行く。水トカゲ。油が要る。運ぶのは、森の外まで手伝ってほしい」


ガルムはすぐには動かなかった。

鼻先がわずかに動く。


『一年だ』


「……一年」


『一年で形にしろ。

森を出る段取りを作れ。人の手を整えろ。口を増やせ。

一年で“動ける”だけの地を作れ』


ハルは息を飲んだ。

期限を言われると、逃げ道が消える。


「……やる」


『口先では要らぬ。

守れ。森の場所は言うな。口は売るな。余計な噂を作るな。

人を使うなら、縛りを作れ。保証を通せ。』


ガルムの言葉は短い。

けれど、千年の重さみたいなものが混じる。


ハルは頷いた。


「ギルドを通した。保証金も払った。店番はリツ。加工はユマ。荷運びはオウに半日だけ頼む」


『よい。……付いて来い』


ガルムが先に歩き出す。

ハルは背負い枠を背に当て直し、追った。


森の中は、冬でも湿りが残る。

足元の苔が滑る。枯れ枝が折れる音が響くから、踏み方を選ぶ。


ガルムが立ち止まり、顎先で木を示す。


針葉樹。裂け目。黒い筋。

そこから滲んだ樹脂が、薄く固まっている。


ハルは無言で作業に入った。


削らない。捻る。根元を生かす。

欠けを減らす。汚れを落とす。湿りを飛ばす。


手が覚えてきている。

嬉しいのに、少し怖い。慣れは雑を呼ぶ。


樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルは肩の力を抜いた。


『付いて来い。音を立てるな。水場は耳が利く』


沢が近づくにつれ、空気が冷たくなる。

湿り気のある匂い。苔。泥。水。


水辺の石の陰で、ガルムが伏せた。


『いる』


ハルは目を凝らす。

水面の際、泥の縁。鈍い影が動いた。


水トカゲ。


でかい。想像より、ずっとでかい。

前に見かけた時も思ったが、改めて見ても運べる気がしない。


次の瞬間、ガルムが跳んだ。

水しぶき。泥が跳ねる。低い唸り。


水トカゲが暴れる。尾が石を叩き、乾いた音がする。

だが、ガルムの牙が首元に入った瞬間、暴れが止まった。


静かになった。


ハルは近づき、膝をつく。

刃を入れるのは自分だ。ガルムは道具を使えない。使う必要もない。


血抜き。腹。内臓。

胆嚢は今回は要らない。油だ。皮だ。骨だ。


冬の冷気が、匂いを抑えている。

腐りは遅い。けれど、時間は味方じゃない。


ガルムは肉を食う。

骨の周りの旨いところだけ、迷いなく。

油の厚い部分は残る。好みじゃないらしい。


食い残しは、そのまま置かれた。


『余すな。全部使え』


「分かってる……」


ハルは歯を食いしばって、残りを解体した。


皮は剥ぐ。

骨は折らずに外す。

脂は袋に分ける。瓶に入れる分と、工房に回す分。


背負い枠に乗る重さじゃない。


ガルムが首を振った。


『森の外までだ。引け』


ハルは縄を出した。

太い縄。胴に回し、崩れないように結ぶ。

ガルムの肩に引き綱を通し、荷を“滑らせる”形にする。


枝で引くなんて無理だ。

森の中は石も根も多い。引くなら、力と体が要る。


ガルムが引いた。


泥が擦れる音。

重いものが地面を滑る音。

その音が森の奥へ抜けるたび、ハルは胸の奥がひゅっとなる。


目立つ。

けれど、ここから先は、人の手だ。


森の縁が見えたところで、ガルムが止まる。


『ここまでだ』


「……助かった」


ガルムは返事をしない。

鼻先を動かし、風を嗅いで、森へ戻っていった。





森の外。小さな道の脇に、オウがいた。


荷車のそばで腕を組み、待っている。

背が高く、肩が厚い。立っているだけで、運び手だと分かる体つきだった。


オウはハルの顔より先に、地面を見た。

泥に深い筋が一本。引きずった跡。

その横に、爪で抉ったみたいな傷がいくつもある。


視線が荷へ移る。

水トカゲの胴体。濡れた皮。重さが、見ただけで伝わる。


「……これを、一人でここまで出したのか」


疑いというより、確かめる声だった。


ハルは喉の渇きを飲み込んだ。

ガルムの背中は、もう森へ消えている。


「森の中で、手があった」


「手? もう一人雇ってたのか」


「違う」


一拍置く。言葉を間違えたら終わるやつだ。


「“契約”だ。今は言えない。場所と同じで、口にしたら終わる」


オウは眉だけ動かした。

それ以上は聞かない。代わりに、地面の跡をもう一度見てから、短く言う。


「……分かった。詮索はしねえ」


そして、声を少し落とす。


「だが、危ねえ類なら先に言え。中身はいらん。“危険がある”だけでいい。

運びの段取りが変わる。逃げ道も作る。命は安くない」


ハルは頷いた。


「分かった。危険がある時は、先に言う」


「それでいい」


オウは腕を解き、縄へ手を伸ばした。


「積むぞ。……でけえな」


板を敷き、布を噛ませ、縄を二重にする。

力任せじゃない。傷まない縛り方を知っている手つきだった。


ハルはそこで、ようやく息を吐いた。


「……半日で足りるか」


「足りるように動く。どこまでだ」


「家だ。まず家で水トカゲを降ろす。工房は、その後になる」


オウが鼻で短く息を吐く。


「なら、先に言っとけ。寄り道は?」


「ある。ギルドに寄る。半日雇いをもう一人拾う」


「……誰だ」


「ユマ。台所あがりだ。解体と、皮の扱いを少し知ってる」


オウは縄を締めながら言った。


「いい。手があれば早い。だが、道は混むぞ」


「分かってる」


オウが荷車の柄を握る。


「行くぞ。家と、その後はギルドだな」


オウが荷車を引き出す。

車輪が泥を噛み、重い音を立てて転がり始めた。




家に着くと、ハルは裏の土間へ回した。

人目に晒したまま置くのが嫌だった。


オウが荷車を止める。


「ここか」


「ここ。……降ろす」


二人で縄を解き、板を外し、ずるりと水トカゲの胴を土間へ滑らせる。

濡れた皮が冷たく光る。鼻に生臭さが残った。


「手早く戻る。ギルドで人を拾う」


オウは頷き、荷車を空にした。


「空なら早い。行くぞ」


ハルは扉を閉め、掛け金を確かめた。

中身がでかいほど、鍵が軽く感じる。


ギルド前は、人の出入りで落ち着かなかった。

今度は荷車が空なのに、視線が集まる気がする。

ハルは見られるのが嫌で、つい背が固くなる。


オウが低く言った。


「顔に出すな。余計に寄る」


「……分かってる」




ギルド前は、人の出入りで落ち着かなかった。

荷車の車輪が石を噛み、音が跳ねる。冬でも汗の匂いがする。


「……置いとく。すぐ戻る」


オウが頷いた。


「見張っとく。盗む奴がいたら、腕ごと折る」


冗談みたいな声だが、目は冗談じゃない。

ハルは短く礼を言って、ギルドへ戻った。


窓口は混んでいた。

札を受け取る手、荷を運ぶ手、揉める声。帳面を繰る音が止まらない。


順番が来て、ハルは短く言った。


「半日雇い。解体手伝い。ユマって名で」


窓口の男が帳面をめくる。


「ユマか。今日ならいる。保証金は前と同じだ」


ハルは銅貨を出した。

減る音が、指先に残る。


札が一枚、押しつけるように渡された。


「呼べ。あそこだ」


柱の影に、女がいた。

腰に布を挟み、手が荒れている。顔は若いが、目が落ち着いている。


ハルが札を見せると、ユマは一度だけ頷いた。


「分かりました。半日ですね」


「そう。うちへ来てほしい。――その前に、寄る所がある」


ユマが首をかしげる。


「どこですか」


「工房。納め物がある」


三人で路地へ入る。

オウは黙ってついてくるが、歩き方が“道を覚える”歩き方だった。曲がり角ごとに一度だけ目が動く。




「……ここか」


裏口の簡素な扉の前で、オウが低く言う。


ハルは頷いた。


「今日だけ、覚えといてくれ。次から荷が増える。俺一人じゃ回らん」


オウは一拍置いてから、短く言った。


「口は固い。だが、余計な揉め事は持ち込むな」


「分かってる」


扉が開き、若い作業着の男が顔を出した。


「来たか。……今日は連れが多いな」


「半日雇いだ。家で加工する。道具と、人手が要る」


男の視線がオウの肩と腕に止まり、次にユマの手へ落ちる。

職の手を見ている。


「親方は奥だ。品、先に出せ」


ハルは背負い袋から小袋を一つだけ出した。

樹脂。上物と、欠け物を分けた分。混ぜてない。


親方は無言で一つ摘まみ、光り方と断面を確かめる。

鼻先を近づけ、指先で粉の出を見た。


「……質は落ちてない」


それだけ言って、銀貨を机に置いた。

数えるのは早い。商いの指だ。


「上物、銀貨六。欠け物、銀貨二。合わせて八。――前と同じだ」


ハルは頷いた。

この“前と同じ”が、今はいちばんありがたい。


作業着の男が、横から小さな包みを差し出した。

革の端切れと、短い縄、木釘が数本。


「ついでだ。余りだが使える。背負い枠の補強にでもしろ。……代は銀貨一でいい」


ハルは迷わず払った。

こういう「使える余り」を逃すと、あとで詰む。


親方が、顔も上げずに言う。


「森の話をするなら、準備してから来い。運び手が増えたなら尚更だ。――口を汚すな」


ハルは一度だけ頭を下げた。


「守る」


工房を出ると、外の空気が冷たかった。

オウが銀貨の音を聞いたのか、横目だけで見てくる。


「……これが、お前の稼ぎ口か」


「一つだけな」


「一つでいい。増やすなら、段取りも増える」


ハルは苦笑しかけて、やめた。

図星だから、笑えない。


ユマが静かに言う。


「家に戻ったら、まず湯を用意してください。刃と布も。皮は、温度で駄目になります」


「分かった」


ハルは歩きながら、銀貨を革袋の奥へ落とした。

音が出ないように、底に当ててから入れる。


今は、見せない。

見せたら、余計な目が増える。


「戻るぞ」


三人は、ハルの家へ向かった。





台所上がりの女だと聞いていたが、手の動きが違う。

火を怖がらない。刃を怖がらない。

臭いを嫌がる様子もない。



「これ、水トカゲか。……皮、いいね」


ユマが言い、オウが荷を降ろす。


「油はここ。肉は塩。皮は剥いで、灰と水で洗って……なめすなら、次は樹皮の汁が要る」


ハルは耳を澄ませた。


「できるのか」


「やったことある。完璧じゃないけど、売り物にはなる」


売り物。

その言葉が、ハルの腹の奥を温めた。


「やってくれ。賃金は払う」


ユマは目だけでハルを見て、頷いた。


「じゃあ、材料と道具もいる。全部は無理。優先を決めて」


ハルは迷いかけて、止めた。

迷ってる場合じゃない。一年だ。


「油を先。次に皮。肉は塩漬けでいい。骨は——」


「骨は、削って針や留め具にできる。工房が欲しがることもある」


ユマが言い、オウが小さく笑った。


「やっぱり、お前ら二人がいると話が早いな」


ハルは、胸の内側で小さく頷いた。


この二人は、使える。

使えるからこそ、手放せなくなる。





夕方。

ユマとオウに加工の段取りを任せて、市場へ戻る。


人の波は引き、地面に落ちた藁と紙屑だけが残っている。


リツは布を畳み、縄をまとめ、瓶の口を一つずつ確かめていた。


ハルの足音に気づくと、顔を上げて小さく頭を下げる。


「おかえりなさい」


「……どうだった」


リツは言葉を選ぶみたいに一拍置いてから、布包みを差し出した。


「売れたのは、二つです。値段は言われた通り。釣りが必要な人には、断りました」


それだけで喉の奥が少し軽くなる。


ハルは頷いて、布包みを受け取った。


中には銅貨がきっちりまとめてある。別にしておいた釣り銭の袋も、口が固く結ばれている。


「……開けるぞ」


「はい」


ハルは膝をつき、銅貨を並べた。


一枚ずつ数える。指先が冷たい。けれど、数は狂わない。


釣り銭も確かめる。減っていない。増えてもいない。


合っている。


その事実が、今日いちばん効いた。


「……合ってる」


「よかったです」


リツは嬉しそうというより、ほっとした顔をした。


ハルは銅貨の山から、先に決めていた分を抜いた。


抜いた瞬間、手元が薄くなる。


それでも渡す。渡さないと、次がない。


「銅貨二十。約束どおり」


リツは両手で受け取って、胸の前で握った。


「分かりました。……次も、呼んでください」


ハルは少し黙ってから言った。


「呼びに行くのが手間だ。銅貨二十五。固定で頼みたい。週に二回。三の日と五の日。」


リツは目を瞬かせて、すぐ頷く。

喜ぶほど子どもじゃない。だが、軽くもない。


「はい。次は五の日の朝、ここに来ます」


ハルは頷いた。


保証金を預けたのはギルドだ。だが、こういうのは数字だけじゃない。


「……助かった」


「いえ。お仕事です」


リツは最後に、残りの瓶を布で包み直して差し出した。


「売れ残りです。割れてません」


「……よし」


ハルは包みを受け取り、背負い直した。


今日の売上げは大きくない。


けれど、釣り銭が合っている。


それだけで、次の段取りが組める。


家へ戻る途中、ハルは革袋を一度だけ開けた。


金貨が一枚。


銀貨が二十七枚。


銅貨が四十枚。


数は少しずつ動いている。だが、まだ厚くはない。


だから、崩し方を間違えたら終わる。


袋の口を縛り直し、背中に戻した。




ガルムとの契約期限

残り、364日。

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