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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第16話 名で縛る日


冬の朝は、明るくなるのが遅い。


家の戸を開けると、空気が薄い刃みたいに頬を撫でた。雪はない。けれど土は硬く、息は白い。


ハルはリュックを背負い直し、縄を二束、肩に掛けた。


昨夜のうちに、庭先で枝を組んだ。背負い枠の真似事。見た目はみすぼらしいが、背中に当ててみると、荷の重さが少し散る。


それだけで今日は「戻れる」気がした。


気がしただけで、実際はやってみないと分からない。


分からないのに、行く。


市場の端。


朝の湿った匂いの中に、油の匂いが混じっている。


ユマは約束通り、早く来ていた。髪を短く束ね、手袋のまま瓶を並べている。瓶は三つ。小さい。昨日よりさらに小さく見える。


「……少ないな」


口から出て、自分で嫌になった。


ユマは手を止めずに言った。


「少ないのは、変えようがないでしょ。並べ方でごまかす」


瓶の下に布を敷き、瓶の間を詰める。視線が散らないように。見せたいものだけ見えるように。


商売の手つきだった。


ハルは喉の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


安心じゃない。助かった、のほうだ。


「言った通り、ぴたりだけだ」


「分かってる。小銭を持ってない顔の客は最初から弾く」


ユマがさらりと言って、ハルは瞬きをした。


「……弾く、って」


「買う気があっても、釣りが出ないと揉める。揉めて得するのは客でも店でもない。今日は揉めない」


言い切られ、ハルは頷いた。


昨日の自分なら、揉めるのが怖くて折れていた。折れたら舐められる。それも分かっている。


分かっていても、出来ない日がある。


今日は、出来ない日を潰す日だ。


ハルは布袋から、銅貨を二十枚だけ抜いた。


賃金。


それをそのままユマの手に渡すのが怖かったので、一枚ずつ数えて置いた。みっともない。けれど、みっともなさは今さらだ。


「これで。保証金はギルドにある」


ユマは銅貨を見て、首だけ動かして頷いた。


「夕方まで。売れ残りはそのまま渡す。売れた分は、帳面じゃなくて、硬貨だけで返す。ぴたりだけだから、それで合う」


「……頼む」


頼む、と言うのは腹がむず痒い。けれど言わないと始まらない。


ハルが背を向けると、ユマが言った。


「森、行くんでしょ。帰りに寄って。顔だけは出して」


顔だけは出して。


それも、商売の言葉だった。


切れ間へ向かう道は、昨日までと同じだ。


違うのは、背中の縄の重さと、頭の中の段取りだけ。


段取りがあると、足が止まらない。


止まらないのに、腹の奥がざわつく。


市場を任せている。自分の店なのに、自分がいない。変な感じだ。


変な感じのまま、森へ入る。


木陰の奥に、ガルムがいた。


冬の光でも、毛並みの銀が目立つ。目だけが静かにこちらを見る。


『来たか』


「来た。……今日は、順番を守る」


『ほう』


「先に樹脂。約束がある。水場は後だ。運ぶ段取りも組む」


ガルムは鼻先を少し動かした。


『ようやく、頭が追いついたか』


褒めてはいない。いつもの調子だ。


ハルは苦笑して、息を吐いた。


「笑うな」


『笑ってはおらぬ。……付いて来い』


夜光樹脂の目印は、もう体に入っていた。


針葉樹の裂け目。青い苔。黒い筋。


見つけるのが早いと、手が雑になりそうになる。だから、そこで止める。


拭う。分ける。湿りを飛ばす。欠けを出さない。


工房の親方の顔が浮かぶ。あの低い声。


質が落ちたら、値も落ちる。


樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルは肩の力を抜いた。


袋の重さが、今日の「戻れる」に繋がる。


『次だ。音を立てるな。水場は耳が利く』


沢が近づくにつれ、空気が冷たくなる。


湿り気のある匂い。苔。泥。水。


足元の葉が濡れていて、踏むと柔らかい音がする。ハルはそれが怖くて、つい息を止めた。


『息を止めるな。肩が上がる』


言われて、ハルはゆっくり吐いた。


吐くと、足の裏が少しだけ落ち着く。


水トカゲは、想像より大きかった。


胴が太い。尻尾が長い。皮が硬そうだ。水から上がった瞬間、体を振って、冷たい飛沫を撒く。


ハルは反射で一歩引きそうになり、止めた。


逃げたら終わる。


終わるのは嫌だ。


嫌だから、動く。


「……油は、腹の下だよな」


父の手帳の字が脳裏に浮かぶ。水系。脂。防水。火を強くするな。


知っているふりをしているだけだ。今日やるのは、初めてだ。


ガルムが沢の向こうへ回る。


水面がふっと揺れて、水トカゲの首がそちらへ向いた。


その一瞬。


ハルは縄を投げた。


狙ったわけじゃない。体が先に動いた。運よく、縄が胴に絡む。


水トカゲが暴れる。


引っ張られる。足が滑る。冷たい泥が靴の中に入る。


「……っ!」


声が漏れた。


ガルムが低く唸った。


唸り声だけで、水トカゲの動きが一瞬止まる。


止まった瞬間に、ハルは縄を締めた。締めながら、手のひらが痛い。縄が食い込む。


痛いのに、離さない。


水トカゲは大きく息を吐き、ぐったりと動かなくなった。


冬の冷気が、あまりに早く熱を奪う。


ハルは息を吐いた。


震えが止まらない。怖さと寒さが混じっている。


「……運ぶぞ」


『先に、腹を裂け。油は温い内に抜け。冷えれば固まる』


「分かってる」


分かってない。けれど、分かった顔で動く。


小刀を抜く。


刃が厚い。握りが滑りにくい。昨日買ったやつだ。


役に立て、と手のひらに言い聞かせる。


腹を裂くと、匂いが立った。生臭さ。湿った土。内臓の熱。


それでも、油の匂いがある。少し甘い。重い匂い。


ハルは革袋を取り出し、油を丁寧に移した。


落としたら終わる。


落としたら、また端っこの布の上だ。


その恐怖で、指が止まらない。


問題は、その後だった。


死体が重い。


持ち上がらない。肩に乗らない。


昨日の反省がそのまま目の前にある。


「……やっぱり、無理だな」


『だから縄だ』


ガルムが顎で示した。


ハルは持ってきた枝を二本、地面に並べる。


先端を縄で縛る。簡単な橇の形。枝の間に、樹皮を剥いだ細い枝を渡し、面を作る。


その上に、水トカゲの胴を転がして載せた。


呻きそうになる重さ。


「……これ、引けるか」


『我が引く』


ハルは目を見開いた。


「お前が?」


『口を増やすのだろう。なら、手も出す。……ただし、勘違いするな。借りだ』


借り。


その言葉が、胸の奥に残った。


助けてもらうことを決めた、と自分で言った。


決めたなら、受け取る。


受け取った分、返す。


返せるように稼ぐ。


ハルは頷いた。


「……分かった」


ガルムが縄を咥え、橇を引き始める。


枝が枯れ葉を擦る音がする。重い音だ。冬の森の中で、その音だけがやけに大きい。


ハルは樹脂の袋を背負い直し、油の革袋を胸に抱えた。


落としたら終わるからだ。


町へ戻る頃には、日は傾いていた。


市場の喧噪が、遠くから聞こえてくる。


ハルは真っ先に自分の端へ向かった。


ユマは布の前に立っていた。


瓶は、二つになっている。


一本、売れた。


胸の奥が、じわりと温かくなる。売れたことより、残っていることが。


消えてない。


逃げてない。


それだけで、喉がほどける。


「……どうだった」


ユマは硬貨を一つ、ハルの掌に置いた。


「銅貨十。ぴたりの客だけ」


銅貨十。


小さい。けれど、今日のハルには大きい。


「文句は」


「釣りが出ないなら買わない、って顔で追い返した。二人、舌打ちした。舌打ちだけ」


舌打ちだけ。


それも、助かった。


ハルは銅貨を数えて、頷いた。


「……ありがとう」


ユマは淡々と布を畳みながら言った。


「明日も? それとも今日で終わり?」


その問いが、刺さる。


刺さる、じゃない。


腹の奥に沈む。


明日も、だ。


工房の約束がある。


水トカゲの残りもある。ギルドへ持ち込むか、試す価値はある。


一人じゃ回らない。


「明日も……頼むかもしれない。ギルド経由で」


「分かった」


それだけで、ユマは引いた。


余計な詮索をしない。詮索をしたら、口が増える。


ハルはその意味が分かって、少しだけ背筋が伸びた。


夜。


工房街の裏口。


扉を叩くと、昨日の若い男が出た。


「来たか。……荷が多いな」


「樹脂。約束の分。欠けは分けてある」


「見せろ」


袋を開ける。


親方が出てきて、いつものように無言で摘まみ、鼻を寄せた。


「……落としてないな」


その一言で、肩が抜ける。


親方は銀貨を数え、袋を返した。


「上物は銀貨六枚。欠けは銀貨二枚。合わせて八枚。口は続ける。質は落とすな」


「分かってる」


分かってる、が今夜は軽くない。


親方が、ハルの胸元の膨らみへ目を向けた。


「それは何だ」


「……油。防水に向く」


親方は少しだけ眉を動かした。


「売るのか」


「試す。……まだ、作り方は浅い」


「浅いなら浅いなりに売れ。買う奴はいる。だが、言い方を間違えるな。効くと言い切るな。出来ることだけ言え」


「……はい」


商売の言葉だ。


父の手帳より生々しい。


工房を出ると、夜の空気が痛いほど澄んでいた。


銀貨八枚が、革袋の底で鳴る。


鳴る音が、今日は嫌じゃない。


嫌じゃないのに、安心はしない。


安心すると、足元をすくわれる。


切れ間へ戻ると、ガルムが待っていた。


橇の縄はもう口にない。体のどこにも疲れた気配がない。


『口は繋いだか』


「繋いだ」


『なら次だ。手だ』


ハルは頷いた。


今日、ユマに任せて森へ行けた。


それで回った。


回ったが、ぎりぎりだ。


ぎりぎりを続けると、必ずどこかで裂ける。


ハルは革袋を握り直した。


冷たい音がする。


冷たい音の中に、少しだけ厚みが増えてきた。


厚みが増えた分、目も増える。


増えるなら、こちらも増やすしかない。


「……次は、樹脂を任せられる手を探す」


口に出すと、少しだけ現実になる。


ガルムが鼻先をわずかに動かした。


『言えるようになったな』


ハルは苦笑した。


言えるようになっただけだ。


出来るようになるのは、これからだ。


冬の夜は長い。


けれど今日は、長い夜が怖くなかった。


明日の段取りが、頭の中に並んでいた。

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