第16話 名で縛る日
冬の朝は、明るくなるのが遅い。
家の戸を開けると、空気が薄い刃みたいに頬を撫でた。雪はない。けれど土は硬く、息は白い。
ハルはリュックを背負い直し、縄を二束、肩に掛けた。
昨夜のうちに、庭先で枝を組んだ。背負い枠の真似事。見た目はみすぼらしいが、背中に当ててみると、荷の重さが少し散る。
それだけで今日は「戻れる」気がした。
気がしただけで、実際はやってみないと分からない。
分からないのに、行く。
市場の端。
朝の湿った匂いの中に、油の匂いが混じっている。
ユマは約束通り、早く来ていた。髪を短く束ね、手袋のまま瓶を並べている。瓶は三つ。小さい。昨日よりさらに小さく見える。
「……少ないな」
口から出て、自分で嫌になった。
ユマは手を止めずに言った。
「少ないのは、変えようがないでしょ。並べ方でごまかす」
瓶の下に布を敷き、瓶の間を詰める。視線が散らないように。見せたいものだけ見えるように。
商売の手つきだった。
ハルは喉の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
安心じゃない。助かった、のほうだ。
「言った通り、ぴたりだけだ」
「分かってる。小銭を持ってない顔の客は最初から弾く」
ユマがさらりと言って、ハルは瞬きをした。
「……弾く、って」
「買う気があっても、釣りが出ないと揉める。揉めて得するのは客でも店でもない。今日は揉めない」
言い切られ、ハルは頷いた。
昨日の自分なら、揉めるのが怖くて折れていた。折れたら舐められる。それも分かっている。
分かっていても、出来ない日がある。
今日は、出来ない日を潰す日だ。
ハルは布袋から、銅貨を二十枚だけ抜いた。
賃金。
それをそのままユマの手に渡すのが怖かったので、一枚ずつ数えて置いた。みっともない。けれど、みっともなさは今さらだ。
「これで。保証金はギルドにある」
ユマは銅貨を見て、首だけ動かして頷いた。
「夕方まで。売れ残りはそのまま渡す。売れた分は、帳面じゃなくて、硬貨だけで返す。ぴたりだけだから、それで合う」
「……頼む」
頼む、と言うのは腹がむず痒い。けれど言わないと始まらない。
ハルが背を向けると、ユマが言った。
「森、行くんでしょ。帰りに寄って。顔だけは出して」
顔だけは出して。
それも、商売の言葉だった。
切れ間へ向かう道は、昨日までと同じだ。
違うのは、背中の縄の重さと、頭の中の段取りだけ。
段取りがあると、足が止まらない。
止まらないのに、腹の奥がざわつく。
市場を任せている。自分の店なのに、自分がいない。変な感じだ。
変な感じのまま、森へ入る。
木陰の奥に、ガルムがいた。
冬の光でも、毛並みの銀が目立つ。目だけが静かにこちらを見る。
『来たか』
「来た。……今日は、順番を守る」
『ほう』
「先に樹脂。約束がある。水場は後だ。運ぶ段取りも組む」
ガルムは鼻先を少し動かした。
『ようやく、頭が追いついたか』
褒めてはいない。いつもの調子だ。
ハルは苦笑して、息を吐いた。
「笑うな」
『笑ってはおらぬ。……付いて来い』
夜光樹脂の目印は、もう体に入っていた。
針葉樹の裂け目。青い苔。黒い筋。
見つけるのが早いと、手が雑になりそうになる。だから、そこで止める。
拭う。分ける。湿りを飛ばす。欠けを出さない。
工房の親方の顔が浮かぶ。あの低い声。
質が落ちたら、値も落ちる。
樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルは肩の力を抜いた。
袋の重さが、今日の「戻れる」に繋がる。
『次だ。音を立てるな。水場は耳が利く』
沢が近づくにつれ、空気が冷たくなる。
湿り気のある匂い。苔。泥。水。
足元の葉が濡れていて、踏むと柔らかい音がする。ハルはそれが怖くて、つい息を止めた。
『息を止めるな。肩が上がる』
言われて、ハルはゆっくり吐いた。
吐くと、足の裏が少しだけ落ち着く。
水トカゲは、想像より大きかった。
胴が太い。尻尾が長い。皮が硬そうだ。水から上がった瞬間、体を振って、冷たい飛沫を撒く。
ハルは反射で一歩引きそうになり、止めた。
逃げたら終わる。
終わるのは嫌だ。
嫌だから、動く。
「……油は、腹の下だよな」
父の手帳の字が脳裏に浮かぶ。水系。脂。防水。火を強くするな。
知っているふりをしているだけだ。今日やるのは、初めてだ。
ガルムが沢の向こうへ回る。
水面がふっと揺れて、水トカゲの首がそちらへ向いた。
その一瞬。
ハルは縄を投げた。
狙ったわけじゃない。体が先に動いた。運よく、縄が胴に絡む。
水トカゲが暴れる。
引っ張られる。足が滑る。冷たい泥が靴の中に入る。
「……っ!」
声が漏れた。
ガルムが低く唸った。
唸り声だけで、水トカゲの動きが一瞬止まる。
止まった瞬間に、ハルは縄を締めた。締めながら、手のひらが痛い。縄が食い込む。
痛いのに、離さない。
水トカゲは大きく息を吐き、ぐったりと動かなくなった。
冬の冷気が、あまりに早く熱を奪う。
ハルは息を吐いた。
震えが止まらない。怖さと寒さが混じっている。
「……運ぶぞ」
『先に、腹を裂け。油は温い内に抜け。冷えれば固まる』
「分かってる」
分かってない。けれど、分かった顔で動く。
小刀を抜く。
刃が厚い。握りが滑りにくい。昨日買ったやつだ。
役に立て、と手のひらに言い聞かせる。
腹を裂くと、匂いが立った。生臭さ。湿った土。内臓の熱。
それでも、油の匂いがある。少し甘い。重い匂い。
ハルは革袋を取り出し、油を丁寧に移した。
落としたら終わる。
落としたら、また端っこの布の上だ。
その恐怖で、指が止まらない。
問題は、その後だった。
死体が重い。
持ち上がらない。肩に乗らない。
昨日の反省がそのまま目の前にある。
「……やっぱり、無理だな」
『だから縄だ』
ガルムが顎で示した。
ハルは持ってきた枝を二本、地面に並べる。
先端を縄で縛る。簡単な橇の形。枝の間に、樹皮を剥いだ細い枝を渡し、面を作る。
その上に、水トカゲの胴を転がして載せた。
呻きそうになる重さ。
「……これ、引けるか」
『我が引く』
ハルは目を見開いた。
「お前が?」
『口を増やすのだろう。なら、手も出す。……ただし、勘違いするな。借りだ』
借り。
その言葉が、胸の奥に残った。
助けてもらうことを決めた、と自分で言った。
決めたなら、受け取る。
受け取った分、返す。
返せるように稼ぐ。
ハルは頷いた。
「……分かった」
ガルムが縄を咥え、橇を引き始める。
枝が枯れ葉を擦る音がする。重い音だ。冬の森の中で、その音だけがやけに大きい。
ハルは樹脂の袋を背負い直し、油の革袋を胸に抱えた。
落としたら終わるからだ。
町へ戻る頃には、日は傾いていた。
市場の喧噪が、遠くから聞こえてくる。
ハルは真っ先に自分の端へ向かった。
ユマは布の前に立っていた。
瓶は、二つになっている。
一本、売れた。
胸の奥が、じわりと温かくなる。売れたことより、残っていることが。
消えてない。
逃げてない。
それだけで、喉がほどける。
「……どうだった」
ユマは硬貨を一つ、ハルの掌に置いた。
「銅貨十。ぴたりの客だけ」
銅貨十。
小さい。けれど、今日のハルには大きい。
「文句は」
「釣りが出ないなら買わない、って顔で追い返した。二人、舌打ちした。舌打ちだけ」
舌打ちだけ。
それも、助かった。
ハルは銅貨を数えて、頷いた。
「……ありがとう」
ユマは淡々と布を畳みながら言った。
「明日も? それとも今日で終わり?」
その問いが、刺さる。
刺さる、じゃない。
腹の奥に沈む。
明日も、だ。
工房の約束がある。
水トカゲの残りもある。ギルドへ持ち込むか、試す価値はある。
一人じゃ回らない。
「明日も……頼むかもしれない。ギルド経由で」
「分かった」
それだけで、ユマは引いた。
余計な詮索をしない。詮索をしたら、口が増える。
ハルはその意味が分かって、少しだけ背筋が伸びた。
夜。
工房街の裏口。
扉を叩くと、昨日の若い男が出た。
「来たか。……荷が多いな」
「樹脂。約束の分。欠けは分けてある」
「見せろ」
袋を開ける。
親方が出てきて、いつものように無言で摘まみ、鼻を寄せた。
「……落としてないな」
その一言で、肩が抜ける。
親方は銀貨を数え、袋を返した。
「上物は銀貨六枚。欠けは銀貨二枚。合わせて八枚。口は続ける。質は落とすな」
「分かってる」
分かってる、が今夜は軽くない。
親方が、ハルの胸元の膨らみへ目を向けた。
「それは何だ」
「……油。防水に向く」
親方は少しだけ眉を動かした。
「売るのか」
「試す。……まだ、作り方は浅い」
「浅いなら浅いなりに売れ。買う奴はいる。だが、言い方を間違えるな。効くと言い切るな。出来ることだけ言え」
「……はい」
商売の言葉だ。
父の手帳より生々しい。
工房を出ると、夜の空気が痛いほど澄んでいた。
銀貨八枚が、革袋の底で鳴る。
鳴る音が、今日は嫌じゃない。
嫌じゃないのに、安心はしない。
安心すると、足元をすくわれる。
切れ間へ戻ると、ガルムが待っていた。
橇の縄はもう口にない。体のどこにも疲れた気配がない。
『口は繋いだか』
「繋いだ」
『なら次だ。手だ』
ハルは頷いた。
今日、ユマに任せて森へ行けた。
それで回った。
回ったが、ぎりぎりだ。
ぎりぎりを続けると、必ずどこかで裂ける。
ハルは革袋を握り直した。
冷たい音がする。
冷たい音の中に、少しだけ厚みが増えてきた。
厚みが増えた分、目も増える。
増えるなら、こちらも増やすしかない。
「……次は、樹脂を任せられる手を探す」
口に出すと、少しだけ現実になる。
ガルムが鼻先をわずかに動かした。
『言えるようになったな』
ハルは苦笑した。
言えるようになっただけだ。
出来るようになるのは、これからだ。
冬の夜は長い。
けれど今日は、長い夜が怖くなかった。
明日の段取りが、頭の中に並んでいた。




