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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第15話 一年の約束

冬の朝の失敗は、夕方になっても体に残っていた。


リュックの底に沈んだ樹脂袋は、手に取るとずしりと重い。約束の分はある。だから工房へは出せる。


けれど、もう一つの袋。水トカゲの脂だけを詰めた小瓶は、軽すぎた。


持ち帰れなかった分の肉と骨。皮。胆。油。売れるものが山ほどあったのに、山に置いてきた。


置いてきた、と言っていいのか。


あの大きさを前にして、運ぶ方法を考えもしないまま刃を入れたのは自分だ。帰り道の肩紐が食い込む痛みと一緒に、情けなさがじわじわ来る。


家の戸を閉めると、室内は外より少しだけ温かい。かまどの灰の匂いが薄く残っていて、鼻が落ち着く。


ハルは鍋に水を張り、火にかけた。湯が鳴くまでの間に、指先で樹脂袋の口を結び直す。紐が固く、指が思うように動かない。


湯気が立って、ようやく腹の奥が「まだ生きてる」と言い出した。


「……うまくやるって、難しいな」


独り言は、家の壁で小さく跳ね返って消えた。


翌朝。


空は薄く、音が遠い。息を吐くと白い。


工房へ向かう道すがら、ハルは何度も、昨日の山道を頭でなぞった。


あそこで刃を入れた。あそこで止まった。あそこで「運べない」と分かった。分かった瞬間、何も出来なかった。


縄があれば、枝で背負い枠が組めたかもしれない。


滑り止めの皮があれば、斜面でも引けたかもしれない。


そもそも、手が二つしかないのが一番の問題だ。


工房街の空気は乾いている。火と金属の匂いが鼻に刺さる。扉を叩く音が腹に響く。


裏口を叩くと、昨日の若い使い走りが顔を出した。


「来たか。樹脂か」


「約束の分はある」


「入れ」


炉の熱が頬を叩いた。汗の匂い。油の匂い。鉄の粉の匂い。慣れないうちは息が詰まるのに、最近はその熱のほうが落ち着くから困る。


奥の親方は、目だけでハルを見た。


「遅れてないな」


「……遅れたら終わる」


ハルが袋を差し出すと、親方は中身を見て、指で数え、短く頷いた。


「上物。質は落ちてない。よし」


銀貨が手のひらに落ちる音は、乾いているのに妙に重い。


親方はそれで終わりにするかと思ったが、袋の外側についた薄い泥を見て、鼻で笑った。


「山へ入ったか」


「……入った。獲物も見た」


「持ち帰れなかった顔だ」


言い返したいのに、言い返せる材料がない。ハルは口をつぐんだ。


親方が腕を組む。


「運べない獲物に刃を入れるな。切った時点で、もうお前の手に負えん」


「分かってる」


「分かってないから、置いてくる」


親方の声は低い。怒鳴ってはいない。だから余計に効く。


「……どうすればいい」


親方は少しだけ顎を上げた。


「道具だ。縄だ。背負い枠だ。ソリでもいい。あと人だ」


「人」


「森へ入る手。荷を運ぶ手。店を守る手。お前ひとりで回る量じゃない。稼ぎが太くなったなら、先に手を増やせ」


ハルは銀貨を握り直した。


手を増やす。増やしたら増やしたで、面倒が増える。盗まれる。口が漏れる。揉める。


昨日みたいに、運べないまま置いてくるのも嫌だ。


どっちも嫌で、どっちも避けられない。


親方が言った。


「拾った手に任せるな。身元が立つやつにしろ。ギルド経由なら、帳面が残る」


「ギルド……」


「商人ギルドでも、職人組合でも、何でもいい。名が残る所を通せ。名が残るのを嫌がるやつは、だいたい後ろ暗い」


それは、分かりやすい理屈だった。分かりやすいのに、今までハルの頭には入ってこなかった。


親方は仕事へ戻るように手を振った。


「次からは、森の話をするなら準備してから来い。お前は今、運がいい。運だけで生きるな」


工房を出ると、外の冷気が肺に入った。熱が抜けていくのが分かる。


ハルは立ち止まって、息を一つ吐いた。


「運だけで……か」


その言葉が、胸の内側で転がる。


市場へ戻ると、リツがいた。


小さな背中で客をさばく。声は大きくないが、はっきり届く。油瓶は三つだけ。値札も簡素。なのに、立ち止まる人がいる。


リツはハルを見つけると、売り台の下から布を出し、銅貨を包んで渡した。


「これ。今日の分」


「……助かった」


ハルは銅貨を数えた。手が冷えて、指がもつれる。数える間に客が一人来る。リツが「釣りは出ない」と先に言って、ぴたりの客だけ通す。


売る分だけ任せる。釣り銭は置かない。帳面はハルが付ける。


それでも、銅貨の山を見ていると、目の前が少し暗くなる。


ここから雇い賃を抜くと、もっと少なくなる。


抜いた瞬間、胸が縮む。縮むのに、払う。


払わないと、次がない。


ハルは決めていた分をリツへ渡した。


「……約束の銅貨二十だ」


リツは受け取り、懐へ入れた。表情は変わらない。仕事の顔だ。


「また必要なら、声をかけてください」


「……ああ」


リツが去ってから、ハルは売り台の端に手を置いた。


雇うってのは、人の一日を借りるってことだ。


借りた分は返さなきゃいけない。返せないなら、借りるな。


それが、ようやく腹に落ちた。


切れ間へ戻ると、ガルムがいた。


木陰の奥。いつもの距離。巨体はじっとしているのに、目だけがこちらを見ている。


『工房へは出せたか』


「出せた。……運べなかった分が、腹に残ってる」


ガルムは鼻先を少し動かした。


『見たのに、運ぶ段取りをしなかった。それだけだ』


言葉が短い。逃げ道がない。


「……そうだな」


ハルは唇を噛んで、続けた。

そうだ、以前にガルムが家先に放っていったミズトカゲは一人で運ぶには難しかった。


「次は、縄と背負い枠を作る。滑らせる板もいる。あと……人も要る」


『人は増えるほど、面倒も増える』


「分かってる」


分かっている、と言いながら、分かっていない部分がまだある。


だからこそ、今度は逃げない。


「でも、俺ひとりじゃ回らない。樹脂の約束もある。油も作る。もっと先の素材も探す。全部やるなら、手が足りない」


ガルムは一度だけ、低く息を吐いた。


『なら、選べ。口の固い者。手の早い者。欲に目が眩まぬ者。そんな都合のよい人間は少ない。だから、まず“名”で縛れ』


名で縛る。


親方の言っていた「帳面が残る」に繋がる言葉だった。


ハルは頷いた。


「ギルドへ行く。紹介を頼む。金を払ってでも、筋の通った手が欲しい」


言った瞬間、自分の声が少しだけ強く聞こえた。


怖さが消えたわけじゃない。


ただ、怖いままで段取りを組むしかないと分かった。


ハルはリュックの中の銀貨の重さを確かめた。


薄い音が鳴る。


この音を、次は「残る音」にしたい。


端っこの布の上へ戻るのは、もう嫌だった。




冬の風が、切れ間の枯れ葉を鳴らしていた。


ガルムの言葉が耳の奥に残る。


名で縛れ。


ハルは家へ戻る道すがら、頭の中で何度も順番を並べ替えた。


縄と背負い枠。


店番。


森へ入る日。


工房へ出す日。


どれも一つずつなら出来る。


重なると崩れる。崩れたとき、盗まれる。


昨日がそれだった。


家へ戻ると、かまどの灰が冷えきっていた。


湯を沸かして、塩をひとつまみ入れる。


それだけで喉がほどける。


握ったままの銀貨が、掌の中で冷たい。


冷たいのに、これがないと話が始まらない。


机の引き出しを開ける。


父の手帳は、紙の色が少し黄ばんでいる。


高い紙。捨てられない紙。


ハルはぱらりとめくって、端の余白に短く書き足した。


—-

雇うなら


名の残る所


預り金


帳面


口は閉じさせる

—-


書いて、息を吐く。


文字にすると少しだけ落ち着く。


落ち着いたところで、また腹が嫌な音を立てる。


落ち着いただけで、何も解決してない。





翌朝。


薄い空の下、ハルは商人ギルドへ向かった。


朝の市場はまだ寝ぼけている。


それでも、早い火と早い声がある。


早い者が先に場所を取る。


早い者が先に顔を売る。


ギルドの扉を押すと、木の匂いと墨の匂いが混じっていた。


受付台の向こうで、書記が二人、羽ペンを動かしている。


布袋を握りしめている自分の手が、場違いに見える。


見えるのに、引き返さない。



「……雇い手配を頼みたい」


声が少し掠れた。


書記の一人が顔を上げる。


男でも女でもない、仕事の目だった。


「雇い。日雇いか、月か」


「日雇い。……店番と、荷の見張り。それから、森へ入る日だけ。森は、俺が入る」


「店番だけ。釣り銭は」


「置かない。ぴたりだけ」


書記は頷き、別の紙を引き寄せた。


「雇い主の名」


「ハル」


「等級札」


胸の内側から札を出すと、書記は札の印を確かめた。


「……工房の印も持ってるな」


言われて、背筋が一瞬固くなる。


言葉にするな、と喉が言う。


だが、書記はただの確認として言っただけだった。


ここには毎日、色んな口が出入りしている。


その一つ、という目だった。



「条件。賃金」


「銅貨二十。半日なら銅貨十」


書記が眉をほんの少しだけ動かす。


「安い」


図星で、ハルは口の端が引きつった。


安いのは分かってる。


けれど、払えるのがそれだけだ。


その顔を見て、書記は言い方を変えた。


「安いと、寄るのは軽い手だ。軽い手は軽い金で動く。軽い金で動く手は、軽く消える」


ハルは黙って聞いた。


昨日、消えた手を思い出す。


軽い声。軽い約束。


軽いまま、全部持っていった。


「……じゃあ、どうすればいい」


書記は紙の端を指で叩いた。


「保証金。雇い主が預ける。雇われる側も預ける。逃げたら、逃げた方の分は没収。雇い主が不払いなら、雇い主の分が没収」


「俺も預けるのか」


「当たり前だ。ここは揉め事の掃き溜めじゃない。名を残すなら、両方が縛られる」


そう言われると、筋が通る。


筋が通るから怖い。


銀貨がまた減る。


「保証金は、いくら」


「雇い主は銀貨一枚。雇われる側は銅貨五十。日雇いならそれで足りる。賃金は銅貨二十のままでもいい。だが、釣り銭無しなら客を選ぶ。売り上げは落ちる。それは覚悟だ」


ハルは頷いた。


売り上げが落ちても、盗まれるよりはいい。


盗まれたら、ゼロじゃない。


マイナスだ。


「……預けます」


ハルは銀貨を一枚、台の上に置いた。


硬貨の音が、静かな部屋で目立つ。


それでも置く。


置いた瞬間、腹の奥がきゅっと縮む。


縮むのに、手は引っ込めない。


書記は銀貨を取り、木箱に落とした。


箱の底で、鈍い音がした。


「札を出す。雇い札だ。今日から七日、手配が効く。必要な日を言え」


「明日。森へ行くから、店番が要る」


書記が紙をめくる。


「明日なら、二人いる。片方は元荷運び。口は固いが、腕は荒い。もう一人は台所上がり。手は細いが、目が利く」



ハルはその場で、喉が鳴った。


目が利く。


それは、良くも悪くもだ。


盗む目も、目が利く。


「……会えるか」


「会える。裏の手配所へ行け」


書記は短く顎をしゃくった。


その仕草だけで、ここが「当たり前」に回っているのが分かる。


当たり前に回っている場所に、今まで来なかったのは自分だ。


来なかったくせに、盗まれて腹を立てた。


自分の馬鹿さが、じわりと来る。



裏の手配所は、表より暗い。


人の匂いが濃い。


汗。油。古い革。


待っている顔がいくつかある。


どれも、腹の減った顔だ。


腹が減っているのに、目が生きている。


その目が、ハルを見る。


手配係が言った。


「雇い札」


ハルが札を見せると、手配係は頷いた。


「明日。店番。釣り銭なし。品は油と塩か」


「油が主だ。……塩は少し」


「森へ行くのは、お前だな」


「そうだ」


手配係は、候補の二人に目を向けた。


「まず、名」


元荷運びの男が言う。


「オウ」


短い。短いが、目が泳がない。


台所上がりの女が言う。


「ユマ」


声が静かだ。


静かな声は、場を荒らさない。


荒らさないのは助かる。


手配係が続ける。


「保証金。銅貨五十、出せるか」


二人とも、黙って頷く。


そこで初めて、ハルは少し息が楽になる。


少なくとも、今この場で逃げる気はない。


ハルは二人を見比べた。


親父の声が頭の隅で動く。



——相手を見ろ。——


立ち方。目。手の癖。



オウは指に古い傷が多い。


荷を扱ってきた手だ。


爪の間に黒いものが残っている。


仕事の黒だ。


盗みの黒じゃない……と信じたいが、決め手にはならない。



ユマは手が荒れている。


水仕事の荒れ方だ。


指先が細い。


帳面は付けられそうだ。


だが、釣り銭無しなら帳面は要らない。


要るのは、客をさばく度胸だ。



ハルは言った。


「客を選ぶ。ぴたりだけだ。文句を言われても、折れないでいられるか」


オウが言う。


「折れたら、舐められる。折れねえ」


ユマが言う。


「折れない。でも、揉めるのは嫌い。揉める前に、言い方を変える」


その言葉が、意外に腹へ落ちた。


揉める前に言い方を変える。


それは、商いのやり方だ。



荒い手より、こっちが要る。


「……ユマ。明日だけ頼む」


ユマが頷く。


「分かった」


オウは肩をすくめる。


怒らない。


それだけで、少し怖い。


怒らない手は、どこで怒るか分からない。


だが今日はそれでいい。


今日は「一日」だ。


手配係が紙を出す。


「条件。雇い賃、銅貨二十。保証金、双方預かり。逃げたら没収。以上」


ユマが銅貨を出し、箱に入れる。


ハルは自分の銀貨が既に箱にあるのを思い出す。


名で縛る、というのはこういうことだ。


ギルドを出ると、冬の空気が顔を切った。


冷たい。


冷たいのに、胸の奥は少しだけ熱い。


熱いのは、安心じゃない。


責任だ。




ハルはまっすぐ切れ間へ向かった。


言わないといけない。

決めないと、また同じことをやる。


木陰の奥に、銀の毛並みが見えた。

ガルムは動かない。だが、こちらが来たのは分かっている。鼻先がわずかに動いた。


ハルは息を整えきれないまま、言った。


「……運ぶの、手伝ってほしい。森の中でだ。外まで……いや、せめて人目のつかない所まで」


ガルムは動かない。

鼻先がわずかに動いて、それで終わり。


『都合のいい話だな』


「分かってる」


『おまえの都合だ。

我に得はない。――得のない手は、長くは出さん』


言い方が淡々としているのに、突き放し方だけが重い。


ハルは唇を噛んだ。

言い訳を並べたら、終わる。だから、先に出した。


「……じゃあ、区切る。期限を決める。俺が身を立てるまでの“期間”だ」


ガルムの目が、細くなる。


『それを今、口で言うだけか』


「違う。誓う。……条件も付けていい」


沈黙が落ちた。

風が葉を鳴らす音だけが、間に残る。


ガルムが、低く言った。


『よし。なら“約束”を作る。

我はおまえの獲物を、森の外まで運ぶ。毎回ではない。必要な時だけだ。

ただし――人目のある所には出さぬ。町の門までは運ばん。そこから先は人間の足でやれ』


「分かった」


『次。期限だ』


ガルムは一拍置き、冷えた声で区切った。


『次の冬が来るまで。

一年だ。』


ハルの喉が鳴った。

一年。短い。だが、短くないと意味がない。


「……一年で、何を?」


『三つだ』


ガルムは順番を崩さない。


『一つ。稼ぎを“形”にしろ。

樹脂だけに噛みつくな。加工の手を覚え、売り物を増やせ。父の本があるのだろう。まずそれを使え』


ハルは頷いた。逃げたい気持ちを飲み込む。


『二つ。人の手を整えろ。

その場の思いつきで雇うな。必ず後ろ盾を付けろ。ギルドでも工房でもいい。口の固い者を選べ。

耳が増えれば、面倒も増える。耐えられる形にしてから増やせ』


「……分かった」


『三つ。筒だ。

封を開け、匂いを出し、追えるようになれ。毎日稽古だ。出来ぬなら、旅に出ても死ぬ』


言い切りに、反論の余地がない。


ハルは胸の内側で、硬いものを一度握り直した気がした。


「……一年で、それが出来たら?」


『この土地を出る。おまえの望みと、我の望みはそこだけは同じだ。

濃い地へ行く。おまえが行ける足と稼ぎを作れたなら、我は“付き添う理由”を持てる』


ハルは、ようやくガルムの得を見た。

ここに留まる気がない。だから、期限が欲しい。


「……もし俺が、守れなかったら」


『置いて行く。それだけだ。

恨むな。最初から“得のない手”だと言った』


冷たいのに、筋が通っている。


ハルは息を吐き、言葉を揃えた。


「誓う。

一年で、稼ぎを形にする。人の手を整える。筒を扱えるようになる。

その代わり――森の中の運びは、必要な時に手を貸してくれ」


ガルムは一瞬だけ、鼻先を動かした。


『よい。

……次からは、森の話をするなら準備してから来い。

口だけ先に出すな。段取りを背負って来い』


「分かった」


ハルはリュックを背負い直した。


明日、森へ入る。

今度は“頼る”ために行くんじゃない。

約束を守るために、取りに行く。


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