第14話 止まれない朝
雪は降らない土地だが、冷え方だけは容赦がない。
軒下の土も板も、夜のうちに硬くなっていた。
ハルは家を出て、まだ暗い通りを抜けた。
市場へ向かう近道は、工房街の外れをかすめる。
炉の匂いがする。鉄と油と、焦げた布の匂い。
火はもう起きていて、槌の音が、乾いた朝に響いていた。
扉の隙間から、職人らしい声が漏れてくる。
「封が甘いと、最後に跳ねる」
「跳ねたらどうなる」
「人が飛ぶ。道具も飛ぶ。止まらん。……上の方でやらかしたって話だ。手が付けられん」
笑い声はない。
からかいでもない。ただの報告みたいな調子だった。
ハルは足を止めかけ、やめた。
自分の暮らしに関係のない話だ、と言い聞かせる。
……けれど、胸の奥が少しだけ冷えた。
そんな話は、すぐ別の音に押し流された。
今日の自分は、銅貨と、売れるかどうかで決まる。
◆朝の市場 : リツと店番
市場へ出ると、朝の匂いが喧しい。
焼きたてのパン、茹でた豆、獣脂の焦げた臭い。腹が鳴りそうになって、奥歯で噛み潰した。
端の区画。自分の場所。
昨日、何もなくなった板の上に、今度は自分の手で布を敷く。
並べる物は三つだけだ。小さな油瓶が三本。
布の上に置くと、場違いに見える。けれど、空よりはましだった。
「……来るか」
言葉にした途端、背後から足音が来た。
「おはようございます。今日、ここですね」
リツが立っていた。
ギルドの窓口で紹介された、店番の子だ。背は低いが、目が落ち着いている。
ハルは短く頷いた。
「売る物はこれだけ。瓶三つ」
リツは布の上を見て、数を数える顔をした。
「三つ。……値段は」
ハルは喉の乾きを飲み込む。
高く言えば売れない。安く言えば、また削れる。迷ってる時間がいちばん無駄だ。
「一本、銅貨二十。値切りは受けない」
「釣り銭は」
「出せない。ぴったりの客だけでいい。……それで売れなきゃ、売れないでいい」
言ってから、少しだけ腹が痛んだ。
売れなきゃ困るのは自分なのに、格好をつけた。
リツは頷く。
「分かりました。銅貨二十、固定。釣り無し。――瓶は、触らせます?」
「触らせない。匂いだけ嗅がせろ。指で触られると口が汚れる」
「はい」
ハルは布の端を指で押さえ、瓶を三角に置き直した。
見え方だけ、少し整う。
それで終わりだ。ここから先は、店番の仕事。
「……夕方、戻る。日が落ちる前に」
「待ってます」
淡々とした説明の後、ハルはリツに背を向けた。
振り返ると、決心が鈍る気がした。
市場の喧しさを背に、足を速める。
森へ向かう道の冷たい空気が、少しだけ頭を冷やした。
(雇った)
その事実だけが、胸の奥で重い。
今日、売れなければ。今日、盗まれれば。――責任の行き先は、自分だ。
だから歩く。
歩いて、拾って、戻って、金にする。いま出来るのは、それだけだ。
*
昼前、リツの前に男が止まった。旅装で、肩に泥がついている。
「油か」
「防水用です。靴と外套。縫い目に入れます。一本、銅貨二十。釣りは出ません」
男は眉を動かした。
「高いな」
リツは肩をすくめない。笑いもしない。
「安物なら、向こうにあります」
視線だけで、別の店の粗い油を示す。
男はそっちを見て、戻ってくる。
「……雨の前に試すか」
男は銅貨を二十枚、布の上に置いた。
リツは数えるのが早い。
数え終えると、油瓶を布で包み、渡した。
「使い方は? 塗るだけか」
「薄く。縫い目は指先で押し込む。塗り過ぎると砂を拾います」
男は短く頷き、去った。
二本目は、午後に出た。
三本目は、最後まで残った。
*
夕方、ハルが市場へ戻ると、リツは布を畳んで待っていた。
布の上に、銅貨が二十枚ずつ、二つの山。
「二本。……残り一本」
リツはそれだけ言った。言い訳もしない。胸を張りもしない。
ハルは銅貨を見て、息を吐いた。
「……助かった」
ハルは銅貨の山から、先に決めていた分を抜いた。
少なく見える。
抜いた瞬間、もっと少なくなる。
それでも払う。払わないと、次がない。
「また必要ならギルドから呼んでください。」
リツが淡々と言う。
ハルは頷いた。
保証金という言葉が、今日になってようやく重く聞こえる。
雇うってのは、こういうことだ。
人の一日を借りるってことだ。
◆朝の森 : ハルとガルム
市場の後。
森へ向かう道は、昨日までと同じなのに、足取りだけが違った。
今日は“拾いに行く”じゃない。――“取りに行く”。
切れ間へ出ると、ガルムがいた。
木陰の奥。いつもの距離。巨大な影が、風に揺れもしない。
『来たか』
「来た。雇った。」
呼吸一拍の沈黙、後ーー
「……頼みがある」
声が乾く。言うのが怖い。
けれど、今日は言う。言わないと、また“端っこ”へ戻る。
「まず樹脂を採る。納入の分だ。
そのあと、水場に行きたい。油になるやつ――水トカゲ。いるんだろ」
ガルムは鼻先を少し動かした。
『いいだろう。順は正しい。付いて来い。
樹脂の場所は足で覚えろ。水場は――音を立てるな。耳が利く』
ガルムが先に歩き出す。
ハルは一度だけ背負い袋の肩紐を引き、指先で結び目を確かめた。
今日は“拾いに行く”じゃない。――“取りに行く”。
※
樹脂は必要な分だけ袋に収まり、ハルは肩の力を抜いた。
袋を背中側へ寄せ、布で挟んで揺れないように縛る。潰したら終わりだ。
『付いて来い。音を立てるな。水場は耳が利く』
ガルムが先に森を割る。ハルは遅れないように足音を殺した。
沢が近づくにつれ、空気が冷たくなる。湿り気のある匂い。苔。泥。水。
ガルムが立ち止まり、顎で岸の影を示した。
『ここだ。濡れている所じゃない。乾いている縁だ。あそこに穴がある』
ハルは目を凝らした。
石と根の隙間に黒い穴がある。風が吸い込まれるみたいに静かだ。
「……で、どうする」
『待て。出た瞬間に我が噛む。おまえは動くな』
「……分かった」
待つ時間は短いのに、長く感じた。
水の音ばかりが大きくなる。自分の呼吸がうるさい。
穴の奥で、ぬるりと影が動いた。
次いで、岸の石が小さく沈む。
出てきたのは――でかい。
狼どころじゃない。胴が太く、尾が長い。濡れた鱗が光を弾き、腹は岩みたいに重そうだった。
(これ、運べるか……)
思った瞬間、背中が冷えた。また、端っこのに気持ちが戻っている。
水トカゲが身を起こし、喉の奥で低く鳴いた。
その一鳴きで、草むらの小虫まで止まった気がした。
ガルムの動きは、速いというより、終わっていた。
影が沈む。水しぶきが一度上がる。次の瞬間、巨体が岸へ引き倒されている。
水トカゲが暴れた。尾が石を叩き、泥が跳ねる。
その一発で、腕の骨が折れそうな音がした。
ガルムは首をひねった。
鈍い音。暴れが止まる。
『終わりだ』
「……終わり、だな」
声に出しても、実感が遅れてくる。
怖いのに、手が動く。動かないと、何も持って帰れない。
ハルは小刀を抜いた。
ここからが、自分の仕事だ。――ただし、“持ち帰れる分だけ”。
「全部は無理だ。脂だけ――取れるだけ取る」
ガルムが鼻を鳴らした。
『それでよい。肉は我が食う。皮と脂はおまえの稼ぎだ』
ハルは腹側に刃を入れた。浅く。長く。
内臓を傷つけたら台無しになる。焦るな、と自分に言い聞かせる。
皮を開くと、脂が出た。
白く厚い層。指先が滑る。量があるぶん、手が追いつかない。
このまま丸ごと背負えば、途中で縄が食い込み、汁が滲む。
滲めば匂いが立つ。匂いは、獣も人も寄せる。
――家に着く前に、面倒が増える。
持ち帰るなら、扱える分だけ。
脂は“塊”で全部は持たない。
腹の奥の脂袋と、背の厚い脂を、使える分だけ切り出す。
皮も全部は無理だ。幅を決めて、長い一枚だけ。防水油の“次”に使える。
「……よし」
口に出して、気持ちを整える。
切り出した脂を木の皿に載せ、葉で包んで縄で縛った。布は使わない。布が死ぬ。
残りは置く。
置くのが惜しい。だが、背負えないものは、最初から自分のものじゃない。
ガルムが巨体に口を寄せ、肉を裂き始めた。
音が生々しい。けれど、その手際は無駄がない。食うべき所だけ食い、要らない所を残す。
『骨も持って行け。試すなら、角と牙だ。硬いものは値がつく事がある』
「全部は無理だ。……少しだけ」
ハルは頷き、折れそうなほど重い頭骨から、使えそうな部分だけを外した。
小さく切り、背負える形にする。
背中の荷がずしりと沈む。
だが、これは“稼ぎ”の重さだ。
「……戻る」
ガルムは肉を咥え、先に歩き出した。
ハルは縄を締め直し、息を吐く。
怖さは消えていない。
けれど今日は、怖さの先に手順がある。
次は、さらに手順を増やす。
稼ぎを増やすことは、頭を使うことだ。
それでも、今日は少しだけ前に進めた。




