第13話 空っぽの翌日
朝の空気は乾いていた。
昨日までの腹の熱が、まだ胸の奥に残っている。
あの空っぽの屋台を見た瞬間の冷たさも、一緒に。
ハルは商人ギルドの建物の前で足を止めた。
石の壁。重い扉。中から漏れる紙と蝋の匂い。ここに来れば、たいてい嫌な現実を突きつけられる。けれど今日は、それを受け取りに来た。
受付の男は、昨日と同じ顔で帳面をめくった。
「人足の斡旋か」
「……そうだ」
言うだけで、口の中が苦くなる。
情けない。
騙されました、だから紹介してください。
三十路手前の男が言う言葉じゃない。分かっているのに、言わないと前へ進めない。
男は紙束を引き出して、机に置いた。
「斡旋金は銀貨一枚。雇い主が払う。これは“紹介”と“保証”の代だ」
「保証?」
「逃げた時の話だ。身元を押さえる。家族か、後見か、所属か。企んでるやつは、そもそも証を出せない」
言い方は冷たいのに、内容はありがたい。
頼るしかない。
ハルは銀貨を一枚、指で押し出した。
硬貨が机に触れる音が、やけに大きく聞こえた。
「雇いの条件を言え。日数、時間、仕事内容。賃金」
「店番。……俺が森に入る日だけ。朝から夕方まで」
「品の管理は?」
「……任せるのは、売る分だけ。釣り銭は出さない。帳面は俺が付ける」
言いながら、昨日の空っぽが頭をよぎる。
任せる、という言葉を口にするだけで、胃がきゅっと縮んだ。
受付の男は、面倒くさそうに紙に書きつけた。
「賃金は」
「銅貨……二十」
言った瞬間、腹の奥がまた痛んだ。
銅貨二十。あの言葉が、きれいに抜かれて消えた。だからこそ、同じ額をもう一度口にするのが嫌だった。
男は顔を上げた。
「安い。だが、短期なら成立はする」
「……上げたら、また狙われる」
「狙われるのが嫌なら、最初から形を作れ。契約書に印。前金は出すな。釣り銭も渡すな。売れた分だけ、夕方に精算だ」
言葉が骨に当たる。
昨日それをやっていれば、痛まずに済んだ。分かるから余計に悔しい。
「候補は、今日の昼に来る。ここで会って決めろ。……逃げるなよ」
「逃げない」
言ったあとで、自分の声が妙に乾いていることに気づいた。
逃げない、じゃない。逃げたら、また同じところに戻る。それだけだ。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
ハルは深く息を吸って、吐いた。肺の中の紙と蝋の匂いが抜けて、ようやく町の匂いに戻る。
切れ間に寄ると、ガルムがいた。
いつもの木陰。いつもの距離。目だけがこちらを見ている。
ハルは言った。
「銀貨一枚払った。紹介で店番を雇う」
ガルムの鼻先がわずかに動く。
『遅い』
「……分かってる」
『分かっていても、やらねば同じだ』
慰める気はない。褒める気もない。ただ、当たり前のことを言う。
それが腹立たしいのに、妙に落ち着く。
「森は明日入る。今日は……屋台の立て直しだ」
『よい。明日は早い』
ガルムはそれだけ言って、視線を森へ戻した。
余計なことは言わない。
千年も生きているくせに、言葉は少ない。
けれど、少ない言葉のほうが、逃げ道を塞ぐ。
家へ戻ると、机の引き出しを開けた。
父の手帳。紙の端は擦れているのに、字だけはしつこく残っている。
“油は匂いを残すな。焦がせば売れん”
“防水は塗り方で差が出る。薄く、二度。乾かして、また薄く”
読みながら、ハルは口の中で小さく笑った。
薄く、二度。
分かっている。
分かっているのに、昨日まで自分は、手帳を開く余裕もなかった。
稼ぎの糸が見えただけで、ようやく手が届いた。
小鍋に脂を落とす。
火は小さく。鍋底が熱を持つまで待つ。白い脂がゆっくりほどけ、透明に変わっていく。
匂いが立つ。甘くない、重たい匂い。
期待が浮く。瓶を並べたら、足が止まるかもしれない。銅貨が増えるかもしれない。
すぐ、その期待を押し込める。
期待は軽い。軽いものほど、裏返った時に腹へ刺さる。昨日、たっぷり思い知った。
布でこす。瓶に詰める。
ーー 小瓶が三つ ーー
たいした数じゃない。それでも、三つ並べれば“品”になる。並べないよりはましだ。
ハルは瓶の口をきつく縛り、棚の端へ置いた。
昼。
ギルドの待合の椅子は固い。背中が落ち着かない。
待っている間、ハルは指先を擦った。冷えた硬貨の感触がまだ残っている。昨日の空っぽも、まだ残っている。
扉が開いて、少年が入ってきた。
昨日の少年とは違う。
背は同じくらいだが、目が落ち着いている。服は擦れているのに、縫い直した跡がある。靴は古いが、泥は落としてある。
受付の男が言った。
「こいつだ。名は――リツ」
少年が、短く頭を下げた。
「リツです。……短期でいい。働き口が要る」
声は低い。媚びない。けれど、逃げ腰でもない。
ハルは一瞬、腹が動いた。
“逃げない目”だ、と。
そう思ったのが怖い。目で人を判断したくなる。父に教わったやつだ。けれど自分は、それで何度も痛い目を見そうになる。
「仕事内容は店番。売るだけだ。帳面は俺が付ける」
リツは頷いた。
「釣り銭は?」
「釣りは出さない。値は札に書く。代金がちょうどの客だけ通す。崩したいなら、別の店へ回せ。揉めるなら売るな。売れた分は、夕方に一緒に数える」
「……それでいい」
迷いがない言い方だった。
少年のくせに、と言うのは簡単だ。けれど、少年だからこそ腹が決まっていることもある。
ハルは紙を引き寄せた。
条件。日当。印。
指が震えかけて、止めた。
震えるのは怖いからじゃない。腹が立っているからだ。昨日の自分に。昨日の少年に。昨日の空っぽに。
印を押す。
朱が紙に食いつく。
形ができると、気持ちが少しだけ冷える。冷えるぶん、次の手が動く。
ギルドを出た帰り道、ハルはリツに言った。
「明日、森に入る。……朝から夕方まで任せる」
「分かった」
「売れなくても、賃金は出る。そこは契約だ」
リツは肩をすくめた。
「売れなくても、俺が困るだけじゃない。……けど売る」
その言い方が、妙に現実的で、少しだけ安心した。
切れ間へ戻ると、ガルムがいた。
ハルは言った。
「契約した。印も押した」
ガルムは一拍置いて、鼻を鳴らした。
『よい。次は、守れ』
「守る」
『守れ。金も、口も、自分もだ』
言い方は相変わらず淡々としている。
淡々としているのに、背中が少しだけ熱くなる。
悔しさと、まだ残っている怖さと、明日の段取りが混ざって。
家へ戻り、机の上に小瓶を三つ並べた。
防水油。
並べると余計に小さい。
リュックを探る。布をめくる。指が空を掴む。
塩も、干し肉も、薬草も――ない。
売り台に出した分も、預けた銭も、仕入れの銅貨も。
きれいに持っていかれた。
小瓶が三つ。何もないよりはマシだ。
そう思わないと、立っていられなかった。
旅の準備は、遠のいた。
その代わり、足元に板が一枚増えた気がする。
ハルは金の筒に触れた。
封はまだ硬い。息を吐いて、掌で包む。腹の温かさを落とす。押さずに流す。
匂いは、かすかに立った。
細い。けれど、消えていない。
明日も、続く。今度は、空っぽにはしない。
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