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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

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第12話 銅貨二十の代償

夜明け前、ハルは戸をそっと開けた。


冷たい空気が頬を撫でる。息が白くほどけ、胸の奥まで冷える。けれど、今日は森に入る。工房へ下ろす分を取る日だ。段取りは頭に入っている。入っているはずだ。


背中にリュックを背負い、小刀と縄、拭き布を確かめる。金の筒は胸の内側。触れるだけで、硬い安心と、落ち着かない不安が一緒に湧く。


屋台へ向かう道の途中で、少年が待っていた。


暗がりの中でも、目だけがこちらを見ている。昨日のままの薄汚れた上着。けれど襟元は整っていて、靴ひもも結び直してある。


「……早いな」


「約束したから」


それだけ言う。余計な愛想もない。そこが、逆にやりやすい気がした。


ハルは屋台の板の上に布を敷き、品を並べる。干し肉と塩、薬草。それから、小瓶の油。まだ売り方も手探りの新しい品だ。


「釣り銭は、これだけ。勝手に値段は変えるな。触らせない。抜け道に品を寄せるな」


言いながら、自分が口うるさいのか、それとも足りないのか分からなくなる。


少年は頷いただけだった。


「……夕方には戻る。日当は、戻ったら払う」


「分かった」


少年は布の端を押さえ、並べ直しを始めた。手つきが早い。仕事を探すやつは、こういう手をしているのかもしれない――そんなことを考えた時点で、もう油断の芽が出ていたのだと思う。



森は、朝の色をしていた。


針葉樹の匂い。湿り気のある土。冷たい水の気配。歩くたびに靴が落ち葉を踏み、乾いた音がする。ハルは息を整えながら、昨日覚えた目印をなぞった。


裂け目。青い苔。黒い筋。


見つけるのは早くなった。剥がすのも早い。だが、手は急がせない。欠けさせれば値が落ちる。それはもう身体に染みている。


「……慣れって、怖いな」


口に出すと、寒い息が消えた。


金の筒を掌で包み、少しだけ温める。匂いはまだ細い。それでも、昨日より分かる。匂いが分かるだけで、森の中で迷わない気がするから不思議だ。


旅の段取り。


その言葉が頭の隅に居座っている。工房の印札。濃い場所。山の向こう。今の稼ぎ口が枯れる前に動くべきだと分かっているのに、動くための金と手が足りない。


だから今日は、森に入った。


そう思って、黙々と袋を重くした。



夕方、町の匂いが戻ってきた。


肉の匂い。焼いたパン。人の汗。馬の糞。声と足音。市場の喧噪が耳に入った瞬間、ハルの腹が小さく鳴った。朝は固いパンを少し齧っただけだ。


屋台の列が見える。


自分の場所――端の区画。あの板の上に敷いた布。小瓶。干し肉。


そこが、空いていた。


最初、目が追いつかなかった。場所はある。板もある。けれど、布がない。品がない。人影がない。釣り銭の小袋も、置いていたはずの木箱も、ない。


足が止まる。心臓が一拍遅れて、どんと鳴った。


「……おい」


声が出たのか、自分でも分からない。喉が乾いていて、声が擦れた。


隣の屋台の主が、ちらりとこちらを見て、目を逸らした。


「……あんたのとこ、昼過ぎに片づけて行ったぞ」


「片づけてって……誰が」


聞き返す声が、情けないほど細い。


屋台の主は、ため息を吐いた。


「その坊主だよ。荷を抱えてさ。売れ残りも、銭箱も。慣れた手つきで持ってった。誰も止めねえ。止めたら面倒になるからな」


頭の中が白くなる。


森の冷気より冷たいものが、背中をつうっと落ちた。汗なのか、血が引いたのか分からない。


ハルは屋台の板を掴んだ。指が震える。腹の奥が、ぐるりとひっくり返るように気持ち悪い。


「……追えば、間に合うか」


「今から? 無理だ」


屋台の主は言い切った。


「そういう手合いは、裏道に入ったら消える。荷車が待ってることもある。おまえ、一人だろ。やめとけ」


ハルは、そこで初めて、怒りが湧いた。


少年に対する怒りではない。自分への怒りだ。


口で約束を交わしただけで、金と品を預けた。釣り銭まで渡した。誰に聞いたわけでもない。保証もない。縛りもない。


「……バカだ」


吐き捨てた声が、自分の耳に刺さって痛かった。


悔しさで喉が熱くなる。けれど、泣くほどの余裕はない。泣いたところで布も銭も戻らない。戻らないことは、もう分かる。


ハルは、空の板の前で、しばらく動けなかった。





切れ間へ戻るころには、空が沈んでいた。


木陰の奥に、ガルムがいる。銀の毛並みが薄暗がりでも浮く。いつもの距離。いつもの無関心な目。


ハルは言葉をまとめる前に、吐き出していた。


「……盗られた」


ガルムの鼻先がわずかに動く。


『何を』


「全部。品も、釣り銭も。……今日の稼ぎも、明日の仕入れも」


言ってから、腹の底がさらに冷えた。


ガルムはしばらく黙っていた。風が葉を鳴らし、遠くで鳥が鳴く。その沈黙が、情けなさを増やす。


『人間はそういうものだ』


淡々と言われて、胸が詰まる。


「……分かってる。分かってたはずだ」


『分かっていたなら、預けぬ』


正論で殴られると、反論の余地がない。


ガルムは続けた。


『縛れ。口約束ではなく、形で縛れ。縛れぬなら、近づけるな』


慰めでも励ましでもない。けれど、その言葉は、明日やるべきことを決めた。



翌朝、ハルは商人ギルドへ行った。


建物の中は乾いた匂いがする。紙と蝋とインク。人の声はあるのに、どこか冷たい。ハルは窓口に立ち、昨日のことを短く話した。


受付の男は、帳面を見ながら首を振った。


「雇い契約がないなら、こちらから動けることは少ない。相手の身元も不明だろう」


「……じゃあ、泣き寝入りか」


「そう言いたいわけじゃない。だが、今の話だとそうなる」


男は言葉を選ばず、次の紙束を指で弾いた。


「人を雇うなら、紹介を取れ。人足の斡旋がある。保証金もつく。賃金の相場も決まっている。おまえが損をする前に、形を作れる」


「……金が要るだろ」


「要る」


男は平然と言った。


「だが、その銀貨一枚で“逃げられにくい形”が買える。おまえが昨日失ったのは、銀貨一枚どころじゃないはずだ」


胸の奥が痛んだ。言い返せない。


ハルは札の説明を聞き、紙に印を押した。情けなさの上に、さらに自分で線を引く気分だった。それでも、引かないと次へ進めない。


家に戻り、父の机の前に座る。


引き出しを開ける。手帳を出す。紙の端が擦れて、指が少し白くなった。


書かれているのは、商いの覚え書きばかりだ。値段。相場。誰に売ったか。どこで揉めたか。どう避けたか。どう縛ったか。


父は、こういうふうに残していたのか。


ハルは手帳の余白に、短く書いた。


銅貨二十の約束――守られず。

形のない約束は、銭と一緒に消える。


書き終えると、少しだけ息が楽になった。悔しさは消えない。けれど、悔しさを抱えたまま、次に手を伸ばせる気がした。


旅の準備は、また一歩遠のいた。


けれど、遠のいた分だけ、やり方が見えた。


ハルは立ち上がり、空になった小銭袋を握る。


「……取り返せないなら、取り直す」


その声は小さい。だが、昨日までより、少しだけ固かった。

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