第12話 銅貨二十の代償
夜明け前、ハルは戸をそっと開けた。
冷たい空気が頬を撫でる。息が白くほどけ、胸の奥まで冷える。けれど、今日は森に入る。工房へ下ろす分を取る日だ。段取りは頭に入っている。入っているはずだ。
背中にリュックを背負い、小刀と縄、拭き布を確かめる。金の筒は胸の内側。触れるだけで、硬い安心と、落ち着かない不安が一緒に湧く。
屋台へ向かう道の途中で、少年が待っていた。
暗がりの中でも、目だけがこちらを見ている。昨日のままの薄汚れた上着。けれど襟元は整っていて、靴ひもも結び直してある。
「……早いな」
「約束したから」
それだけ言う。余計な愛想もない。そこが、逆にやりやすい気がした。
ハルは屋台の板の上に布を敷き、品を並べる。干し肉と塩、薬草。それから、小瓶の油。まだ売り方も手探りの新しい品だ。
「釣り銭は、これだけ。勝手に値段は変えるな。触らせない。抜け道に品を寄せるな」
言いながら、自分が口うるさいのか、それとも足りないのか分からなくなる。
少年は頷いただけだった。
「……夕方には戻る。日当は、戻ったら払う」
「分かった」
少年は布の端を押さえ、並べ直しを始めた。手つきが早い。仕事を探すやつは、こういう手をしているのかもしれない――そんなことを考えた時点で、もう油断の芽が出ていたのだと思う。
※
森は、朝の色をしていた。
針葉樹の匂い。湿り気のある土。冷たい水の気配。歩くたびに靴が落ち葉を踏み、乾いた音がする。ハルは息を整えながら、昨日覚えた目印をなぞった。
裂け目。青い苔。黒い筋。
見つけるのは早くなった。剥がすのも早い。だが、手は急がせない。欠けさせれば値が落ちる。それはもう身体に染みている。
「……慣れって、怖いな」
口に出すと、寒い息が消えた。
金の筒を掌で包み、少しだけ温める。匂いはまだ細い。それでも、昨日より分かる。匂いが分かるだけで、森の中で迷わない気がするから不思議だ。
旅の段取り。
その言葉が頭の隅に居座っている。工房の印札。濃い場所。山の向こう。今の稼ぎ口が枯れる前に動くべきだと分かっているのに、動くための金と手が足りない。
だから今日は、森に入った。
そう思って、黙々と袋を重くした。
※
夕方、町の匂いが戻ってきた。
肉の匂い。焼いたパン。人の汗。馬の糞。声と足音。市場の喧噪が耳に入った瞬間、ハルの腹が小さく鳴った。朝は固いパンを少し齧っただけだ。
屋台の列が見える。
自分の場所――端の区画。あの板の上に敷いた布。小瓶。干し肉。
そこが、空いていた。
最初、目が追いつかなかった。場所はある。板もある。けれど、布がない。品がない。人影がない。釣り銭の小袋も、置いていたはずの木箱も、ない。
足が止まる。心臓が一拍遅れて、どんと鳴った。
「……おい」
声が出たのか、自分でも分からない。喉が乾いていて、声が擦れた。
隣の屋台の主が、ちらりとこちらを見て、目を逸らした。
「……あんたのとこ、昼過ぎに片づけて行ったぞ」
「片づけてって……誰が」
聞き返す声が、情けないほど細い。
屋台の主は、ため息を吐いた。
「その坊主だよ。荷を抱えてさ。売れ残りも、銭箱も。慣れた手つきで持ってった。誰も止めねえ。止めたら面倒になるからな」
頭の中が白くなる。
森の冷気より冷たいものが、背中をつうっと落ちた。汗なのか、血が引いたのか分からない。
ハルは屋台の板を掴んだ。指が震える。腹の奥が、ぐるりとひっくり返るように気持ち悪い。
「……追えば、間に合うか」
「今から? 無理だ」
屋台の主は言い切った。
「そういう手合いは、裏道に入ったら消える。荷車が待ってることもある。おまえ、一人だろ。やめとけ」
ハルは、そこで初めて、怒りが湧いた。
少年に対する怒りではない。自分への怒りだ。
口で約束を交わしただけで、金と品を預けた。釣り銭まで渡した。誰に聞いたわけでもない。保証もない。縛りもない。
「……バカだ」
吐き捨てた声が、自分の耳に刺さって痛かった。
悔しさで喉が熱くなる。けれど、泣くほどの余裕はない。泣いたところで布も銭も戻らない。戻らないことは、もう分かる。
ハルは、空の板の前で、しばらく動けなかった。
※
切れ間へ戻るころには、空が沈んでいた。
木陰の奥に、ガルムがいる。銀の毛並みが薄暗がりでも浮く。いつもの距離。いつもの無関心な目。
ハルは言葉をまとめる前に、吐き出していた。
「……盗られた」
ガルムの鼻先がわずかに動く。
『何を』
「全部。品も、釣り銭も。……今日の稼ぎも、明日の仕入れも」
言ってから、腹の底がさらに冷えた。
ガルムはしばらく黙っていた。風が葉を鳴らし、遠くで鳥が鳴く。その沈黙が、情けなさを増やす。
『人間はそういうものだ』
淡々と言われて、胸が詰まる。
「……分かってる。分かってたはずだ」
『分かっていたなら、預けぬ』
正論で殴られると、反論の余地がない。
ガルムは続けた。
『縛れ。口約束ではなく、形で縛れ。縛れぬなら、近づけるな』
慰めでも励ましでもない。けれど、その言葉は、明日やるべきことを決めた。
※
翌朝、ハルは商人ギルドへ行った。
建物の中は乾いた匂いがする。紙と蝋とインク。人の声はあるのに、どこか冷たい。ハルは窓口に立ち、昨日のことを短く話した。
受付の男は、帳面を見ながら首を振った。
「雇い契約がないなら、こちらから動けることは少ない。相手の身元も不明だろう」
「……じゃあ、泣き寝入りか」
「そう言いたいわけじゃない。だが、今の話だとそうなる」
男は言葉を選ばず、次の紙束を指で弾いた。
「人を雇うなら、紹介を取れ。人足の斡旋がある。保証金もつく。賃金の相場も決まっている。おまえが損をする前に、形を作れる」
「……金が要るだろ」
「要る」
男は平然と言った。
「だが、その銀貨一枚で“逃げられにくい形”が買える。おまえが昨日失ったのは、銀貨一枚どころじゃないはずだ」
胸の奥が痛んだ。言い返せない。
ハルは札の説明を聞き、紙に印を押した。情けなさの上に、さらに自分で線を引く気分だった。それでも、引かないと次へ進めない。
家に戻り、父の机の前に座る。
引き出しを開ける。手帳を出す。紙の端が擦れて、指が少し白くなった。
書かれているのは、商いの覚え書きばかりだ。値段。相場。誰に売ったか。どこで揉めたか。どう避けたか。どう縛ったか。
父は、こういうふうに残していたのか。
ハルは手帳の余白に、短く書いた。
銅貨二十の約束――守られず。
形のない約束は、銭と一緒に消える。
書き終えると、少しだけ息が楽になった。悔しさは消えない。けれど、悔しさを抱えたまま、次に手を伸ばせる気がした。
旅の準備は、また一歩遠のいた。
けれど、遠のいた分だけ、やり方が見えた。
ハルは立ち上がり、空になった小銭袋を握る。
「……取り返せないなら、取り直す」
その声は小さい。だが、昨日までより、少しだけ固かった。




