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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

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第11話 銅貨二十の約束

夜明け前、ハルは一度目を覚ました。


天井の木目を眺めたまま、昨夜の言葉を反芻する。

奥の山の向こう。濃い場所。工房の印札。――旅の段取り。頭の中で何度も並べ直しては、同じところで止まる。


旅に出るなら、今の稼ぎは手放す。

手放さないなら、この町で枯れるまで擦り切れる。


どちらにしても怖い。けれど、怖いだけで何も変わらないのは、もう飽きた。


ハルは起き上がって、革袋の口をほどく。銀貨の音。銅貨の音。重さは増えた。増えたぶん、守らなきゃいけないものも増えた気がして、胃の奥が少しだけ縮む。


「……準備をしないとな」


声に出すと、少しだけ現実になる。


旅の準備は、派手な買い物じゃない。

まずは日々の形を整える。

店を閉める日があっても、稼ぎが途切れないようにする。荷物を減らす。道具を揃える。――それから、金の筒。

まだ“開ける”ところまではいっていない。


机の引き出しに指をかけて、止めた。

親父の残した紙束。読むべきなのは分かっている。だが、読んだら次に進まなきゃいけない。進むのが怖い。


結局、ハルは引き出しを閉めた。

代わりに、今日の商いを思い浮かべる。今日の銅貨が、明日の旅の一歩になる。


深く息を吐いて、布を畳む。品を並べる段取りを頭の中で作る。

いつも通りの朝だ。――いつも通りに見える朝が、いちばん油断する。


今日の品は、増えたと言えるほど増えていない。


干し肉の束が二つ。塩の小袋。薬草が少し。それと、小瓶に詰めた油。


油は、ガルムが置いていった。


昨夜遅く、戸の外で重いものが転がる音がした。嫌な予感がして、灯りも持たずに外へ出る。


そこにあったのは、ミズトカゲの残骸だった。


頭から尾の先まで、形は残っている。腹は裂け、肉は大雑把に削がれているのに、骨と皮と脂はまだたっぷり残っていた。湿った鱗が月明かりを弾いて、妙に生々しい。


「……おい」


木陰の奥から、低い声が返ってくる。


『肉は食った。残りはおまえの仕事だ。無駄にするな』


言い方だけはいつも通り偉そうで、説明はそれだけだった。


ハルはしゃがんで、指先で脂の厚い部分を確かめた。腹側と尾の付け根。白くて重い。

手に付いた匂いは獣臭さより、川の冷えた匂いが勝っている。


「仕事って……これ、家の前に置く量じゃないだろ」


『運べ。おまえが運べぬなら、捨てろ。だが捨てる前に、思い出せ』


ガルムの鼻先がわずかに上がった。


『同じ匂いを、昔嗅いだ。あいつが靴に塗っていた脂だ。手帳にでも書いてあるだろう。探せ』


親父の机の引き出しの位置が、妙に鮮明に浮かんだ。思い出す余裕なんてなかったのに、こういう時だけ出てくる。


その夜、ハルは父の机を開けた。


紙は貴重だ。薄い紙片に、細い字で数字と覚え書きが詰め込まれている。商売の記録の合間に、脂の項目があった。


ミズトカゲ脂――伸びる。革に良い。弓弦と革紐にも使える。血を混ぜるな。弱火で溶かせ。匂いが残る。


読み終えて、ハルは小さく息を吐いた。


「……ほんと、余計なことだけは残すんだな」


愚痴みたいに口から出たが、手は動いた。

火を強くしない。焦がしたら匂いが残る。親父の字を思い出しながら、何度もかき混ぜた。


鍋の中で白い脂がほどけて、透明に変わっていく。

見た目だけなら、金に見えなくもない。瓶に詰めて並べたら、足を止める客がいる――そんな光景が、勝手に頭に浮かぶ。


……浮かぶだけだ。


防水油なんて、ここでは誰も欲しがらないかもしれない。

欲しがるのは旅人だとしても、旅人は値切る。革屋に回れば鼻で笑われる。塗り方を間違えれば「効かない」と怒鳴られる。売れる前から、がっかりする理由ばかり思いつく。


それでも、瓶を一本でも空にできたら。

銅貨が数枚でも増えたら。明日の朝、森へ入る時の腹の重さが違う。


期待してはいけない。

けれど、期待しないふりをしても、指先は少しだけ軽かった。


小鍋で脂をゆっくり溶かし、布でこして、小瓶に詰める。


朝。


屋台の粗い板の上に布を敷き、その上に瓶を並べる。場違いに見える。けれど、並べないよりはましだ。


「革に塗る油、あります。靴底や革袋に。水を弾きます」


声を出しても、人の流れは止まらない。いつも通りだ、と諦めかけたところで、足が止まった。


旅装の女が瓶を手に取る。栓を指先で確かめて、顔を上げた。


「これ、どう使うの?」


「薄く塗って、少し置いてから、もう一回。縫い目のところに馴染ませると、だいぶ違います」


女は短く頷き、銅貨を置いて瓶を持っていった。


続けて、荷紐の擦り切れた男が来る。革袋の口をつまんで、渋い顔で笑った。


「雨でいつも中まで湿る。……試しに一本」


また銅貨が増えた。


小さな山を見て、ハルは一度だけ数え直した。増えている。たったそれだけで、喉の奥の詰まりが少し薄くなる。


隣の屋台の主が、冷やかし半分に声をかけてきた。


「最近、客が止まるようになったじゃねえか。明日も出すのか?」


「明日は森に入る。朝から」


言った瞬間、しまったと思った。余計なことを口にした。けれど、もう遅い。


少し離れたところにいた少年が、こちらに近づいてきた。


十五、六くらい。痩せてはいるが、目は濁っていない。服は薄汚れているのに、靴ひもだけはきちんと結ばれていた。


「兄さん」


呼ばれ方が馴れ馴れしい。

ハルは警戒のほうを先に出すべきだったが、少年は布の上の品を見てから、まっすぐ言った。


「明日、店を閉めるなら。一日だけ雇ってくれないか」


「店番って言っても、俺の店こんなだし、品の説明は――」


こういうのは苦手だ。

他人を助けてやれるほど余裕もない。


「説明はしないで、聞かれたら留守だって言うよ。売れたら釣り銭を渡して、他は勝手に触らせない。」


言い方がきっぱりしている。


都合のいい話ほど危ない、と頭の片隅で鳴った。

だが、場所を上げたばかりだ。客が止まり始めたばかりだ。閉めるのが惜しい。


「……雇い賃は」


少年は少しだけ間を置いた。


「終わりに、銅貨で払ってくれればいい。日当は銅貨二十でどうだ」


高い、と喉まで出かかった。けれど今日の銅貨の山が目に入って、口が鈍った。


「……銅貨二十。明日の夕方、戻ったら払う」


「分かった」


それだけ言って、少年は軽く頭を下げた。


「朝、早めに来る。兄さんが森に出る前に、釣り銭だけ渡してくれ」


少年は人波に紛れて消える。


ハルは、自分の小銭袋に触れかけて、やめた。


胸の奥に小さな引っかかりが残る。

けれど、今日は少し回り始めた。

そう思いたい気持ちが、判断を甘くした。



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