第10話 薄い光の道しるべ
石の落ちる音は一度きりじゃなかった。
乾いた欠片が転がり、奥の闇のどこかで、もう一つ小さく弾けた。
続いて低い唸り。獣の喉とも違う。
金属を擦ったような音が腹の底に残って、胸の奥を嫌に撫でた。
三人の顔色が変わる。
「……出たな」
前の男が吐き捨てる。女は笑わない。
口角を上げる癖ごと固めて、穴の奥へ視線を貼り付けたまま息を浅くした。
若い男は剣へ手を伸ばしかけ――反射で剣に触れかけた手が、途中で止まる。抜いたら終わる、と体が先に止めた。
ハルも同じだった。
喉が乾き、唾がうまく飲めない。
冷たい空気のはずなのに背中に汗が出る。
さっきまで値の話をしていた口が、もう別のものみたいに硬い。
ガルムが穴から目を外さないまま言う。
『音を立てるな。』
「なにがいる」
ハルの声は思ったより細かった。
ガルムの鼻先がわずかに動く。匂いを嗅いだだけだ。
『樹脂に寄る小物ではない。……骨と鉄の匂いに寄る』
それだけで充分だった。
人を食う。そういう意味にしか聞こえない。
沈黙が地面に落ちる。
斜面の風が穴の縁を撫で、青白い光が薄く揺れた。
昼なのに、あの光だけが夜みたいに見える。
ハルは視線だけで足元を探した。
岩の縁、枯れ枝の根元、砂に滲んだ光の粉――塊じゃない、薄いもの。
(今、取れる)
思った瞬間、自分の考えにぞっとした。
怖いのに、手が動く。
怖いから動くのかもしれない。
ここで引いたら、また端っこの布の上で干し肉を並べる日々へ戻る。戻るのが、怖い。
ガルムが半歩、ハルの前へ出た。
巨体が影になり、ハルの手元が外から見えなくなる。
わざとじゃない。だが、ちょうどいい。
鱗の欠片を数枚、指先でつまむ。
砕けないように、力を入れない。砂ごと掬わず、光の残ったところだけを撫でる。
布の端をひらき、受ける。
布に落ちた瞬間、粉がふっと青く瞬いて――すぐに色を失った。
昼の目には、汚れた砂と区別がつかない。
(……いける)
喉が鳴りそうになって、ハルは息を飲み込んだ。
手は止めない。
止めたら、目が上がる。目が上がったら、相手の目にぶつかる。
岩の縁を一度だけ確認する。
三人組は、洞の口を気にしている。
奥の音を怖がっている。視線が散っている。――今だけだ。
ハルは布を二つ折りにし、端をくるくると巻いた。
結び目は作らない。
ほどけない程度に、ただ丸める。
リュックの口は開けない。
奥まで探ったら手が止まる。
止まった瞬間、見られる。
だから、腰の革袋。
中身のない小袋を引っ張り出し、丸めた布を滑り込ませた。
(……後で移す)
ガルムが、わずかに鼻先を動かす。
声は出さない。だが、背中が言っている。――急げ、の一言だ。
ハルはもう一枚だけ拾って、やめた。
欲は出る。出るけれど、出したら終わる。
顔を上げる。
三人のうち、女がこちらを見た。
笑っているようで、笑っていない目。
ハルは何もしていない顔を作り、口を開いた。
「……洞の奥は、俺は入らない。崩れそうだ」
前の男が息を吐いた。
吐く、というより、ようやく息が出た。
「……今日は引く。奥はやめとけ。あれは――」
言葉が途切れた。
穴の中で何かが擦れた。石と石が噛み合う音。
次に、重いものが体を引きずる音。近い。さっきより確実に近い。
女が声を落として言う。
「買い取りの話は? 今、ここでやるの?」
「……やる」
ハルは言い切った。
ここで逃げたら、三人は袋を抱えて去る。
去り際に足元をひっかけば、薄い筋に気づくかもしれない。
たとえ偶然でも、目の端に入れば厄介だ。だから終わらせる。今、ここで。
「揉め事はしない。
上物と欠けを分けて出せ。混ぜたら買わない。――早く」
女が何か言い返しかけたが、口を閉じた。
ガルムが動かないのに、そこにいるだけで言葉が固まる。
三人が荷袋をほどき、塊を布の上へ並べる。青白く光る。
形はばらばらでも、これは誰が見ても金になる塊だ。
採取屋の手つきで、指が忙しく動く。
「……いくらだ」
前の男が言う。
声は平静を装っているが、目が穴を見ている。帰りたい目だ。
ハルは塊を選り分けながら、淡々と告げた。
「上物は塊ひとつ銀貨二枚。形が良ければ二枚半。
欠けは束で銀貨一枚。泥と湿りが多いのは半分。今ここで払う」
「半分は――」
女が言いかけ、飲み込んだ。
穴の奥で濡れた息みたいな音がしたからだ。
前の男が、降参の息を吐く。
「……分かった。現金だな」
「現金だ」
ハルは革袋を出し、銀貨を数えた。
指は冷たいのに、硬貨はさらに冷たい。ひとつひとつが重い。
だが数える手は止まらない。
止めたら負ける気がした。
三人の荷袋が軽くなる。
代わりにハルの袋が重くなる。
塊の重み。欠けの重み。――そして懐の奥の薄い筋の重み。薄いのに、重い。
支払いを終えたところで、ガルムが低く唸った。
『来る』
言葉の直後、闇が動いた。
黒い影がぬっと滲む。四つ足の形――だが狼じゃない。
毛がない。岩肌みたいにざらついた皮膚。目が低い位置で鈍く光った。
三人が一斉に後ずさる。
若い男が足をもつれさせ、女が息を呑む。
前の男は声を出さない。出せない。出したら食われる。そういう空気だった。
ハルは小刀の柄を握った。
握ったところで何ができるわけでもない。それでも空の手を晒したくなかった。
ガルムが一歩前へ出る。
巨体が穴の口を塞ぐように立ち、銀の毛が薄い光を吸って静かに艶を返した。
『退け』
短い声。
相手は止まらない。石の粉を落としながら、鼻先が樹脂の匂いを嗅ぎ――次に人の匂いへ向いた。
ガルムの声がさらに低くなる。
『我の前で、牙を立てるな』
次の瞬間、ガルムが動いた。音が遅れて追いつく。
地面が沈み、風が裂け、岩肌の獣が横へ吹き飛ぶ。
ぶつかった岩壁が鳴り、石が崩れ、粉が舞う。
獣が呻き、呻き声は長く伸び――逃げた。
闇へ引きずり込まれるように穴の奥へ消えていく。
静けさが戻る。
戻ったのに、誰もすぐには息が吸えない。
前の男が、ようやく肩を落とした。
「……帰る」
それ以上の言葉はなかった。
ここで粘れば次は本当に死ぬ。全員がそれを分かっている顔だ。
ハルは頷く。
「外で場所の話はするな」
「言うかよ。」
前の男は短く吐き捨て、三人を連れて斜面を下り始めた。
女が一度だけ振り返る。ガルムを見る。目を逸らす。怖いのに目を離せない――その顔のまま去っていく。
三人は最後まで足元の薄い光を見なかった。見えなかった。
三人の足音が消えてから、ハルはようやく息を吐いた。
肺の奥が痛い。指先が痺れている。今さら足が震える。
「……今の、何だ」
『棲み処を荒らされた、ただの獣だ。だが本命は奥だ、匂いが言っておる』
ガルムは穴を見たまま言う。
ハルは腰の布袋に触れた、薄い欠片を入れた小袋がある。誰にも見られていない。誰にも教えない。
「今日は戻る。……持ち帰れるだけ持ち帰った」
『よいだろう。』
言い方が雑で腹が立つ。
腹が立つのに、妙に落ち着く。ガルムがいつも通りだからだ。
町へ戻る道は、下りなのに足が重かった。
怖さの余韻が膝に残っている。袋の中で樹脂がぶつかり、かすかな音を立てるたび、さっきの岩の音が蘇る。
ハルは無理に息を整え、顔を上げた。町の門が見えてきたところで、革袋の口を二重に縛り直す。
工房街に入ると、鉄の匂いと焦げた油の匂いが肌を乾かした。
叩く音、火の音、人の声。いつもの熱が、今日は少し安心に見える。
親方は無言で口を解き、布の上に塊を並べる。
炉の明かりを受けた瞬間、塊が――青白く、薄く光った。
親方は数える。拾い上げる。形を見る。断面を確かめる。
早い。迷いがない。値の付け方が、手つきに出ている。
帳面に走り書きして、親方が言った。
「買い取り分は銀貨四十四枚だ」
見習いが布袋を寄こす。
受け取った瞬間、ずしりと重い。
(四十四から二十八。――十六)
銀貨十六枚。
胸の奥が、少しだけほどけた。
親方はもう一つの袋を顎で示した。
「……こっちは、お前が採った分だな。銀貨二十枚」
(十六に二十。――三十六)
銀貨三十六枚。
思わず息が漏れた。笑いそうになって、ハルは唇を噛んだ。
「……うまくいった」
声にすると、ようやく実感が追いついた。
端の布の上で、何日も小銭を数えるのとは違う。今日は、ちゃんと金が動いた。自分の手で動かした。
親方はもう興味を失ったように腕を戻した。
「次もこの質で持って来い。――それだけだ」
ハルは頭を下げ、工房を出た。
工房を出ると、外の空気が冷たい。汗が冷えて背中がひやりとする。
だが袋は重い。重さがあるのに、足取りは少し軽い。
帰り道、ハルは何度もリュックの腰袋を確かめた。
小袋に指が触れるたび、冷たさだけが返ってくる。
町へ入る前に、路地の影で手早く荷を整えた。
工房の裏口に入ると、熱と鉄の匂いが肌にまとわりついた。
見習いが布を敷き、親方が無言で袋を開ける。
夜光樹脂は、炉の明かりを受けた瞬間、青白く薄く光った。
親方の目が細くなる。数える。拾い上げる。並べる。――値段が決まる手つきだ。
ハルはその間、背筋を固くしたまま動かない。
腰袋は、いま触れない。触れたら余計に怪しまれる。
買い取りが終わり、銀貨の袋を受け取って外へ出てから、
ハルはようやく息を吐いた。
(……こっちは、まだだ)
小袋の冷たさだけが、指先に張りついたままだった。
家へ戻って、まず火を起こした。
湯を沸かし、パンを割り、肉を少しだけ炙る。塩を惜しまない。湯気が鼻に当たり、やっと生きた感じがした。
食べ終えると、机の上に並べる。納入札。工房の印。銅貨と銀貨。
そして、小袋からそっと出した薄い欠片が3枚、指先で優しく掴み、布の上に丁寧に置く。
光は弱い。目立たない。
けれど筒の封に触れると、匂いがわずかに立つ。甘いとも違う。
乾いた光の匂い。鼻の奥が熱くなる匂い。
ガルムが戸口の影で言う。
『それが本命か』
「……見てたのか」
『鼻がある。見ぬでも分かる』
「……あいつらは気づいてない」
『気づかせるな。面倒が増える』
ハルは頷いた。
面倒が増えるのは嫌だ。だが、いまはもう「嫌だ」で止まれない。
机の端に紙を置き、旅の段取りを書き出す。
縄、布、塩、火打ち石。乾かした肉。小刀の手入れ。工房へ持ち込む日の間隔。市場の場所代の残り日数。留守にするなら、端の場所は一度捨てるのか、それとも短期で戻るのか。
「……数日の往復からだな」
『よい。戻る場所を残せ。おまえはまだ、根を抜くほど太くない』
言い方が偉そうで腹が立つ。
けれど、腹が立つのに納得もする。太くするために動くのだ。
ハルは筒を両手で包んだ。
息を吐き、肩を落とす。腹の温かさを掌へ、押さずに流す。
一回目、冷たい。
二回目、少しだけぬるい。匂いがかすかに立つ。
匂いは筋になって、山の方へ伸びていた。
薄い光の先に、でかい稼ぎがある。そんな気がした。
ハルは包みを閉じ、布袋にそっと戻し、口をしっかりと結ぶ。
「もう一度……行くぞ」
ガルムが低く答える。
『うむ』
短い一言。
それだけで、明日の道が決まった。
◼️三人組からの買取と利益
買取 銀貨28枚= 仕入れ
工房 買い取り分 銀貨44枚 → 粗利銀貨16枚
工房 ハルの採取分 →銀貨20枚
合計 銀貨36枚




