表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/32

第1話 端っこの商人

帳面の端に、金属の筒が置いてある。


かつて父の手から受け取ったそれを、

今は、私の手が持っている。


商いは続く。

人は入れ替わり、金は巡る。


これは、

金の匂いに導かれて生きた、

私の話だ。



———





朝はまだ薄暗い。

町の外れ――石壁の外に残った古い家で、ハルは目を覚ました。親父が残してくれた家だ。屋根はまともで、雨も入らない。戸も閉まる。寝床もある。なのに腹だけは、いつも空っぽに近い。


台所の隅の黒パンをまな板に置き、包丁を入れる。

刃が入るたびに、乾いた粉がぱらぱら落ちる。厚く切れば、それだけ早くなくなる。だから薄く。指先が冷えていて、刃先が少しぶれて、切り口がきれいにならない。


かじると酸味が舌に残り、歯にねっとり貼りつく。

水で流し込むと胃が冷える。腹の底が鳴って、余計に空っぽを意識する。ハルは黙って噛み、飲み込んだ。


肉は端切れが少しだけ残っていた。脂の白い筋が細くて、見ているだけで喉が鳴る。

野菜は、しなびた根菜が一本。皮の張りもなくて、包丁を入れたら水気が出るかも怪しい。それでも、鍋に放り込めば腹の底が少しは落ち着く。たぶん、今ならそれだけで助かる。


ハルは手を伸ばしかけて、止めた。

食べてしまえば終わりだ。明日も同じ黒パンになる。塩も肉も、乾かす薬草も、売り物に回す量が減る。減ったぶんは、そのまま銅貨の不足になる。銅貨が足りなければ、次の塩が買えない。


根菜一本にここまで悩むのが、自分でも馬鹿らしい。

けれど笑える余裕がない。ハルは結局、その根菜を布で包み直した。


外套を羽織り、リュックを背負う。

中身は少ない。干し肉が少し、塩が半袋、乾燥薬草が数束。肩は軽いはずなのに、胸だけが重い。家の奥には、小さくて古い荷車が眠っている。仕入れに行ける当てもないから、ほとんど引っ張り出されないままだ。


町へ入る。

城門をくぐった瞬間、焼き菓子の甘い匂いが鼻を掠めた。腹が反射で動く。あれは買えない。買ったらその分、塩に回せなくなる。そう思うだけで、口の中が乾いた。


市場の掲示板の前は、朝から人が固まっていた。

区画割りの紙が貼られるからだ。上の等級の商人たちは、紙を見るまでもない顔をしている。良い場所はだいたい決まっている。角は角の常連が取る。中央は中央の顔役が取る。


ハルは紙の端から端まで目を走らせ、自分の名前を見つける。

――端。今日も端。風が抜けて、人の流れが細くなる角だ。


胸の内ポケットに突っ込んだ印札を、指で一度だけ押した。

角が当たって痛い。痛いだけで、腹の足しにはならない。


最低ランクの会員証。

年会費を払っても、仕事の紹介も仕入れの口もない。護衛の手配もない。あるのは「露店を出していい」という許可だけ。許可がなければ、売る前に追い払われる。だから払う。払って、端に立つ。


一度だけ窓口へ行ったことがある。

腹が減りすぎると妙に冷静になる日がある。あの日がそうだった。


「すみません。せめて……もう少し人が通る場所に」


返ってきたのは、顔も上げない声だった。


「等級を上げてください。以上です」


以上、で終わる。

ハルは笑って頭を下げて、その場を出た。外の空気に当たった途端、舌の奥が苦くなった。上げられないからここにいるのに――と言ったところで、何も変わらない。


今日も、リュックの中身を布の上に並べる。

干し肉、塩、薬草。少ない。自分で見て、自分で分かる。分かるから余計に、声を出すのが億劫になる。


「干し肉、あります。塩も。薬草も……」


声を張っても、人の波にすぐ消される。

中央の区画から笑い声が弾んで、袋が何枚も飛んでいく音がする。あっちは人が止まる。こっちは流れる。自分の前だけ、道が広いみたいに感じる。


ようやく足を止めた旅装の男が、干し肉を噛んで言った。


「悪くない。が、高い。半額でいいだろ」


「……一束、銅貨十二枚です。半額は――」


「ならいらん」


背を向けられた瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。

売れないことより、“無いもの扱い”される感覚がきつい。ハルは反射で口を開いていた。


「……二割引きで」


男が足を止め、鼻で笑う。


「ふん。買ってやるだけありがたいと思え」


銅貨十枚。

増えたのは硬貨だけで、腹は空いたままだ。婆さんに薬草を値切られ、塩を「粒が荒い」と笑われ、「次は真ん中で売りな」と軽く言われた頃には、頭の芯がぼんやりしてきた。


夕方、布を畳む。

肩の奥が鈍く痛む。握りっぱなしだった指がじんじんする。疲れのせいか、何に腹を立てているのかも分からなくなる。分からないまま、悔しさだけが残る。


町を出ると、石畳の熱が消え、風が冷たくなる。

森道に入ると土の匂いが戻ってきた。人の目が減るだけで呼吸が少し楽になるのが、情けなくて腹立たしい。


通り道の途中、風が抜ける小さな切れ間がある。

倒木は白く乾き、座ると冷たさが尻から背中へじわりと上がる。ハルはそこに腰を下ろし、リュックを足元へ置いた。


小銭袋を出して数える。

銀貨は一枚。あとは銅貨が少しだけだ。指がかじかんで、硬貨の冷たさが骨まで染みる。


今日の売り上げを頭の中で並べ直す。

干し肉が一束、銅貨十枚。薬草は三つ、まとめて銅貨六枚。塩は一袋、銅貨三枚。――合わせて銅貨十九枚。


そこから場所代を取られる。端の区画でも銅貨四枚。

さらに、量りの貸し賃だの、札の刻印だの、細い出費が銅貨二枚。残りは銅貨十三枚。


銅貨十三枚。

黒パン一つと、しなびかけた根菜が一本。運が良ければ薄いスープが一杯。肉は手が届かない。

買いたたかれたのは品物だけじゃない。今日一日そのものが、安く扱われた気がして、喉の奥が苦くなった。


「……今日も、うまくいかなかったな」


白い息が短く出る。

笑えもしない。出るのはため息だけだ。


腰の革袋に手を伸ばす。

金属の小さな筒――親父の形見。困ったら匂いを嗅げ、と言われた。何度握っても、何度温めても、匂いなんてしたことがない。


「困ったら匂いを嗅げ、ってさ……嗅いだって、何も匂わねぇよ」


その瞬間、森の空気が変わった。

乾いた冷気に、獣の体温が混ざる。鳥の声が途切れて、風が葉を擦る音だけが残る。耳が“近づく重さ”を拾う。


ハルは顔を上げ――固まった。


木陰から出てきたのは、狼の形をした魔獣だった。

狼と言うには大きすぎる。肩の高さが人間より高い。太い首の先の顎が、ハルの頭の上に影を落とす。近づかれたら顎が頭に“乗る”か乗らないか。毛並みは灰と銀が混じり、暗い森でも輪郭がはっきり浮く。


逃げろ、と頭が鳴る。

なのに足が動かない。腰が抜けたみたいに力が入らず、指も硬直して剣の柄すら掴めない。護身用の剣が腰にあるのに、抜ける気がしない。喉が閉じて声も出ない。息だけが浅く速くなって、胸が苦しくなる。


牙が刺さる。終わる。

そんな想像だけが勝手に膨らむ。


頭の中に声が落ちてきた。


『おい。動くな。――今は食わん』


低い声。はっきりした言葉。片言じゃない。

喋っている。言葉が通じる。

それだけで、恐怖の中にほんの小さな隙間ができた。


『剣は鞘に収めておけ。』


反射で剣に触れかけた手が、途中で止まる。

言い方は雑だった。命令みたいに短い。



『名乗れ。人間』


ハルは喉を擦るように息を吸った。冷たい空気が肺に刺さって痛い。

それでも、声を出さないと終わる。そう思って、震える音を押し出す。


「……ハル」


『ハル。……なるほど』

なるほど、で終わり。

気遣いも慰めもない。値踏みするような響きが混ざる。だからこそ、こいつは“獣”なんだと思い知らされる。


魔獣の視線が、ハルの手元へ落ちた。

握りしめた金属の筒。冷たさが掌に刺さる。


『それ、父親の形見だろ』


「……なんで分かる」


『この道で何度か見た。あの男がそれを使ってた。珍しい筒だったから覚えてる』


淡々としている。情に寄ってこない。

けれど、その言い方のせいで余計に胸に来る。親父と歩いた記憶が、勝手に浮かんでくる。


「……匂いがしない。ずっと」


『そりゃそうだ。封が寝てる。おまえの手の温さじゃ起きん』


「じゃあ――」


『出せ。起こしてやる。……さっさとしろ。いつまで固まってる』


ハルは震える手で筒を差し出した。

魔獣は近づかない。代わりに鼻先をこちらへ向けたまま、息を吐いた。


熱い息じゃない。焚き火みたいでもない。

なのに筒の周りだけ、ふっとぬるくなる。寒い戸口で頬が一瞬ほどける、あの感じ。


カチ、と小さな音。

合わせ目が、ほんのわずかに緩む。そこから香りが漏れた。


甘い。樹脂と乾いた木。その奥に薄い金属の匂い。

強くはないのに、鼻の奥に残って離れない。


「……っ」


声が喉で詰まる。

冷たいままのくせに、香りだけが生きている。


『これが起きた状態だ。封は熱と……まあ、息みたいなもんで動く。おまえの手じゃ足りん』


「息?」


『魔力の流れだ。人間でもできる奴はいる。――おまえの父親みたいにな』


胸の奥がきゅっと縮む。

でも香った。確かに香った。親父の言葉が、ただの口癖じゃなかったと分かる。


魔獣がハルを一度だけ眺めた。上から下まで、値踏みするみたいに。


『人間どもは我を“ガルム”と呼ぶらしい。聖堂がそう言い出しただけだ。

……で、おまえ。このまま端っこで干し肉並べてても変わらん。まず一回、売ってみろ』


「売るって……何を」


『金になる場所を教える。目印も教える。

おまえみたいな鈍いのでも分かるやつだ。ついて来い』


言い方は雑で、断る余地がない。

だからこそ、妙に信用できる気がした。甘い言葉はない。やることだけが置かれる。


ガルムは首をわずかに振り、森の奥へ向いた。

その巨体が動くだけで、影がずれる。枝が揺れ、落ち葉がさらりと鳴る。


ハルは、まだ足が震えていた。

それでも、筒に残る香りをもう一度だけ嗅いで、立ち上がった。


数分歩くと、空気が少し湿り気を帯びてくる。

腐葉土の匂いが濃くなる。足元の土が柔らかい。靴底が沈むたび、冷たさが足首へまとわりつく。


ガルムが立ち止まり、通り道から見える範囲の斜面を顎で示した。

背の低い草が群れている。葉の縁だけが白っぽく、暗い中でも輪郭が浮く。


『あの草だ。“白縁草”と呼ぶ奴もいる。

それが出てる場所の下に、金環茸が出る』


「草が目印か」


『そうだ。おまえは、今まで目の前を通ってたが、間抜けにも見てなかっただけだ』


腹が立つ。けれど、腹が立つほどには落ち着いてきている。

ハルは白縁草の根元へ膝をついた。


ガルムが顎で古木の根元を示す。


『ここだ。掘れ。……だが乱暴にやるな。崩れる』


「崩れる?」


『茸だ。雑に突けばぐちゃぐちゃになって、売れん。

指先で土をどけろ。慎重にな。』


ハルは短剣の鞘尻で土の表面をそっと割り、指先で少しずつほぐしていく。冷たい。爪の間に湿った土が入る。息を吐くたび腐葉土の匂いが鼻に残る。


少し掘ると土の色が変わった。

黒い土の中に淡い金色の筋。そこに、硬い丸い塊が埋まっている。


「……石?」


『違う。キノコだ。“金環茸”。乾かせば香りが強くなる。

傷薬の材料だ。効きが違う。貴族が金を出してでも手に入れる類だ』


ハルは息を殺して、指先で土を払いながら掘り出した。

親指の先ほどの塊。薄い膜が光を受けて、ほんのり金色に見える。鼻を近づけると、土の匂いの奥に微かな甘さがある。


ガルムがそれを見下ろして言った。


『今夜乾かせ。明日、町で“一個だけ”売れ。

欲を出さずに、まず相場を見ろ。買い手の顔をよく見ろ。……まず一回、金を手に入れろ』


ハルは小さな塊を掌に乗せた。

小さいくせに、妙に重い。香りが確かにある。指先の土の冷たさも残っている。


「……分かった」


『よし。まず一個だ』


ハルは、ガルムの大きな背中を見上げた。

まだ怖い。でも、さっきよりは息ができる。筒の香りが、鼻の奥に残っている。


一個。

まず一個。



———

その頃の私は、銅貨一枚の重さすら、まだ知らなかった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

本作はファンタジーですが、いわゆる“ワクワク一直線”の物語ではありません。

流れる時間の中で足掻いてきた男が、ほんの少し助けられながら、生きるだけのお話です。

生きて、失敗して、少しずつ覚えて、普通くらいにマシになっていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ