第1話 端っこの商人
帳面の端に、金属の筒が置いてある。
かつて父の手から受け取ったそれを、
今は、私の手が持っている。
商いは続く。
人は入れ替わり、金は巡る。
これは、
金の匂いに導かれて生きた、
私の話だ。
———
朝はまだ薄暗い。
町の外れ――石壁の外に残った古い家で、ハルは目を覚ました。親父が残してくれた家だ。屋根はまともで、雨も入らない。戸も閉まる。寝床もある。なのに腹だけは、いつも空っぽに近い。
台所の隅の黒パンをまな板に置き、包丁を入れる。
刃が入るたびに、乾いた粉がぱらぱら落ちる。厚く切れば、それだけ早くなくなる。だから薄く。指先が冷えていて、刃先が少しぶれて、切り口がきれいにならない。
かじると酸味が舌に残り、歯にねっとり貼りつく。
水で流し込むと胃が冷える。腹の底が鳴って、余計に空っぽを意識する。ハルは黙って噛み、飲み込んだ。
肉は端切れが少しだけ残っていた。脂の白い筋が細くて、見ているだけで喉が鳴る。
野菜は、しなびた根菜が一本。皮の張りもなくて、包丁を入れたら水気が出るかも怪しい。それでも、鍋に放り込めば腹の底が少しは落ち着く。たぶん、今ならそれだけで助かる。
ハルは手を伸ばしかけて、止めた。
食べてしまえば終わりだ。明日も同じ黒パンになる。塩も肉も、乾かす薬草も、売り物に回す量が減る。減ったぶんは、そのまま銅貨の不足になる。銅貨が足りなければ、次の塩が買えない。
根菜一本にここまで悩むのが、自分でも馬鹿らしい。
けれど笑える余裕がない。ハルは結局、その根菜を布で包み直した。
外套を羽織り、リュックを背負う。
中身は少ない。干し肉が少し、塩が半袋、乾燥薬草が数束。肩は軽いはずなのに、胸だけが重い。家の奥には、小さくて古い荷車が眠っている。仕入れに行ける当てもないから、ほとんど引っ張り出されないままだ。
町へ入る。
城門をくぐった瞬間、焼き菓子の甘い匂いが鼻を掠めた。腹が反射で動く。あれは買えない。買ったらその分、塩に回せなくなる。そう思うだけで、口の中が乾いた。
市場の掲示板の前は、朝から人が固まっていた。
区画割りの紙が貼られるからだ。上の等級の商人たちは、紙を見るまでもない顔をしている。良い場所はだいたい決まっている。角は角の常連が取る。中央は中央の顔役が取る。
ハルは紙の端から端まで目を走らせ、自分の名前を見つける。
――端。今日も端。風が抜けて、人の流れが細くなる角だ。
胸の内ポケットに突っ込んだ印札を、指で一度だけ押した。
角が当たって痛い。痛いだけで、腹の足しにはならない。
最低ランクの会員証。
年会費を払っても、仕事の紹介も仕入れの口もない。護衛の手配もない。あるのは「露店を出していい」という許可だけ。許可がなければ、売る前に追い払われる。だから払う。払って、端に立つ。
一度だけ窓口へ行ったことがある。
腹が減りすぎると妙に冷静になる日がある。あの日がそうだった。
「すみません。せめて……もう少し人が通る場所に」
返ってきたのは、顔も上げない声だった。
「等級を上げてください。以上です」
以上、で終わる。
ハルは笑って頭を下げて、その場を出た。外の空気に当たった途端、舌の奥が苦くなった。上げられないからここにいるのに――と言ったところで、何も変わらない。
今日も、リュックの中身を布の上に並べる。
干し肉、塩、薬草。少ない。自分で見て、自分で分かる。分かるから余計に、声を出すのが億劫になる。
「干し肉、あります。塩も。薬草も……」
声を張っても、人の波にすぐ消される。
中央の区画から笑い声が弾んで、袋が何枚も飛んでいく音がする。あっちは人が止まる。こっちは流れる。自分の前だけ、道が広いみたいに感じる。
ようやく足を止めた旅装の男が、干し肉を噛んで言った。
「悪くない。が、高い。半額でいいだろ」
「……一束、銅貨十二枚です。半額は――」
「ならいらん」
背を向けられた瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
売れないことより、“無いもの扱い”される感覚がきつい。ハルは反射で口を開いていた。
「……二割引きで」
男が足を止め、鼻で笑う。
「ふん。買ってやるだけありがたいと思え」
銅貨十枚。
増えたのは硬貨だけで、腹は空いたままだ。婆さんに薬草を値切られ、塩を「粒が荒い」と笑われ、「次は真ん中で売りな」と軽く言われた頃には、頭の芯がぼんやりしてきた。
夕方、布を畳む。
肩の奥が鈍く痛む。握りっぱなしだった指がじんじんする。疲れのせいか、何に腹を立てているのかも分からなくなる。分からないまま、悔しさだけが残る。
町を出ると、石畳の熱が消え、風が冷たくなる。
森道に入ると土の匂いが戻ってきた。人の目が減るだけで呼吸が少し楽になるのが、情けなくて腹立たしい。
通り道の途中、風が抜ける小さな切れ間がある。
倒木は白く乾き、座ると冷たさが尻から背中へじわりと上がる。ハルはそこに腰を下ろし、リュックを足元へ置いた。
小銭袋を出して数える。
銀貨は一枚。あとは銅貨が少しだけだ。指がかじかんで、硬貨の冷たさが骨まで染みる。
今日の売り上げを頭の中で並べ直す。
干し肉が一束、銅貨十枚。薬草は三つ、まとめて銅貨六枚。塩は一袋、銅貨三枚。――合わせて銅貨十九枚。
そこから場所代を取られる。端の区画でも銅貨四枚。
さらに、量りの貸し賃だの、札の刻印だの、細い出費が銅貨二枚。残りは銅貨十三枚。
銅貨十三枚。
黒パン一つと、しなびかけた根菜が一本。運が良ければ薄いスープが一杯。肉は手が届かない。
買いたたかれたのは品物だけじゃない。今日一日そのものが、安く扱われた気がして、喉の奥が苦くなった。
「……今日も、うまくいかなかったな」
白い息が短く出る。
笑えもしない。出るのはため息だけだ。
腰の革袋に手を伸ばす。
金属の小さな筒――親父の形見。困ったら匂いを嗅げ、と言われた。何度握っても、何度温めても、匂いなんてしたことがない。
「困ったら匂いを嗅げ、ってさ……嗅いだって、何も匂わねぇよ」
その瞬間、森の空気が変わった。
乾いた冷気に、獣の体温が混ざる。鳥の声が途切れて、風が葉を擦る音だけが残る。耳が“近づく重さ”を拾う。
ハルは顔を上げ――固まった。
木陰から出てきたのは、狼の形をした魔獣だった。
狼と言うには大きすぎる。肩の高さが人間より高い。太い首の先の顎が、ハルの頭の上に影を落とす。近づかれたら顎が頭に“乗る”か乗らないか。毛並みは灰と銀が混じり、暗い森でも輪郭がはっきり浮く。
逃げろ、と頭が鳴る。
なのに足が動かない。腰が抜けたみたいに力が入らず、指も硬直して剣の柄すら掴めない。護身用の剣が腰にあるのに、抜ける気がしない。喉が閉じて声も出ない。息だけが浅く速くなって、胸が苦しくなる。
牙が刺さる。終わる。
そんな想像だけが勝手に膨らむ。
頭の中に声が落ちてきた。
『おい。動くな。――今は食わん』
低い声。はっきりした言葉。片言じゃない。
喋っている。言葉が通じる。
それだけで、恐怖の中にほんの小さな隙間ができた。
『剣は鞘に収めておけ。』
反射で剣に触れかけた手が、途中で止まる。
言い方は雑だった。命令みたいに短い。
『名乗れ。人間』
ハルは喉を擦るように息を吸った。冷たい空気が肺に刺さって痛い。
それでも、声を出さないと終わる。そう思って、震える音を押し出す。
「……ハル」
『ハル。……なるほど』
なるほど、で終わり。
気遣いも慰めもない。値踏みするような響きが混ざる。だからこそ、こいつは“獣”なんだと思い知らされる。
魔獣の視線が、ハルの手元へ落ちた。
握りしめた金属の筒。冷たさが掌に刺さる。
『それ、父親の形見だろ』
「……なんで分かる」
『この道で何度か見た。あの男がそれを使ってた。珍しい筒だったから覚えてる』
淡々としている。情に寄ってこない。
けれど、その言い方のせいで余計に胸に来る。親父と歩いた記憶が、勝手に浮かんでくる。
「……匂いがしない。ずっと」
『そりゃそうだ。封が寝てる。おまえの手の温さじゃ起きん』
「じゃあ――」
『出せ。起こしてやる。……さっさとしろ。いつまで固まってる』
ハルは震える手で筒を差し出した。
魔獣は近づかない。代わりに鼻先をこちらへ向けたまま、息を吐いた。
熱い息じゃない。焚き火みたいでもない。
なのに筒の周りだけ、ふっとぬるくなる。寒い戸口で頬が一瞬ほどける、あの感じ。
カチ、と小さな音。
合わせ目が、ほんのわずかに緩む。そこから香りが漏れた。
甘い。樹脂と乾いた木。その奥に薄い金属の匂い。
強くはないのに、鼻の奥に残って離れない。
「……っ」
声が喉で詰まる。
冷たいままのくせに、香りだけが生きている。
『これが起きた状態だ。封は熱と……まあ、息みたいなもんで動く。おまえの手じゃ足りん』
「息?」
『魔力の流れだ。人間でもできる奴はいる。――おまえの父親みたいにな』
胸の奥がきゅっと縮む。
でも香った。確かに香った。親父の言葉が、ただの口癖じゃなかったと分かる。
魔獣がハルを一度だけ眺めた。上から下まで、値踏みするみたいに。
『人間どもは我を“ガルム”と呼ぶらしい。聖堂がそう言い出しただけだ。
……で、おまえ。このまま端っこで干し肉並べてても変わらん。まず一回、売ってみろ』
「売るって……何を」
『金になる場所を教える。目印も教える。
おまえみたいな鈍いのでも分かるやつだ。ついて来い』
言い方は雑で、断る余地がない。
だからこそ、妙に信用できる気がした。甘い言葉はない。やることだけが置かれる。
ガルムは首をわずかに振り、森の奥へ向いた。
その巨体が動くだけで、影がずれる。枝が揺れ、落ち葉がさらりと鳴る。
ハルは、まだ足が震えていた。
それでも、筒に残る香りをもう一度だけ嗅いで、立ち上がった。
数分歩くと、空気が少し湿り気を帯びてくる。
腐葉土の匂いが濃くなる。足元の土が柔らかい。靴底が沈むたび、冷たさが足首へまとわりつく。
ガルムが立ち止まり、通り道から見える範囲の斜面を顎で示した。
背の低い草が群れている。葉の縁だけが白っぽく、暗い中でも輪郭が浮く。
『あの草だ。“白縁草”と呼ぶ奴もいる。
それが出てる場所の下に、金環茸が出る』
「草が目印か」
『そうだ。おまえは、今まで目の前を通ってたが、間抜けにも見てなかっただけだ』
腹が立つ。けれど、腹が立つほどには落ち着いてきている。
ハルは白縁草の根元へ膝をついた。
ガルムが顎で古木の根元を示す。
『ここだ。掘れ。……だが乱暴にやるな。崩れる』
「崩れる?」
『茸だ。雑に突けばぐちゃぐちゃになって、売れん。
指先で土をどけろ。慎重にな。』
ハルは短剣の鞘尻で土の表面をそっと割り、指先で少しずつほぐしていく。冷たい。爪の間に湿った土が入る。息を吐くたび腐葉土の匂いが鼻に残る。
少し掘ると土の色が変わった。
黒い土の中に淡い金色の筋。そこに、硬い丸い塊が埋まっている。
「……石?」
『違う。キノコだ。“金環茸”。乾かせば香りが強くなる。
傷薬の材料だ。効きが違う。貴族が金を出してでも手に入れる類だ』
ハルは息を殺して、指先で土を払いながら掘り出した。
親指の先ほどの塊。薄い膜が光を受けて、ほんのり金色に見える。鼻を近づけると、土の匂いの奥に微かな甘さがある。
ガルムがそれを見下ろして言った。
『今夜乾かせ。明日、町で“一個だけ”売れ。
欲を出さずに、まず相場を見ろ。買い手の顔をよく見ろ。……まず一回、金を手に入れろ』
ハルは小さな塊を掌に乗せた。
小さいくせに、妙に重い。香りが確かにある。指先の土の冷たさも残っている。
「……分かった」
『よし。まず一個だ』
ハルは、ガルムの大きな背中を見上げた。
まだ怖い。でも、さっきよりは息ができる。筒の香りが、鼻の奥に残っている。
一個。
まず一個。
———
その頃の私は、銅貨一枚の重さすら、まだ知らなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
本作はファンタジーですが、いわゆる“ワクワク一直線”の物語ではありません。
流れる時間の中で足掻いてきた男が、ほんの少し助けられながら、生きるだけのお話です。
生きて、失敗して、少しずつ覚えて、普通くらいにマシになっていきます。




