魔法使いの決断
「……行ったのね、セリア」
夜闇に紛れるように去って行くイェッテ(セリア)の背を眺めながら、グレースは小さく呟いた。
自分は仲間から見捨てられた。
その事を理解してはいるものの、グレースの瞳に憎悪の色は浮かんでいない。
諦観の中に少しばかりの安堵すら感じていた。
立場上はグレースの従者であるイェッテ。
彼女はかつてグレースと共に勇者アランと魔王討伐の旅へ出た仲間であり、その時の名はセリアであり、それが両親から貰った本来の彼女の名だ。
グレースとセリア、そして戦死したデボラは皆が勇者アランの仲間であり、その婚約者でもあった。
貴族として生まれたグレースに恋愛の自由はない。
しかし旅を続ける中で出会ったクレマンという男性に惹かれ、初めて自分の意志で愛を告白した。
初めて手に入れた自由に感情を表せる環境。
クレマンに抱いた感情こそが、かつて物語を通して焦がれた真実の愛なのだと、グレースは夢中になった。
ある意味でそれはクレマンへの依存とも言えた。グレースは婚約者であるアランへの好意を抱いていたが、彼女にとっては強制された婚約であり、多少なり反発したい気持ちもあった。
抑圧された環境で育った反動からか、グレースはクレマンと恋するという事そのものに対し、自由を感じると共に執着を見せていた。
それは仲間であるセリアやデボラも同様で、三人とも自由な愛を求め、クレマンへ歪で偏った愛情を抱くようになっていた。
果たして許される事なのか。将来に不安がなかった訳ではない。
しかし魔王討伐を成し遂げた暁には、好きな人と結ばれるという程度の自由は認められるべきだ。そう思い込むようにしていた。
無論、そう思い込む至った原因はクレマンの巧みな話術によるところが大きかったが。
もはやグレースにクレマンへの愛はない。自由な愛への渇望もない。
失望はある。私はクレマンに騙されていた。
貴族出身である自分は村娘とは違う。甘言に唆されるはずがない。そう思っていたのに。
もう私の人生は終わっている。
状況を客観視できる程度には冷静であるグレースは狂い切れていなかった。
彼女にとって、或いは狂っていた方が幸せだったのかもしれない。完全に壊れてしまえば、少なくともこのような場面で涙を流す事はなかっただろう。
グレースの頬を涙が伝う。
彼女の胸中には、終わりにしたい――その暗く寂しい想いだけが灯っていた。
「――よう、いい夜だな」
近くの草むらから数名の男たちが現れた。
その手には斧や棍棒などが握られており、その出で立ちは野盗のようだった。
「盗賊? それともお父様の差し金?」
「お父様? 何言ってやがんだ、こいつ」
盗賊風の男たちは演技をしているようには見えない。
もしかしたら用済みになった私とイェッテを処理する為、父親であるミューレン侯爵が放った暗殺者ではないかと考えたグレースだったが、それにしてはお粗末な戦闘力しかない男たちだった。
この程度の盗賊たちであれば、戦闘職のグレースは勿論、支援職のイェッテを抑えるにしても役不足だろう。
(少なくとも、お父様は私を“まだ”殺すつもりはないらしい)
その事が分かっただけでも十分だと思えた。
「お頭、近くの岩場に血の染みた女物の衣服が落ちてやした」
「あ? こいつの仲間か?」
盗賊の一人がイェッテの衣服を発見したらしい。
服を脱ぎ捨て、血を染み込ませて誘拐を偽装する。
盗賊の襲撃にいち早く気が付いたイェッテはこの期に乗じて逃亡を決めたようだ。偽装工作までしている辺り、彼女の本気が伺える。
言い換えるなら、それは本気でグレースを見限ったという事。
グレースはそれで良いと思った。
このまま盗賊たちを魔法で蹴散らし、イェッテが誘拐されたと国へ報告すれば、彼女は自由になれるかもしれない。
けどその後は?
イェッテは気が付いていないようだが、グレースたちには監視の目があった。
身体の欠損を抱えたとはいえ、グレースとイェッテには魔法の才がある。その力故に野放しはできないのであろう。
特にイェッテはクレマンの子を孕んでおり、その子が膨大な魔力を持って生まれる可能性がある。
現在、教会で祭り上げられている聖女セリアという女性は、かつて辺境の男爵家に生まれた娘であり、本当の“イェッテ”である。
それはつまり、民衆から聖女として称えられているセリアという少女には聖女たる魔法的な才能はないという事を表す。実際、現聖女セリアと魔王討伐を成し遂げた僧侶セリアの持つ魔力量は比較にならない。本来の聖女セリアとは別人だから当然だ。
もしイェッテ(本当のセリア)に宿った子が強力な回復魔法の才を持っていたら、その子は現聖女の後継として育てられるか、あるいは火種となる事を恐れた者たちに命を狙われるか。
いずれにせよ、平穏な人生を送る事は難しいだろう。
仮にイェッテ誘拐の報を国が信じたとしても、全力で捜索される事だろう。
そもそも、イェッテ誘拐の報を国が信じる可能性は低いのではないかとグレースは考えている。
魔王戦では役立たずだったとしても、グレースとイェッテの実力は一般の冒険者や兵士から隔絶している。野盗に攫われるとは思えないのだ。
(けど、信じさせる方法は……ある)
イェッテを誘拐したのがただの盗賊ではなく、魔王軍残党の強力な魔物であった事にすればよい。
本来、そのように強力な魔物を討伐すれば、国に報告して対策を求めなければならない。その為にも証拠となるものが必要なのだが、必然的にそれができない状況を作り出せば良いのだ。
(うん、やっぱりそれでいい……それがいい)
今のグレースに葛藤はない。自分の生へ執着がない。
彼女は自らの命を天秤に掛けた選択肢を躊躇いなく選んだ。
――自爆魔法。
グレースは自爆魔法で自分もろとも辺りを吹き飛ばし、何の痕跡も残さない事がもっとも合理的だと考えた。
そうなればグレースやイェッテを襲った相手の情報を秘匿し、更に自らの死を以て、敵の強力さを証明すると共にイェッテの誘拐に信憑性を増す事ができる。
上手くいけば、イェッテ自身も自爆魔法の巻き添えで亡くなった事にできるかもしれない。
私の死が、仲間の為になるのなら。
間違いだらけの人生に意味を持たせる事ができるかもしれない。かつて名誉の戦死を遂げたデボラのように。
だから――
「……バイバイ、セリア」