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竜田川

 集落の中程にある古民家を尾野(おの)が訪ねた時、業者が頭を下げて立ち去るところだった。

 既に掲げられている看板は風合い良くエイジングされ、飾り書体で「創作ジビエ料理サングリエ」と書かれている。店名にフランス語を使用しているが、ジビエというのが元々フランス語だからというだけで、別段フランス料理店と言うわけではないらしい。寧ろ洋食の大衆食堂ね、と店主の涌井(わけい)は笑っていたけれど。

 その看板にはオープン予定日が大きく張り付けられており、遠目にも目立ちそうだ。その日付けを確認しながら門を通ると、会釈しながら業者らと擦れ違う。

 元より見事な庭の名残りを感じさせていたが、整えられてしまえばひたすら感嘆する光景だ。店鋪の入り口から中を覗き込むと、新たな家主は作業の最中らしい。こんにちは、と声をかけると振り向いて、花咲くように笑った。

「来たよ、万里矢(まりや)!」

「ようこそ、利香子(りかこ)さん。ここでも狩猟やるの?」

「あったりまえでしょ! 何の店だと思ってるの」

 からから笑う彼女は、尾野が諸国漫遊の旅をしていた最中に出会った人物だ。本業はシェフ、のはずである。多分。

 一応、某タイヤ会社から星を頂くくらいの名店へ勤務していた経歴の持ち主なのだ。けれど、ある日突然ジビエに目覚め、何故か自力で獲物を得る方向へと突き進んでしまったという、幾らか残念なヒトなのである。

 曰く、天啓を得た、らしい。

 後に師事した老人が狩った猪に、いたく感動したのだそうだ。あんなに甘くて柔らかいなんて、と未だに恍惚と語るくらいには、価値観を揺るがすほどに衝撃だったらしい。

 狩猟にて獲た肉は、全て狩猟者の伎倆に左右される。

 如何にして巧く仕留めるか。素早く処理をして、鮮度を確保するか。ただ仕留めればいいわけではないのだ。よく育った良質な獲物でも、肉に血が回っては台無しになる。

 そうして、誰もが羨む職場をあっさりと退職し、押し掛けた師匠の元で狩猟者として修行を始め、それが板についた頃に尾野と出会った。その当時に、ジビエで創作料理やりたいのよね、と語っていたのを、春先に井波と話していて思い出したのだ。

 高梨にまず確認し、近場に狩りが出来る山もある土地で、洒落た作りの古民家が空いてるけどどう? と声を掛けた。

 そのうち返事が来るといいな、と暢気に考えていたところ、間髪入れずに返信がきて、若干引いたのは秘密の話し。

 とんとん拍子に話しが進んで、内覧に飛んできた彼女を幾つかの空家へ案内し、気に入った一件を押さえて今日に至る。

 建物自体は入居が決まってからリノベーションされており、住居兼店鋪へと生まれ変わった。明るく柔らかい雰囲気の和製洋館は、元々庭に面して大きな談話室を備えていた建物らしい。その空間を活かして店鋪化し、元々あったキッチンと食堂を、厨房やパントリーとして大きく直したのだ。

 店内は外観の雰囲気に合わせて構築し直し、建具には、わざわざ他所から探してきたらしい和ガラスを使っている。紋様の名で言えば、竜田川(たつたがわ)。流水に流れる紅葉を図案化したもので、紅葉の名勝に(あやか)った呼び名らしい。

 これを選んだのは涌井で、狩猟者として川は外せない、だそうだ。残念ながら取り扱うのは鹿じゃないけどね、と笑っていたけれど。流石に、流水に牡丹の和ガラスはなかったようだ。

 これに合わせて、店内を飾る紙類は、日浦(ひうら)が制作した竜田川の図案で統一されている。和紙を用いたシェードにも淡く刷り込まれているし、中透かし戸を飾る格子も竜田川だ。因みに、この格子も日浦作らしい。

 どこまでも器用な男だと呆れる尾野に、世間には仏師並みの仕事で仏像を彫る彫師もいるんだぞ、とずれた反論をしてきたわけが。明らかにそれと同類から言われても、生温い眼差ししか向けられない。

 閑話休題。

 本来は裏庭だった場所は店の前庭となり、低い垣根は一部取り払われ通路を作って、そちらから客を迎え入れる形となっている。元々、庭を見せるように建てられたらしいこの古民家は、大変都合が良かったわけだ。

 招かれてカウンター席へ腰掛けると、尾野は胡乱に涌井を見遣る。

「高梨さんから聞いたけど、来週から営業って、早すぎない?」

「流石に、この土地の獲物は間に合わないけどね」

 涌井が狩った獲物自体は幾らかあって、それを使うから問題ないと、彼女はあっけらかんと告げる。

 狩猟解禁は秋から春先。その間に狩った獲物はそのまま食肉として卸したり、保存のために加工したりする。春先に連絡くれたから卸さずに確保しておいたの、と彼女は厨房の奥を指した。

「屠畜場法ではジビエ素材は家畜じゃないから対象外だったんだけど、衛生の問題があるでしょう? 今は認定された食肉処理施設から入れないと、お店で出せないの」

 曰く、この土地でも道の駅でぼたん肉を売り出す計画が進んでいたことから、既に申請されているらしい。そこから食肉を卸せますよ、と高梨から言われたことが決め手だったそうだ。

 序でに、これだけの施設を作るというのに加工品には手を出さないのかと尋ねたところ、これまたとんとん拍子に話しが進み、加工施設も作って申請することになっているという。こちらの監修も、何故か涌井がするようである。

「道の駅でフランクフルト売るって。実際、害獣駆除目的で狩られる動物のうち、消費されるのはごく僅かなのよね。それは勿体無いし、消費できるならした方がいいもの」

「猪ってソーセージに出来るんだ……」

「扱いは殆ど豚と一緒で問題ないみたいよ。寄生虫やら細菌やら問題があるから、一定温度以上の過熱処理しなきゃいけないけど。まぁ、豚だって生食しないんだし?」

 ハムとかベーコンもいいかもね、とのほほんと笑って、涌井は指を折った。

「ほら、道の駅でパン屋やるのも流行ってるじゃない。そこでベーコンエピとか、ハムロール作ってもいいし。単純に、ベーコン串でも若い子は喜ぶかもね」

「あああー、それ美味しそう! ビールすすむやつ!」

 売り出したら絶対買わなきゃ、と使命感に燃える尾野に、けらけら笑う涌井から「今日は夕飯食べにおいで」と誘われた。

「持ってきたやつ、ちょっと食べさせてあげるからさ」

「やった! あ、一人連れてきていい? ほら、ハーブ育ててる子。紹介してって言ってたでしょう?」

 今日訪ねた、そもそもの理由を思い出して尋ねると、果たして涌井はにんまりと笑う。

「あら、それなら大歓迎。連れておいで。軽くお仕事の話しもしたいって伝えてね」

 それなら腕を振るわなくちゃ、とあっさり追い出され、尾野は夕方の来訪を約束して店を後にした。そうしてそのまま、井波(いなみ)の家へと歩いていく。こんなふうに人の輪が広がっていくさまは、何度体験しても愉快だ。

 尾野万里矢の経歴は、少々変わっている。

 彼女の名付けをしたのは祖父で、この国際化の時代に相応しい名前を! と張り切ってしまったらしい。名付けられた当人としては、微妙に珍名に片足を突っ込みかけている風のため、素直に頷けない。

 しかし、この名前はそれなりに役立った。

 高校時代に純粋な興味から投資を始め、意外な才能を発揮して、卒業までに資産を溜め込んだのだ。そこから大学の費用を捻出して進学、更に資産は膨らみ続けて、卒業する頃には一財産築いていた。

 これからの人生について考え始めたのは、周りが就職活動に駆け回り始めた頃。

 結局、彼女は就職活動を一切せず、そのまま世界へ飛び出したのである。そうして股旅生活が始まった。気の向いた方向へ適当に行く、という杜撰な決め方で放浪し、行く先々で着実に人脈は広がっていった。それが更に資産を増やしていくのだが、彼女にしてみればただの副産物だ。愉しいことをしていただけ、という印象しかない。

 ある意味、彼女は天才だったのだろう。成功者、と言い換えてもいい。

 彼女の嗅覚は的確で、巧く不利益を避け続ける才も持ち合わせていたのも大きいか。海外を渡り歩いて暫く、そういえば祖国も全然知らないな、と思いついて帰国した。

 今度は国内を渡り歩きながら、更に人脈は広がっていく。

 華やかな世界というのも垣間見たが、それはそれ。肌に合わないとさっさと退散し、最後にこの土地へ辿り着いた。

 実のところ、ここが地方創世に本格参戦できたのは、尾野の尽力が大きい。臨時職員をしながら人脈を駆使するのは愉しくて、任期が終わっても居座ることにしたのだ。これまでと違って日々は穏やかに過ぎていくが、それが存外、嫌ではない。これまでが目紛し過ぎた、とは彼女の弁である。

 井波の家へ辿り着くと、そのまま裏手の畑の方へ回る。畦道を歩いていると、もっさりと繁ったハーブの中で座り込む人影が見えた。

「おーい、マユちゃーん!」

 声をかけると顔をあげて、彼女はきょろきょろと辺りを見回す。そうして尾野に気がつくと、ふんわり笑って立ち上がった。今日も今日とて田舎のご婦人御用達スタイルだが、何故か大層似合っているし、不思議と可愛い。背島(せなしま)曰く、世界の謎だそうだ。

「いらっしゃい、マリちゃん。どうしたの?」

 畦道から逸れて畝を除けて歩き、ハーブの群生地まで辿り着く。相変わらず物凄い状態になっているが、これできちんと管理できているらしい。道の駅へハーブソルトを定期的に卸しているそうだし、これくらいでないと在庫が枯渇してしまうのかもしれない。

 それらを軽く見渡して、尾野は井波へ向き直った。

「今日の夜、時間もらえる? 前に話してたシェフがね、今日引っ越してきて」

「あぁ! ハーブが欲しいって人だよね? お仕事の話?」

「うん、序でに夕飯ご馳走してくれるって」

 わぁ楽しみ! と嬉しそうに笑みを浮かべて、井波はハーブを振り返る。

「それじゃぁ、手土産に少し摘んでいこうかな。試しに使ってみたいだろうし」

「そうだね。なんか、オープン来週らしいよ?」

「ええ、早いねぇ。でも、話題になってたから、楽しみにしてる人も多いんじゃないかな? 素敵な外観だもの」

 それじゃぁ夕方に迎えに来るね、とその場で別れて尾野は帰路についた。

 家へ戻ったら、手土産を買いに自動車で出掛けよう。炙りベーコンも出してくれるだろうし、軽めのホワイトエールあたりがいいだろうか。この集落の利点は、内部を移動するくらいなら、徒歩で事足りてしまうことだ。お蔭様で、心置きなく飲酒もできる。外から他人も容易に来ないため、治安も大変宜しいのだ。

 今日も愉しく呑めそうだ、と。機嫌良く鼻歌を歌いながら、彼女は少し遠方へ足を伸ばすことに決めたのである。


  ◇◆◇


 サングリエは、まずまずの滑り出しで営業を開始した。まだ卸しを開始していない食肉処理施設は仕方ないにしても、地産地消をモットーに地元農家から各々仕入れをしており、地元民が気楽に食事へ行ける洋食屋と化している。

 尾野がいつものようにSNSへ写真を掲載したところ、わざわざ足を伸ばしてきた近隣住民もチラホラいるらしい。

 ジビエっていうから嫌味なくらいに小洒落た如何にもな感じかと思った、とはSNSへ書き込まれたコメントである。

 普通に洋食、気取ってなくて行きやすい、兎に角美味い。そんな声に我が意を得たりとにまにましつつ、涌井は今日も腕を振るっているのだった。

「というわけで、お持ち帰りでロールキャベツ買ってきた。みんなで食べようぜい!」

 どん、と蓋をして保温用の袋へ放り込み、更に風呂敷で包み込んだ大きめの鍋を卓袱台へ置いた尾野へ、珍しく日浦家へ顔を出していた小日向(こひなた)弟と春花(はるはな)が歓声をあげる。

「まじで。え、俺も食べていいの?」

「美味しいって評判のジビエ屋さんだ!」

「おう、食え食え。(わたる)くんと由果(ゆか)ちゃんもいるってヒナから聞いてたから、多めに買ってきたし」

 やったー、と諸手をあげる二人に呆れたような一瞥をくれて、小日向兄は満足そうな尾野を見上げた。

「おまえ、本当に田舎のおばちゃんみたいだよな」

「失礼な奴だなぁ。美味しいものは分かち合わなきゃ!」

「メインはそれでいいとして、他に何食う?」

 ざかざか何やら描き散らしている日浦が口を挟んで、ちらりと尾野を見遣る。

「これ、井波さんが言ってたトマトスープ仕立てのだろう? グリル野菜をディップしたら美味かったとかいう」

「そうそう、マユちゃん紹介した時に食べさせてもらったの。スープが濃厚で、よく絡んでさぁ!」

 丁寧に作られたトマトスープには旨味がたっぷりで、柔らかく煮込まれたキャベツによく絡んでいた。それを適度に崩して挽肉に吸わせながら食べるのも堪らなかったが、何の変哲もない野菜のグリルまで驚くほど化けたのである。

 一緒に出してくれた、猪肉のソーセージやベーコンは言うに及ばず。大変楽しく、美味しい晩餐だったのだ。

 それが今や、井波の丹精したハーブまでもが使用されている。恐るべき緑の手を持った魔女は、順調に農家を満喫しているのだ。いや、農家が魔女化した、が正しいか。

 それはさておき、ただでさえ美味だったあの逸品が、純粋な上位互換へと変貌しているのである。

彼方(かなた)さん、ホットプレート出そう!」

「お野菜適当に切っちゃうよ!」

 年少組がすかさず立ち上がり、ぱたぱたと台所へ向かう。それを見送った小日向兄は、ふと日浦を振り向いた。

「……彼方。今、酒の在庫何がある? 赤かロゼワインあるならベスト」

「あー……、出したくないけど勝沼の生ワインの赤……」

 よっしゃ! と立ち上がった小日向兄が確保に向かうのを、ため息をつきつつ見送る日浦へ、尾野はにんまり笑う。

「ごちになりまーす! ていうか、良かったの?」

「他だと由果が飲めないだろ。あいつ、甘いのしか無理だったはず」

 お兄ちゃんは優しいねぇ、と生温かい眼差しを向けた尾野は、傍らに膝を着いて日浦の手許を覗き込んだ。

「さっきから何描いてるの?」

「由果のショップの商品。まさか、おまえが出資するとは思わなかった」

「んー? 面白そうだったから。由果ちゃん、巧く回してたしね」

 そもそも、彼女は尾野が感心するくらいに写真が巧い。勿論、被写体となっている小日向兄の焼物も佇まいが善いのだが、その魅力を少しも損なうことなく、見事に「そのまま」写し取る。端末で商品写真を見た後、現物を手にしても印象が変わらないのだ。

 些細なことだが、これが及ぼす影響は大きい。クリエイター御用達アプリでのショップの評判も上々で、春花の迅速で丁寧な対応の賜物だろう。

 彼女にしてみれば、現在やっている小日向家の事務作業手伝いの延長だったらしいが。将来の小日向家の嫁は、なかなか頼もしい。

「気負わずにやればいいんだよ。大失敗するとも思わないし」

 間接的なパトロンだな、と評する日浦に笑って、尾野は小さく肩を竦めてみせた。

「それなりに稼いでるからね。きちんと回さなきゃ」

 尾野は、ヒトと出会うのが好きだ。そして、本来ならば交わらないはずのヒトビトを引き合わせるのも。その化学反応で一体どんなモノが生まれるのか、一番いい場所で見ていたいと思っている。

 春花へは、小さいが職人気質の印刷所や製本工房を幾つか紹介した。張り切って企画書を作った彼女は意気揚々と出掛けて、きちんと契約を結んできたらしい。まずは、唐紙師の手掛ける紙製雑貨を打ち出していくようだ。

 アクセサリーも絶対可愛いと思うんですよ! と言っていた彼女は、更に何やら調べていたようである。相談されるまでは見守るつもりでいるが、何となくそのまま自力でやり切ってしまいそうな気配もあった。それはそれでいいことだし、春花が独自に築いていく縁がどうなっていくのか、楽しみにしている尾野である。

「ていうか、可愛いねコレ。あたしも欲しい」

 指差したのは、くるくると渦巻いた模様の中で紅葉が点在しているものだ。あぁ、とそちらへ視線を向けて、日浦は薄く笑う。

「それも一応、竜田川だぞ。流水を唐草っぽく巻いてるだけ」

「へぇ! そういうのもいいんだ?」

 お固い仕事ではやらないけど、と前置きをして手を伸ばした彼は、それに手早く花を幾つか描き足した。

「伝統紋様で縛ってるわけじゃないからな。これにこうやって……桜散らしたら、流水に桜楓って、季節を問わない柄になったりも」

 もしかしてこれから紅葉なくした紋様もある? と興味深く尋ねると、果たして彼は軽く頷いた。

花筏(はないかだ)だな。桜川とか、流水に桜なんて言い方もある」

「おー。彼方さん、それも加えようよ。女の子って桜好きじゃね?」

 ホットプレートを抱えた小日向弟がひょいと上から覗き込んで口を挟む。日浦と二人、いそいそと卓上を片付けるのを待ってホットプレートを据えた彼は、改めてラフを幾つか手に取った。

「相変わらず巧いなぁ。俺、こういうの描けない」

「亘くんは絵付け師だし、方向違うでしょう?」

 巧いのは確かだけどさ、と相槌を打つ尾野に、彼は不本意そうに眉根を寄せる。

「そうだけどー。彼方さん、何描かせても大体いけるって狡くない? 写生大会でもいつも賞取ってたじゃん」

「贅沢言ってんじゃねぇよ、磁器屋の息子なのに全く描けない俺はどうなる」

 両手にバネ式栓の瓶を抱えて戻ってきた小日向兄が参戦して、日浦の視線に応えて片手をあげた。

「白も持ってきた。ここの生ワイン、白が辛口だったよな?」

「まぁ、足りないよな、おまえらじゃ」

 好きにしてくれ、とため息混じりに応えるさまに、それでは、と尾野が立ち上がる。

「グラスと器、持ってくるねー」

 勝手知ったる台所へ向かえば、春花が野菜と格闘していた。その手許を何気なく見て、尾野は驚愕に目を丸くする。

「カナの家なのにズッキーニがある!」

「え? あ、これ(ひろむ)兄ちゃんが持ってきたやつですよ。眞響(まゆら)さんのお裾分けだって」

「あ、それなら納得。トマトにはズッキーニだよねぇ」

 美味しいですよね、と目許を緩める春花は、ふと真顔になった。

「ここの台所、洒落た野菜とは無縁そうなのに、調味料やたらと揃ってるんですよ……。オリーブオイルも当たり前にあったので、あれで焼きましょうか」

「それ、由果ちゃんの未来のお義兄(にい)さんの所為だから」

 弘兄ちゃんかー、と天を仰いでため息一つ。そうして春花は気を取り直したようにかぶりを振った。笑いながら食器棚からスープ皿を取り出した尾野は、戸棚から引っ張り出した盆へ積むと、所定の位置に鎮座していたレードルを取り上げ、カトラリーを漁ってワイングラスも取り出す。

 それに気づいた春花は、きょとりと小首を傾げた。

「あれ、お酒あるんですか?」

「カナの秘蔵ワインだって。甘めでフルーティな赤の生。ヒナが引っ張り出してきた」

「容赦ないなぁ。お酒って何が美味しいんだろうって思ってたんですけど、みんなが飲ませてくれるのは美味しいんですよねぇ」

 不思議、と首を傾げるさまに苦笑して、尾野はひらひらと手を振ってみせる。

「若者がばか騒ぎしながら呑むのなんて、大体が酔えるだけの安酒だから仕方ないね」

 初めて呑んだ酒が、のちの飲酒観を決定付けると言っても過言ではない。だからこそ、大人は責任を持って良い酒を呑ませてやるべきだと尾野は思っていた。彼女自身、祖父が実に良い酒を呑ませてくれて、味を覚えたのだから。

 そこから先の善し悪しは当人の判断に任せるし、やはり単純に好き嫌いもあるので、無理に勧めようとは思わないけれど。

 ふ、と物憂げにため息をついた春花は、悩ましげに眉根を寄せた。

「いろいろな種類のお酒飲ませてもらってたら、何だか缶チューハイ飲めなくなっちゃいましたし」

「あれ、ただのジュースだよねぇ」

「甘過ぎるわりに、なんだか旨味が薄いし」

 立派な酒呑みの台詞だわー、とけらけら笑って盆を抱える。先に行くね、と言いおいて踵を返すと、春花は「すぐに行きますね」と応じた。

 居間へ戻れば既にホットプレートの電源は入っており、準備は万端整っているようだ。盆を卓袱台の傍らへ置いて、鍋の風呂敷を解きながら、尾野は紙片を片付けている日浦へ視線を向ける。

「カナ、他に何か焼けそうなものある?」

「チーズでも焼くか? 確か酒と一緒に貰ったのが……。あれって焼いてもいいのか?」

 なんだっけ、生クリームのモッツァレラ? と小首を傾げた時、小日向兄が「がたッ」と立ち上がる。

「ブラータあるのかよ! 持ってくる! 冷蔵庫?」

 頷くのを横目にとっとと台所へ向かった彼に、弟は「兄貴がすみません……」と小さく頭を下げる。果たして日浦は、いや別に、とあっさりかぶりを振った。

「というか、あんなの弘しか使えないし」

 どう料理していいのやら、と困惑気味に言われて、小日向弟はあっさり頷いた。

「あー、それもそうですね。俺も知らないや」

「ブラータねぇ。あれ、チーズが生クリームに浮いてるんだよね。しかも滅茶苦茶濃厚で美味しいの」

 ……トマトスープに垂らしたら暴力的じゃないかなぁ、とぽつりと呟かれた一言に、男二人が真顔を向ける。そこへ野菜を盛った皿を抱えた小日向と、オリーブオイルの瓶と小さな容れ物をおっかなびっくり手にした春花が戻ってきた。

「よし、食おうぜ! ていうか、何やってんだよ? おまえら」

 うん、と曖昧に頷いて、尾野は春花へ不思議そうな目を向ける。

「どうしたの? 由果ちゃん」

「だって、これあの滅多にお目にかかれないチーズ様ですよね?!」

 チーズ様て、と笑う小日向弟に、「なによう」と春花が口を尖らせる。その手からさっさと諸々回収した日浦が、小日向兄を促して黙々と作業を始めた。それに気づいた年少組も、慌ててその輪に加わる。

 各々が野菜を焼きつつ卓袱台を囲むさまを眺めながら、尾野はスープ皿を配膳して、人知れず満足そうに笑う。

 一人立ちをして、あちこち思いつく限りに渡り歩いたのは楽しかった。

 思い掛けない出会いと別れの繰り返し、突拍子もない事件に巻き込まれたこともある。まるで物語のような出来事だって、驚くほどたくさんあった。そんな刺激的な日々の中で築き上げた人脈は、変えようのない尾野の宝だ。けれど今は、この輪の中に一緒にいられることが、この上なく幸せなことのように思える。

 きっと、曾ての彼女を知るヒトビトは、今の生活を見て、若いうちから楽隠居でもするつもりかと言うことだろう。持てる者の義務を放棄するのか、と。

 楽隠居だなんて、とんでもない。これまでの生活を顧みても、この土地での生活ほど愉しいことは見出せなかった。

 穏やかな日々に浸りながら、己の才覚を存分に活かし、あらゆる変化を特等席で眺め続けられる権利。それを手放すだなんて、そんな勿体無いことをするつもりなんてないのだ。

 だからきっと生涯の終わりまで、彼女はここにいるのだろう。気のいい仲間たちと食卓を囲み、陽気に語らいながら、ずっと。

 それは存外、世界を渡り歩くよりも愉快な日々となるだろう。


〈了〉

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