第九話 沈黙の聖都
聖都『ルーメン・サンクタ』
太陽の神ヘリオスを奉じるこの都市は、まるで一枚の絵のように整った美しさを誇っていた。 白と金を基調とした建築群。 光を反射し、どこまでも清らかに見える大理石の道。 祈りを捧げる者たちは皆、規則正しい動きで、ひたすら天を仰いでいた。
だが——
「…やっぱり気に食わねぇな。」
イクリは低く呟いた。
「何がだ?」
ユリウスが隣で淡々と問い返す。
「全部だ。……何もかもが"整いすぎてる"。」
イクリは街の人々を見渡す。 誰もが穏やかに、等しく幸福そうな表情を浮かべている。
だが、それは"違和感"でもあった。
「作り物みてぇなんだよ。笑ってんのに、心がねぇみてぇな。」
イクリの言葉に、ユリウスも周囲を見渡した。
「…確かに、不自然だな。」
あまりに均一すぎる。 感情の揺らぎがない。
「光の都ってのは、どいつもこいつもこんなもんなのかねぇ?」
イクリはぼそりと呟いた。
その時——
「…話がしたい。」
突然、後ろから声がかけられた。
振り向くと、そこには白い法衣を纏った一人の男が立っていた。 まだ若いが、その顔にはどこか老成した影が差している。
「…誰だ?」
イクリが眉をひそめる。
「私は『ルーメン大聖堂』に仕える者だ。」
男は静かに言った。
「お前たちを見て、気になった。……この都で、"感じるもの"があるか?」
「…テメェ、どういうつもりだ?」
「…来てくれれば、話そう。」
男はそれだけ言うと、踵を返して歩き出す。
イクリとユリウスは一瞬だけ視線を交わした。
——この街には、何かがある。
それを確かめるために、二人は男の後を追った。
ルーメン大聖堂。
街の中心にそびえ立つ、巨大な建築。 天を突くような高い尖塔は、光の神の威光を示すもの。
だが——
「…やっぱり変だな。」
イクリが足を止める。
大聖堂の周囲にいる信徒たち。 その誰もが、"同じ笑み"を浮かべている。 まるで一つの型にはめられたように。
ユリウスも眉をひそめる。
すると——
「お前たちは…"見えている"のか?」
先ほどの男が、静かに呟いた。
「…何が?」
イクリが鋭く問い返す。
男は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして——
大聖堂の壁を指さす。
「"あれ"を、見ろ。」
イクリとユリウスは、男の示した壁を見上げた。
そして、息を呑む。
「…何だ、こりゃ…?」
壁には、影があった。
だが、それはただの"影"ではなかった。 それは、人の形をしていた。
——いや、正確には。
"壁に、人が埋まっていた"。
無数の手、足、顔。 壁の表面から、微かに浮き出るように、人々の形が刻まれていた。
「…っ。」
ユリウスは思わず剣を握りしめる。
イクリも、眉をひそめながら壁を見つめた。
「…これ、何だ?」
「素晴らしいだろう。これが
"祈り"の果て、だ。」
男は静かに答えた。
「この都では、人々は"光"を求め、より純粋であろうとする。……その結果、"神の一部"になったのだ。」
「……冗談だろ。」
イクリが低く呟いた。
「冗談などではない。」
男は微かに笑いながら、続けた。
「この大聖堂は……人々の"信仰"でできている。」
「そして、それを"受け入れさせる"のが、"光の意志"だ。」
イクリとユリウスは、沈黙した。
それは、"信仰"の果ての姿だった。
「…光ってのはよ。ほんと、ロクなもんじゃねぇな。」
イクリが呟く。
「…"正義"と"清らかさ"の名のもとに、こんなものを作ったのか。」
ユリウスも冷たく言った。
「光は、眩しすぎれば影を作る。…だが、ここはもう"影"すら許されない。」
男はそう言うと、静かに顔を上げた。
「——お前たちは、どうする?」
イクリは壁を見つめたまま、低く笑った。
「決まってんだろ。」
その時、どこからか声が響いた。
「——おやおやぁ? また興味深い話をしとるなぁ?」
時間が止まったかのように、男の動きが止まる。
イクリとユリウスは即座に振り返った。
黒い仮面。 紫と黒のローブ。
「……またテメェか。」
イクリが舌打ちする。
「お邪魔やったかな?」
アザリエは愉快そうに言いながら、大聖堂を見上げる。
「いやぁ、ほんま綺麗やなぁ。こんな"清らか"な世界、ワイにはとても真似できんわぁ?」
「…黙れ。」
ユリウスが冷たく言い放つ。
アザリエはくすくすと笑いながら、イクリに目を向けた。
「さぁて、お前さん。これで"闇"に足を踏み入れる気にはなったん?」
「…ほんとにくだらねぇな。」
イクリは鼻で笑った。
「どっちもクソだ。光も闇も、どいつもこいつも"勝手に決めつけて"、"勝手に動かそうとする。」
その言葉に、アザリエは目を細めた。
そして、仮面の奥で——にぃっと微笑む。
「——せやけどな。お前さんがどっちを選ぼうが、選ばなかろうが"あの御方"は、お前さんを迎えに来るで?」
「…っ!」
その瞬間、イクリの脳裏に——
"誰か"の声が、響いた気がした。
(イクリ…)
「…っ、誰だ…?」
イクリは思わず頭を押さえた。
「おっと?」
アザリエは一歩引き、満足そうに笑う。
「ま、今日はこれくらいにしといたるわ。」
ひらひらと手を振りながら、アザリエは霧のように消えた。
——時の流れが戻る。
イクリは息を吐き、頭を振った。
「…やっぱり、この街はクソだな。」
「…同感だ。」
ユリウスも冷たく答えた。
静寂が戻った聖都の片隅で、イクリとユリウスはしばし立ち尽くしていた。
「…チッ。やっぱ気に食わねぇ」
イクリが苛立たしげに吐き捨てる。
「何がだ?」
ユリウスが淡々と問いかけると、イクリは険しい目つきで聖堂の壁を見上げた。
「光とか、信仰とかよ。そういうもんに取り込まれて、好きに生きることすら許されねぇなんざ、冗談じゃねぇ」
「…確かにな」
ユリウスも目を細め、壁に刻まれた"人々の影"をじっと見つめた。
この街では、"信仰"がすべてを支配する。 祈りを捧げる者たちは皆、同じ笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返す。
それが果たして、本当に"幸せ"と呼べるものなのか。
「なあ、アンタ」
イクリが傍らの男に目を向けた。
「さっき、"光の意志"がどうとか言ってたな。…それってつまり、"ヘリオス"が望んだことなのか?」
「…それは、私にもわからない」
男は静かに首を振った。
「神の意志を代弁するのは、常に人間だ。そして人間は、己の信じるものを"正義"と定め、他を排除する……。それが、この都の"光"の形だ。」
「…それを押し付けるのが正義だ?くだらねぇな。」
イクリは鼻で笑い、荒々しく頭を掻いた。
「なあ、ユリウス。俺たち、こんなとこで何か探す意味あんのか?」
「…それは、お前が決めることだ」
ユリウスは淡々と答える。
「ここには、"何か"がある。それを知ることが、お前にとって無意味なら、去ればいい」
「…」
イクリはしばし無言になり、じっと聖堂を睨んだ。
ユリウスの言うとおりだった。 ここには"何か"がある。 だが、それが何なのかはまだ見えてこない。
「…もうちょい奥まで行ってみるか」
そう決めると、イクリは男の案内で聖堂の内部へと足を踏み入れた。
大聖堂の中は、外観以上に神聖な雰囲気を漂わせていた。
広大な礼拝堂の天井には、鮮やかなステンドグラスが並び、神々の姿が描かれている。 長椅子が整然と並び、祈りを捧げる者たちの沈黙が、より一層の静けさを作り出していた。
「…気味悪ぃな」
イクリは小さく呟いた。
「こんなに人がいんのに、誰一人、まともに喋っちゃいねぇ」
ユリウスは無言で頷く。
確かに、この場所には"人間らしい気配"が感じられなかった。
「こっちだ」
案内役の男は、礼拝堂を通り抜け、さらに奥へと二人を導いた。
やがて、たどり着いたのは小さな書庫のような部屋だった。
「ここは?」
「大聖堂に代々受け継がれてきた記録の間だ。…"光の歴史"が、すべて記されている」
男はそう言うと、一冊の古びた本を手に取った。
「…お前たちが探している答えが、ここにあるかもしれない」
そう言って男が本を開いた瞬間——
パァンッ!
突然、本が弾け飛んだ。
「っ!?」
ユリウスが即座に剣を抜き、イクリも戦闘態勢に入る。
部屋の中央に、"黒い霧"が渦巻いていた。
そして——
紫と黒のローブ、白い仮面。
アザリエが、まるで"ずっとそこにいた"かのように、軽やかに姿を現した。
「テメェ…!」
イクリが剣を抜こうとするのを、アザリエはひらひらと手を振って制した。
「まぁまぁ、そう殺気立たんといてや。ワイはただ、ちょーっと気になったんや」
「…何がだ?」
ユリウスが鋭く問い詰めると、アザリエは仮面の奥でくつくつと笑った。
「いやぁ、お前さんら、"知ってはいけないこと"に触れようとしとるなぁ、思てな?」
「…何?」
イクリの眉が跳ね上がる。
アザリエは軽く肩をすくめると、書棚の本を指先でなぞった。
「"光"の歴史、かぁ。これを読んだら、何がわかると思う?」
「…それは、俺たちが確かめる」
ユリウスが淡々と答えると、アザリエは仮面の奥でくすくすと笑った。
「まぁ、せいぜい頑張りぃな? せやけど——」
その瞬間、アザリエの指が"黒い霧"を弾いた。
途端に、書棚の本が次々と朽ち果てていく。
「っ!? 何を——!」
イクリが叫ぶ間もなく、数百年分の記録が、闇に飲み込まれていった。
「…ま、"触れてはいけないもの"ってのは、いつだってこういう運命や」
アザリエは愉快そうに言うと、ゆっくりと後ずさった。
「…じゃあな、イクリ・ルナロス。ワイはお前さんのこと、ほんま大好きやで?」
最後にそう囁くと、アザリエの姿は霧のように消えた。
——静寂。
「…チッ!」
イクリは忌々しげに舌打ちし、崩れ落ちた本の山を睨みつけた。
「…どうする?」
ユリウスが問いかける。
「決まってんだろ」
イクリは剣を握りしめた。
「まだ、終わりじゃねぇ」
アザリエの妨害が何を意味するのか。 本当に"知るべきではないもの"がここにあったのか。
崩れ落ちた本の山を前に、イクリはしばらく沈黙していた。 アザリエが消えた後も、部屋には黒い霧の余韻が漂っている。
「…チッ、あの野郎」
イクリは拳を握りしめ、忌々しげに呟いた。
「わざわざ邪魔しにきやがって、相変わらず気に食わねぇ」
「…だが、確信に近づいているということでもある」
ユリウスが低く言う。
「俺たちが何かを知ることを、"やつ"は嫌がっていた」
「…だな」
イクリは鼻を鳴らし、崩れた書物の中から、まだ読めそうな本を手に取った。
ページをめくると、そこには"光の神話"が綴られていた。
——"太陽神ヘリオスは、万物に光を与え、人々を導く存在である。"
——"しかし、かつて一人の魔神が、ヘリオスの光を奪い去った。"
「…?」
イクリの指が、一瞬止まる。
邪神——
「イクリ」
ユリウスが低い声で呼びかけた。
「お前の"母親"について、何か知っていることはあるか?」
「…何もねぇよ」
イクリは本を閉じ、乱暴に書棚へ投げ捨てた。
「俺が生まれた経緯も、親がどんな奴だったかも、全部知らねぇ」
「…そうか」
ユリウスはそれ以上は問わなかった。
ただ、アザリエの言葉が頭をよぎる。
——「お前さん、"母上"のことは覚えとるか?」
アザリエは、確実に何かを知っている。 そして、それを"あえて"伝えようとはしなかった。
(…まるで、こちらが気づくのを待っているかのように)
ユリウスは剣の柄を握りしめた。
「…行こう」
「おう」
イクリも立ち上がり、二人は書庫を後にした。
聖堂を出ると、外はすっかり夜になっていた。
聖都は昼と変わらず静かだったが、どこか空気が張り詰めている。
「…この街、やっぱり何かがおかしい」
イクリが唇を噛む。
「信仰が深すぎるだけじゃねぇ。まるで、"誰かに見張られてる"みてぇな……」
「……俺も同感だ」
ユリウスが目を細める。
まるで、"この街そのもの"が意思を持ち、二人の動向を監視しているような感覚。
「とりあえず、今夜はどこか宿を探そう。迂闊に動くのは危険だ」
「…わかった」
イクリは渋々頷き、二人は宿へと向かった。
だが、その背後では——
紫と黒のローブの影が、密かに二人を見送っていた。