第八話 囁く道化
戦いの痕跡もない、静かな道だった。
聖都を目指し、イクリとユリウスは歩き続けていた。
だが——
「…妙に静かすぎる」
イクリが足を止め、周囲を見渡す。
空は晴れているのに、まるで陰りが差したような違和感。
「…誰かいるな」
ユリウスも手を剣にかけた。
と、その時——
「おやおや、お二人さん、怖い顔しとるなぁ?」
陽気な言の葉が、風に乗って響いた。
不意に振り返ると、そこに立っていたのは紫と黒のローブを纏った男だった。
ローブの袖は地面をなぞるように揺れ、深く被ったフードの奥から覗くのは、黒い仮面。 仮面には、にぃっと歪んだ笑みが刻まれている。
「初めましてやなぁ、イクリ・ルナロス。ほんま、お前さんはええにゃんこ…いや、ええ"お方"や」
男は大仰に手を広げ、まるで崇拝するかのように頭を垂れた。
「……誰だ」
イクリが冷たく言うと、男はゆっくりと顔を上げた。
「ワイはアザリエ。"囁く道化" っちゅうもんや」
「道化ねぇ…」
イクリは胡散臭げに目を細める。
「おうおう、そんな睨まんといてや。ワイはただ、お前さんらに"会いに来た"だけやねん」
アザリエはひらひらと手を振ると、ふっとイクリに顔を寄せた。
「せやけど、ホンマええなぁ…。」
「…近い」
イクリは眉をひそめた。
「冷たいなぁ、そんな態度取らんでもええやないの?」
アザリエは愉快そうに笑いながら、イクリの肩に手を伸ばす——が。
シュッ——!
「おい、触るな」
ユリウスの剣が、鋭くアザリエの手を弾いた。
「ほぉ?」
アザリエは驚いたように目を細め、ユリウスを見やる。
「なんやなんや? 嫉妬かいな?」
「…は?」
「いやぁ、わかるでぇ〜? お前さんみたいな"硬派"な奴はな、大事なモンにちょっかいかけられると、妙にムズムズしてまうんや」
アザリエはクスクスと笑いながら、ユリウスを煽るように言った。
「違う。」
ユリウスはバッサリと否定する。
「ふーん、ほんなら、なんでそんなにワイのこと睨んどるんや?」
「…貴様が気に入らんだけだ。」
ユリウスは忌々しげにアザリエを睨みつける。
何故こんなにも無性に腹が立つのか?
ユリウス自身にも理由がわからなかった。 だが、イクリに馴れ馴れしくしてくるアザリエの態度が、とにかく腹立たしかった。
「はいはい、ツンケンした男はモテへんでぇ?」
アザリエは肩をすくめると、再びイクリに視線を向けた。
「それよりイクリ・ルナロス。お前さん、"母上"のことは覚えとるか?」
——その言葉に、イクリの表情が僅かに変わる。
「…何?」
「フフ、お前さんはまだ何も知らんのやろ? かわえぇなぁ、無知むちでなぁ。
…せやけどな、いずれわかる日が来る」
アザリエの声が、妙に甘ったるく響く。
「イクリ、お前さんは"選ばれし御方"や。せやから、"自分が何者か"を見誤ったらあかん」
「…言ってる意味がわかんねぇな」
「せやろなぁ。今は、わからんでもええ。けどな——」
アザリエは仮面の奥で笑う。
「"光"にばっかり目ぇ向けとると、ホンマの"闇"は見えへんで?」
イクリはその言葉に、思わず眉をひそめた。
「…?」
「フフ、まぁ、そのうちまた会おな?」
アザリエはひらひらと手を振り、くるりと踵を返すと、霧のように姿を消した。
——残されたのは、ただ冷たい夜風だけだった。
ユリウスは剣を収め、舌打ちする。
「変な奴だったな……」
「酷く胡散臭い奴だ、なにより…」
「なにより?」
「…なんでもない。」
ユリウスは誤魔化すように前を向いた。
(…奴は何なんだ? なぜこんなに感情がコントロールできない?)
心の中で呟きながら、ユリウスは一歩を踏み出した。
イクリもその後を追い、歩き出した。
遠くに見える白亜の城壁。 そびえ立つ大聖堂の塔は、眩い陽光を受けて輝いている。
イクリとユリウスは、その聖都の門の前に立っていた。
「……やっと着いたか。」
イクリが腕を回しながら、大きく息を吐く。
「…だが、歓迎されるとは思えないな。」
ユリウスは冷静に言いながら、城壁の上に立つ兵士たちを見上げた。
「おい、そこの二人!」
門番の兵士がこちらに目を向ける。
「旅の者か?」
「ああ。」
ユリウスが淡々と答えると、兵士はじろりとイクリの姿を見た。
「…妙に目立つな。」
青の髪と、夜でも輝く深い金の瞳。 旅人にしては特徴的すぎる。
「うっせぇな、生まれつきだ。」
イクリは面倒くさそうに言いながら、肩をすくめる。
「通行証明は?」
「持ってねぇよ。」
「…なら、"審問官"の許可を取れ。今は城壁内の広場で視察しているはずだ。」
「へぇへぇ、めんどくせぇな。」
イクリはぼやきながら、ユリウスと共に門をくぐった。
城門を越えた瞬間、周囲の空気が変わった。
整然とした白と金の街並み。 静かに祈りを捧げる人々。 どこからか聞こえる賛美の歌。
「…クソ息苦しい街だな。」
イクリがぼそっと呟く。
「整いすぎている。違和感があるな。」
ユリウスも淡々と答えながら、慎重に辺りを見回す。
「まぁな。こういう場所こそ、裏じゃ汚ぇことしてんだろうよ。」
イクリが鼻を鳴らした。
広場の中心には、白銀の鎧をまとった男が立っていた。
「……あいつが"審問官"か?」
「可能性は高いな。」
ユリウスが鋭く視線を向ける。
「あんまり長居したくねぇな……お前はどうする?」
イクリがユリウスを見上げる。
「先に話をつける。お前は……勝手なことをするなよ。」
「へいへい。」
イクリは軽く手を振り、その場を離れた。
イクリはしばらく街を歩いていた。
聖都の整然とした街並みは、どこか無機質だった。 祈る人々の表情も、妙に一様で、感情が見えない。
「…気味悪ぃな。」
イクリがぼやいた、その時だった。
「ほんまになぁ?」
突然、耳元で囁く声。
「…っ!」
イクリは即座に振り向き、拳を構えた。
「おっと、物騒やなぁ?」
紫と黒のローブを纏い、白い仮面をつけた男——アザリエがそこにいた。
「…またテメェか。」
イクリは警戒を解かずに言う。
「そんな怖い顔せんといてや。ワイはただ、お前さんの顔を見たかっただけや。」
「…気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ。」
イクリは舌打ちしながら、アザリエから距離を取る。
「冷たいなぁ。せやけど、お前さん…少し変わったな?」
「…?」
「目や。前に見た時より、"迷い"が減っとる。」
アザリエは仮面の奥で微笑む。
「そんでな、お前さん。"光"と"闇"、どっちが正しいと思う?」
「…んだよいきなり、くだらねぇな。」
イクリは鼻で笑った。
「どっちもクソだろ。勝手に世界を決めつけて、都合よく動かそうとしてるだけじゃねぇか。」
「ふふ、それはええ答えや。」
アザリエは満足そうに頷いた。
「お前さん、やっぱり"ええ"わ。」
アザリエがイクリに手を伸ばす——その瞬間。
シュッ——
鋭い音が響き、アザリエの腕が弾かれた。
「おい、触るな。」
冷たい声とともに、ユリウスが現れた。
「おやおや、また嫉妬かいな?」
アザリエはくすくすと笑う。
ユリウスは忌々しげに睨みつける。
「ええやん、仲良しさんやなぁ?」
アザリエは肩をすくめると、仮面の奥で微笑んだ。
「お前さんら、ええ関係やんか。
せやけど…"永遠"なんて存在せぇへんで?」
その言葉を最後に、アザリエはまた霧のように姿を消した。
——残されたのは、異様に冷たい空気だけだった。
「…胡散臭ぇ野郎だな、ほんと…」
イクリはぶっきらぼうに言い、前を向く。
ユリウスも無言のまま歩き出した。
——聖都は、何かがおかしい。