第十一話 静寂の檻
風が、低く唸るように吹き抜ける山道。
聖都を後にしながら、イクリとユリウスの足取りはわずかに遅くなっていた。
「…で、本当に行くのか? 廃都に」
イクリが前を歩きながらぼやく。
「そうするしかない。あの本に書いてあった"西の祠"、その座標が廃都と一致した」
ユリウスの声は淡々としていたが、奥にある焦燥は隠せなかった。
アザリア、恐らく敢えて残した奇妙な本。
そして、イクリにだけ注がれる、あの得体の知れない執着。
それを無視できるほど、旅は穏やかではなかった。
「なんか気に食わねぇんだよな、あいつの言うことに乗っかるの」
イクリは唇を噛む。
「けど、他に手がかりもねぇ。だったら行くしかねぇよな」
「…それに」
ユリウスは、ふと歩を緩めた。
「お前が、あの時…俺を助けてくれたこと。あれを無駄にしたくない」
「はぁ?」
イクリは振り返り、目を見開く。
「お前、そんな殊勝なこと言えるキャラだったか?」
「言う必要があると思っただけだ」
ユリウスは目を逸らす。イクリは一瞬驚いたように沈黙し、そしてすぐに破顔する。
「…ははっ、どの口が言ってんだか。けど、ちょっとだけ嬉しいぜ」
その笑顔は、どこか少しだけ寂しげだった。
廃都〈レゼルナ〉――かつては聖都の外郭都市として栄えたその街は、今や地図からも名を消された呪われた地とされている。
「おい…なんだこれ」
街へ続く石畳は、途中でねじ曲がり、崩落した建物の破片に埋もれていた。
風の音すら吸い込まれそうな静寂の中、二人は慎重に廃墟の中へ踏み入る。
「ここが…神の祠、だった場所か」
ユリウスが崩れかけた祭壇の前で足を止めた。
祭壇には、半壊した神像が残っていた。両の手を広げるように伸ばした女神像。しかし、その顔は削り取られ、誰の目も受け入れようとはしていない。
「…おい、なんか聞こえねぇか」
イクリが眉をひそめる。
その時だった。
ギィ…という鈍い音とともに、床が僅かに揺れた。
「下か…!」
ユリウスが素早く剣を抜く。
同時に、祭壇の後ろ――暗い地下へ続く階段が、姿を現した。
「行くしかねぇな」
イクリが唇を噛み、階段を見下ろす。
ユリウスは頷き、無言で後に続いた。
*
地下の空気は、凍てつくように冷たい。
かつては祈りの場であったであろう地下聖堂は、今では黒い染みに蝕まれていた。
「…誰か来るぞ」
ユリウスが足を止めた、その直後。
「よく来たな、"選ばれし者たち"よ」
暗闇から響く、滑るような声。
そこに現れたのは、黒と赤の法衣を纏う奇妙な存在だった。顔はフードで覆われているが、その腕は人のものではない。細長く、関節が不自然に曲がっている。
「歓迎しよう。ここは"境界"…光と闇の、狭間だ」
「…何者だ」
ユリウスが剣を構えると、男はかすれた笑い声を上げた。
「我らは見届け人。かつて神を信じ、現世は神に見捨てられた者…だが、貴方達は違う。あぁ…妬ましい…嫉ましいぞ…!」
「何言ってんだ、こいつ…!」
イクリが一歩踏み出した瞬間、周囲の影が揺らめき、生きているかのように立ち上がった。
「くるぞ!」
ユリウスの叫びと同時に、影の魔物たちが襲いかかる。
―混戦だった。
数では圧倒的に敵が多く、動きは風のように素早い。イクリは拳を閃かせて何体も打ち倒し、ユリウスは剣の一閃で影を切り裂いた。
だが、影は次々に蘇る。
「キリがねぇ!」
イクリが肩で息をしながら叫んだ。
その時、不意に背後から襲いかかってきた魔物がユリウスに迫る。
「…ッ!」
気づいた時には遅かった。
「ユリウス!!」
咄嗟に、イクリの身体がユリウスの前に飛び込む。
鈍い衝撃。イクリの肩を、影の爪が抉った。
「っ、クソッ……!」
ユリウスが即座に魔物を斬り伏せ、イクリを抱えるように引き寄せた。
「動くな!」
「…悪ぃ。とっさに、身体が…。」
イクリの呼吸は荒い。だが、表情にはどこか安堵の色があった。
「…バカが。なぜ…」
「知らねぇよ、オレだって……。けど、気づいたら、勝手に体が動いてた」
イクリの目がユリウスを見つめる。
「お前が死ぬのだけは、どうしても…嫌だったんだ」
ユリウスは目を見開き、しかし言葉を返せなかった。
二人の間に静けさが流れる。
その一瞬が、たまらなく永く感じられた。
——そして。
「…立てるか」
「…ああ。情けねぇけどな」
ユリウスは無言でイクリの腕を取った。イクリは少し驚いたように目を見開き、照れたように視線を逸らす。
「…ありがとよ。」
「礼は、生き延びてから言え」
その言葉に、イクリは笑みを浮かべた。
「だな」
二人は再び剣を取り、残る敵に向き直った。
戦いが終わった後の地下に広がる迷宮は、時間が止まったように静まりかえっていた。
瓦礫と化した柱、崩れた聖堂の天蓋、そして剥き出しの魔術回路が床を走る。かつて神を祀っていたとは思えないほど、冷たく、陰鬱な気配に満ちている。
「空気が…重いな」 ユリウスが低く呟いた。
「なんか嫌な感じするよな…地の底に溜まった、腐った魔力って感じ」 イクリも鼻を鳴らして言うが、どこか警戒心が強まっているのが見て取れる。
聖都の情報によれば、この廃都の地下には“古の大魔術式”の残響があると言われていた。 それを探りに来たはずだった。だが、今、この空間に漂う圧はただならぬものだ。
ユリウスは一歩踏み出し、足元の魔術文字を見下ろす。「これ…まだ生きてる。誰かが封印を維持してるか、あるいは…」
そのとき——
ズン…という低い振動が床下から響いた。 次の瞬間、地下の壁の一部が崩れ、中から異形の影が姿を現した。
「…また出たな」 イクリがすぐさま短剣を抜く。
だが、戦いの最中、イクリの右腕が突然焼けるように疼いた。
「っ、あ゛っ…!?」
ユリウスが気づいて振り返ると、イクリの右腕に、黒と赤の入り混じった刺青のような紋様が浮かび上がっていた。
「イクリ、腕が…!」
「クソっ」 痛みに顔を歪めながらも、イクリは攻撃の手を緩めない。
二人で連携し、襲いかかってくる魔物たちを退けていくが、イクリの動きにどこか不安定さが混じり始める。力は増している——だが、それが彼自身のものではないような、奇妙な違和感を伴っていた。
戦いの終わりと同時に、イクリは膝をつく。
「っは、っは…な、なんなんだよコレ…!」 彼の右腕の紋様は、脈を打ちながら、じわじわと広がっていた。血のように。
「大丈夫か?」 ユリウスが駆け寄り、腕に触れようとするが——
「触んな!」 イクリはとっさに叫び、ユリウスの手を弾く。
だがすぐに、その態度に後悔するように、目を伏せて唇を噛んだ。
「…悪ぃ。ちょっと、混乱してるだけだ。」
ユリウスは静かに頷くと、隣に腰を下ろした。
「その紋様…あの呪詛士に受けた術の影響か」
「たぶん…けど、なんか、術って感じじゃねぇんだ。体の中に入り込んで…オレの何かを、食ってるみてぇな感覚がある」 イクリは、自分の腕を睨むように見つめる。
「…もし、オレがこのままおかしくなったら」
「そのときは、俺が止める」 ユリウスの声は、いつものように淡々としていたが、不思議と温かさがあった。
「…ちっ、やっぱお前、ズルいな」 イクリは肩をすくめるように笑う。
その笑顔の裏に、不安と恐れを押し隠していたことを、ユリウスは察していた。
だが今は、ただ隣にいることだけが、イクリにとっての救いだった。
暫しの休息の後、二人は薄暗い地下回廊に足を運んでいた。
石壁に刻まれた無数の傷跡と、崩れかけた柱が本から抹消された、この地の過去の惨状を物語っている気がした。
「…ユリウス、大丈夫か?」
ふと立ち止まったイクリが、後ろを振り返る。声には、わずかに震えが混じっていた。
「おまえこそ、無理してないか。」
そう返したユリウスの視線は、イクリの左腕に向いていた。
「今は痛みもねぇし、別にどうってことねぇよ」
笑って見せたが、その表情はどこか曇っていた。
「イクリ。俺は術者じゃないが、あれはただの傷じゃない。力が、漏れているように見える」
「うっせぇな。オレは大丈夫だっつってんだろ」
語気を強めてしまった自分に、イクリは舌打ちして目を逸らした。どこか苛立つように、壁に拳をぶつける。
ユリウスはイクリの背を見つめながら、ただ黙っていた。
奥へ進むごとに、空気が変わっていった。湿り気を含んだ風が、どこからともなく吹いてくる。
「見ろ…通路が、分かれている」
分岐した先の一つは崩落していて、もう一方は古い石門が閉ざしていた。
「こっち、開けてみるか」
イクリが手をかけると、石門はギィと低い音を立てて開いた。中には、小さな祭壇のようなものがあり、中央に立つ石像が二人を迎えていた。
それは、翼をもった人の姿だった。だが顔は削られ、何かを封じるように額に古代文字が彫られている。
「…これ、なぁ」
イクリが祭壇に近づこうとした瞬間、彼の足元が光った。
「っ!? イクリ、動くな!」
「えっ、何だよこれ――!」
青白い光が地面から駆け上がり、彼の身体を包み込んだ。ユリウスが駆け寄ろうとしたが、見えない力が彼の進行を遮った。
イクリの体に刻まれた紋様が、禍々しく輝きを増していく。まるで何かに呼応しているかのように。
「クソッ、何なんだよ、これ…! 熱ぃ……頭の奥が、ざわざわする…っ!」
イクリの足元に走る魔方陣が、一瞬だけ明滅した。
その時、異様な沈黙が辺りを支配した。
力の渦が止まり、イクリが崩れ落ちる。
ユリウスは駆け寄り、彼の身体を抱き起こした。熱い。彼の体温は、明らかに常軌を逸している。
「イクリ…! しっかりしろ!」
「へへ…お前に抱きしめられるなんてな…悪くねぇ…」
弱々しい声。けれど、その笑みに、確かに生きている気配があった。
ユリウスは無言で額に触れた。汗が噴き出し、体は震えている。それでも、無理に笑おうとするイクリに、何も言えなかった。
しばらくして、魔方陣の痕跡が消え、空気が落ち着いた。イクリは地面に横たわったまま、小さく呟く。
「なぁ、ユリウス。おれさ、いつか……どうしようもねぇもんに、なる気がすんだよ」
「何を言ってる」
「今日もさ…変な力出た時、お前が怪我してたら、多分オレ、止まれなかった」
「…だが、止まっただろう。」
「怖ぇんだよ」
イクリの拳が、ユリウスの服の端をぎゅっと握る。
「…けど、今のオレがどうであろうと、ここにいるのはオレだ。だからさ…」
「だから?」
「…オレがオレでいられる間は、お前の隣にいていいか?」
ユリウスは一拍遅れて、静かに言った。
「ああ。俺も、そのつもりだ」
言葉は短く、けれど迷いのないものだった。
数刻の休息を取り、ふたりは再び地下の奥へと歩き出した。 そのとき、ふと、どこかで小さな笑い声が響いたような気がした。
「…なぁ、今、誰か笑ったか?」
だが、二人が見ぬ天井の奥――そこには仮面を被った道化の姿がある。 アザリエはくすくすと笑いながら、仮面の奥で囁いた。
「…ほんま、ええもん見せてもろたわぁ…。もっと、もっと見せてな?」
そして、音もなく闇に溶ける。
ふたりの旅路は、深く、なおも続いていく。