第一話 異端の名を持つ者
夜に包まれた街に、雨が降りそうだった。 灰色の雲が月を覆い隠し、灯火の揺れる路地には、酒と血の匂いが漂っている。
イクリ・ルナロスは、薄汚れた石畳に腰を下ろし、煙草に火をつけた。湿った空気のせいで、思うように火がつかない。
「チッ、クソが」
火の魔力を指先に込め、燐光を灯す。煙草の先が赤く燃え、安っぽい紫煙が夜に溶けていく。
異端や半端者ばかりが集まり、利用し利用されているこの街で、生き残るのは簡単ではない。必須なのは、剣を振るう腕と、後ろを振り返らない胆力。
イクリはここじゃそこそこ名を馳せた何でも屋だったから、金さえ積まれれば何でも請負う。
だが、今夜の依頼人は少しばかり厄介だった。
「お前が、『イクリ・ルナロス』か」
遂に降り出した雨音の中、はっきりとした声が響く。
イクリは目を細め、声の主を見上げた。
純白の衣を纏った男。まるで整えられた彫像のような容姿。鋭い青碧の瞳に、微塵の迷いもない。
あー、オレ多分コイツの名前知ってる。
たしか…
ユリウス・エリシア 謎が深い、だが有名な"異端狩り"の名を持つ男。
イクリは煙を吐き出し、乾いた笑みを浮かべた。
「…ああ、オレが『月下の狂犬』で間違いはねぇケド…。てかアンタそんなとこ立ってると濡れんぜ、高そうな服なのによー?」
「御託は良い。」
「じゃあ何?
俺を狩りに来たのか、それとも利用する気か?」
ユリウスは微かに眉を寄せたが、すぐに冷たい口調で告げる。
「仕事を依頼したい」
イクリは笑みを消し、目を細めた。聖職者が、自分のような『異端』に仕事を依頼する?
己の細めた目と口角が吊り上がるのを感じる。
「…おもしろそーじゃん。」
それが、イクリの運命を大きく変える旅の始まりとも知らずに。
イクリは紫煙を燻らせながら、目の前の男を再度品定めするように見つめた。
ユリウス・エリシア
高位聖職者でありながら、戦場に立つ"剣"の異名を持つ男。異端狩りとして名を馳せ、『秩序の守護者』と称えられている。
そんな男が、異端である自分に仕事を頼む?
ふざけた話だ。
「…オレを雇う? あんた、冗談言うタイプか?」
イクリは皮肉げに笑う。
「聖職者様が、異端と手を組むなんざ、聖都じゃお偉いさんに殺されるんじゃねぇの?」
ユリウスの表情は微動だにしない。
「貴様に選択肢はない。受けろ」
「は?」
「報酬は弾む。お前にとっても悪い話ではないはずだ」
まるで命令だ。
イクリは煙草を指で弾き、濡れた石畳に落とす。ジュッと小さな音がした。
「…オレに選択肢がねぇ? どの口が言ってんだ、聖職者様よ」
イクリは立ち上がり、ユリウスと真正面から向き合う。
距離は一歩分。剣を抜くには十分な間合い。
「オレを買いたきゃ、理由ぐらい言えよ」
低く、鋭い声。まるで牙を剥く獣のような眼光。
だが、ユリウスは怯むどころか、淡々と告げた。
「お前を"異端"と認めた上で、利用する。それが最善だからだ」
「…最善ねぇ」
「貴様には、『日食の日』に生まれた月の子だけが持つ力があると聞いた。
そして、それが必要なのだ。"太陽の神の復活"を止めるために」
『太陽の神の復活』
その言葉に、イクリは眉をひそめた。
「太陽の神だぁ?」
「聖教会の上層部は、"均衡を正す"という名目で、太陽の神・ヘリオスを復活させようとしている。」「だが、それが実現すれば、世界は"光のみ"となり、闇は一切許されなくなる。」
イクリは乾いた笑みを浮かべる。
「お前だけでは済まない、だからこそ此処に来た。」
「ほーん、オレに手を貸せって? お前さん、命惜しくねぇのか?」
「…人間の力は『足掻くこと』にある。俺は、俺のやり方で抗う。俺が、止めて見せる。」
ユリウスの眼は真っ直ぐだった。
冷たく理知的でありながら、そこには確かな"意志"があった。
イクリは短く息をつき、肩をすくめる。
「…面白ぇ。いいぜ、乗ってやる」
手を差し出すイクリ。
ユリウスは一瞬だけその手を見つめ、迷いなく握り返した。
その瞬間—イクリの中で、何かが変わる音がした。