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ガムテープで後ろ手に縛られて、目隠しをされ、タオルを嚙まされている。ちらりと見えたのは運転手と、助手席、それからアタシの隣に一人。みんな男。誘拐だ。
車はどこかに向かっている。こいつらがやろうとしていることはなんとなく分かる。人気のないところに行こうとしているんだろう。
初めての経験なのに、頭は意外と冷静だ。投げやりになっているに違いない。妙な遊びに付き合って、観測会はオジャンになって、ナツメたちの修羅場に参戦して、極めつけは誘拐だ。よく考えたら、この夏に良いことなんて一つもないじゃない。
目隠しをされて15分か20分か。急な上り坂になった。さっきから誰も無駄なおしゃべりをしようとしない。隣の男から少しでも離れようと、アタシは身を捩った。
突然、体勢ががくんと崩され、身体が前の座席にぶつかった。さるぐつわをされたアタシの代わりにタイヤが甲高い悲鳴を上げ、終わり際にドスンとした衝撃。
「うっ」
男の誰かが呻いた。何かが空転するような、ゆるゆるとしたエンジン音。車内の誰もが微動だにしていない、そんな気がした。
何か、何か轢いたんだ。人?
「おい、見てみるぞ」
囁くような声に続いて、運転席の扉が開く音。湿った空気の匂いが車内に流れ込んできた。
「おい、いたよな?」
「いた、と思うけど……」
もはや小声ではない。動転しているような、いかにも焦りを感じるような口調とともに、足音が車の周りをうろついている。その時、運転席の方からブーッブーッと音が聞こえた。電話だ。隣の男が手を伸ばしたのか、衣擦れの音が聞こえた。
「はい、お疲れさまです。……はい、……はい」
男は妙にはきはきと返事をしていた。電話の主は目上の相手なんだろう。アタシがいるからか、何の固有名詞も口にしない。電話は手短に切れて、それに合わせるかのように右側に車体が沈んだ。
「なんだって?」
「……オヤジ。すぐに来いって」
「まじかよ、クッソ。今からだってのに」
まさか3人兄弟というわけではないだろう。やってることといい、どうもアウトローの匂いがする。
「女は?連れてく?」
「ばか!そんなことしてみろ!殺されるに決まってんだろ!」
「顔は見られてねーから、この辺で下ろせよ。面倒だし」
「……よっしゃ」
同意する低い声に合わせて、アタシの腕は隣の男に強く掴まれた。
良かった、解放される。足が縛られていないのは不幸中の幸いだった。手を縛ってるガムテープくらいなら、どこかその辺の出っ張りに引っかけてやればすぐに切れそうだ。
アタシは放られるように車から降ろされた。怯えたようにその場でうずくまる。無力な小娘を装った方が安全な気がする。別れ際に文句の一つも言ってやろうとも思ったが、せっかく無傷で助かったのにわざわざ挑発することもない。
無言のまま、車のドアが閉まる音がした。
絶望感は急にやって来る。目隠しの恐怖に加えて、旅行のバスに置いて行かれるような寂しさと不安。車がバックしている音がする。タイヤが砂粒を潰す音。アクセルが吹かされた。人の気配が去ろうとしている。
呻きながら立ち上がると同時に、エンジン音が小さくなっていく。それに反して静けさが大きくなってきた。
もう一度しゃがみ込む。安全だと分かる場所はここ以外ないんだ。後ろに回った手の指先で地面を探った。何かの破片、釘とかでも良い。必死で探した。車の音も、風の音すらしない。街中から離れたところに下ろされていたことは確かだった。心臓がうるさいくらい鳴っているのに、身体をゆっくり通り抜ける空気の流れははっきりと感じた。
ふと、指先に触れた。手の中でひとしきり形を確認して、10センチくらいの木の枝みたいなものだと分かった。それを後ろ手のガムテープと地面の間でつっかえ棒みたいにして、そのまま腰を下ろす。焦って体重をかけると棒が倒れて、何度か失敗した。こんなことをしている間に、得体の知れない何かがどこからかアタシを見つめているような気がしてくる。奥歯を嚙み締めた。
何度目かの失敗の後。泣きたくなるような気持ちを騙して真っ直ぐ体重をかけると、ビッと穴の開いた音がした。やった。方向を変えながら両手を力一杯捩じっていく。少しずつ裂け目が大きくなっていく。片手を抜いた。目隠しを外した。タオルを嚙まされていたのも忘れて、口の中で呟いた。
「……どこ?」
どうりで何の音もしないはずだ。街の灯りか月明りか、ぼんやり青白いアスファルトの道を挟んで、目の前は雑木の森。左を向けば街灯もない暗い道路が闇に向かって伸びており、右を向けば照明もない古びたトンネルが禍々しい大きな口を開けていた。
道はトンネルに向かって下っており、帰るということはそこを通り抜けるということだった。恐る恐る中を覗き込む。出口が見えない。肝試しじゃあるまいし、夜中に一人で突入するものではないだろう。
明るくなるまでこの場に留まることも考えた。だけどそれはそれで、トンネルの中から今にも何かが這い出してきそうな気がする。
私は上りを選んだ。トンネルの大きな穴が怖かった。歩いては振り返る。怖い。また歩いて振り返る。まだ怖い。
四つん這いの老婆、首のないバイク乗り、赤いワンピースの女。今まで聞いて鼻で笑っていた怪談が、なぜか頭の中に次々と浮かんでくる。自分の浅い息遣いすら恐怖の対象だった。振り返る。まだ20メートルくらいしか進んでいないのに、さっきまで自分が居た場所がひどく恐ろしく感じる。ようやく思い出したスマホは、車に連れ込まれる時に奪われたか落としたか。
「おーい、おーい」
反響するようなくぐもった声。トンネルの中から聞こえた。
膝がかくんと折れた。へたり込んだ後で、首筋をなぞられるようなぞわぞわとした感じが頭のてっぺんまで突き抜けた。
「おーい、おーい」
声と一緒に何かがキイキイ鳴っている。
「おーい、おーい」
キイキイ。
軋むような音が大きくなる。
立たなきゃ。力の入れ方が分からない。どうやれば。
這いつくばって、地面に置いた両手を引き寄せる。こんなんじゃ逃げられない。
キイキイ。
キイキイ。
声も出ない。助けは来ない。誰か――。
「大丈夫っ?」
聞き慣れた声。恐る恐る後ろを見上げる。
自転車のタイヤ、短パンにTシャツ姿がアタシを見下ろしていた。