さようならはコーヒーとともに。
彼が愛した人のためにできた最後のことは。
「もう、終わりにしよう。」
薄暗い店内のたった二人のお客様が今、他人になろうとしていた。
「元から譲れないものがある。それを分かった上の関係だっただろ。」
この町には2つの敵対する組織がある。
組織のメンバーが今、店内の様子を見たら自らの脳が作り出した幻想だと思うだろう。
「…それでもいいと思ってた。でも、上に立つ者としての覚悟がそれじゃ足りなかった。本当は分かってる癖に。」
この場にいるのはその敵対する組織のトップ二人と私だけだ。
「…じゃあ、どうすれば良かったんだよ。あの時手を取ったのはお前だろ?」
毎週火曜日は定休日だ。私がこの店で火曜日に二人以外のためにコーヒーを淹れることはない。今までも、この先も。
「…うん。だから自分の責任は自分でとる。終わりも、自分で決める。」
この店は火曜日だけ、本来交わらないはずの二人が恋人として過ごせる場だった。
「じゃあ、もう行くから。」
立ち上がり、コートを羽織る。その一挙手一投足に覚悟を見た。彼はソファーに深く腰かけたまま動こうとしなかった。
「あー、それから。」
歩みを止め、振り返る。彼はゆっくりと顔をあげた。
「そうやって、すぐ人のせいにするところ、変えられなかった。それだけは…ごめん。」
少しだけ唇が震えたように見えた。
「マスターもお元気…。いや、さようなら。」
いつも通り、裏口から出ていく姿を見送った。最後に一瞬揺らいだ目は迷子の子供のようだった。
組織のために生きている人だった。いや、組織に生かされている人、というのが正しいのかもしれない。駒のように人々を操りながら、その実、組織という大衆の操り人形だと、自嘲気味に話していたのはいつのことだったか。
互いに譲れない信条がある。それでもどうしようもなく惹かれあってしまった。無理矢理絡ませた糸は完全に切るしか術は残されていなかった。
「おかわりをどうぞ。」
最後のお客様の前に新しいコーヒーを置く。
さて。立ち上がり、ゆっくりと準備に取り掛かる。
いつも通り丁寧に。使った器具を洗い、店内のテーブルを全て拭き、床をほうきで掃く。
いつもと同じ店仕舞いだ。
「ごちそうさま。」
静かな店内では小さな声でもよく通った。
カップを下げ他の食器とともに乾燥機にかける。
便利な世の中になった。
さて。
「お待たせしました。」
最期の仕事だ。
彼の前に立つ。
この町でも当然銃の所持は禁止されている。だが、持っている人間がいないというわけではない。
射殺体が見つかっても犯人を特定はできないほど、当たり前に蔓延っている。
「悪いな、マスター。」
ゆっくりと銃口をこちらに構えられた。
逆光で彼の顔は見えない。
「何か、言い残したこととか、やり残したことはあるか?」
彼の声は早朝の湖面のように静かだった。
命乞いが無駄なことは分かっていた。完全に糸を断ち切るのなら、私という存在は消さなければならない。言うなればこれ行為は彼なりの最後の愛情表現なのだろう。
「何もありません。元々この10年がアディショナルタイムでしたから。」
本来既に死んでるはずだった私を10年も生かしてくれた。それだけで十分だった。
だから、私は正しく準備をしたのだ。
「あぁ。でも、もし良かったら明日の仕込みのためにチーズを買ってきてくれたら嬉しいです。あなたのお好きなチーズケーキをお作りしますよ。」
そう言って笑ってみせる。このくらいのジョークは許されるだろう。
「ああ、わかった。」
彼が笑ってくれたか確認する間もないまま店内に3回銃声が響いた。
衝撃で後ろに倒れこむ。
銃弾はきっと私に3つの穴をあけたのだろう。脳が拒否しているのかまだ痛みは感じない。
だが、確実に温かい何かが服に染みていくのはか分かった。
足音が遠ざかっていく。ドアベルが静かな店内に響いた。
───私の人生にやり残したことはない。
しかし唯一後悔があるとするなら、コーヒーの香りとこの店のマスターだったものの匂いが満ちたこの場所から離れる彼が、どんな目をしていたのか、それを私は知ることができないことだ。
マスターは彼に命を救われた過去がありました。しかし逃げなかったのはそのためではなく、「喫茶店の主人としての矜持」のためでした。




