選手生命
夏休みが終わると、水野コーチはさらに厳しくなった。放課後の四時から六時までの二時間、足が絡まりそうな難しいステップを延々と練習させられることもある。振りと振りの間の余白でさえも見せ場にしろと言うが、基本のステップもままならない理央には、外国語にしか聞こえなかった。
「理央、もっと大きく動いて!」
「はい!」
大きな声で返事をしたものの、それ以上大きくと言われてもできないほど動いているつもりだった。何が足りないんだろう。どうすれば先輩たちのようにできるんだろう。コーチはそれを自分で見つけろと言わんばかりに、何も語らない。それとも自分はもう見放されているのだろうか。すでに十人に減ってしまったダンス部の一年生で、来年の大会に出られるのはきっと自分ではない。そんなネガティブな思考ばかりが頭の中を占めている。
「文化祭でデビューするまでに、今やってるステップは全部マスターしてよ!半年も経ったら、もう初心者とは言えないんだから」
あと一ヶ月で半年になるのか。確かに、その時間自体は長かった気がする。それなのに、まだあのダンス教室の小学生にも追いつけていない現状が情けなかった。九月から真央の送り迎えは母親に代わり、あれから一度もあのダンス教室には行っていない。理央がこうして足踏みしている間にも、あの子たちはどんどん上手くなっていくのだろう。理央は初めて柊翔に会った日、素直にステップを見てもらわなかったことを、今になって後悔していた。もしあの時、自分の下手なステップに何かアドバイスをもらっていたら、今はもう少し前に進んでいたかもしれないから。
『高校生のくせにヘッタクソだな』
そう言われるのが怖かった。彼の風貌がそう誤解させたにしても、臆病すぎた。一歩前に出たいなら、後先考えるな。その言葉はまさに、理央のためにあるような気がした。
そうこうしているうちに、十一月の末にある文化祭で発表する曲が決まり、フォーメーションが組まれた。ただの発表会ということで、誰かが急に出られなくなったとしても問題ないからと、ダンス部員全員でのパフォーマンスだ。当然のことだが、上手なメンバーほどセンター寄り、下手なメンバーほど端に配置される。全員では舞台が狭すぎるため、二チームに分けて、入れ替えでダンスを披露する計画で、理央の位置は後ろ列の端から二番目。不本意だけれど、自分の実力からしたら納得せざるを得ない。しかし、ルリがの二年生と同じ前列に混じっていることは、その評価が一年の中で最も高い証拠。自分との差が歴然としてしまって、もう嫉妬する気にもなれなかった。
気分が晴れない理央だったが、意外にもルリの表情が暗いことに気づいて首を傾げた。普段からあまり友達とも話さず、笑顔でいることの方が少ないルリではあるが、今日の沈んだ様子は気になる。理央は思い切って声をかけた。
「ルリ、駅まで一緒に帰ろう」
理央の声にハッとしたように顔を上げ、取り繕うように小さな笑みを返す。とうとういつものコンビニで涙を零した時、理央はそのわけがわかったような気がしたが、
「…何かあった?」
なんでもない、と答えると思っていた。しかしルリは泣きながら頷いた。
「柊翔が、足怪我して…もう踊れないかも知れないって、」
「え…」
全く予想していなかった答えに、理央も言葉を失う。柊翔と別れた、と聞こえるはずだった。
「なんで?なんでこんな目にあわなきゃいけないの?何も悪いことしてないのに、」
柊翔はあのショッピングモールの前の横断歩道で、子供がバイクと接触しそうになったのを庇って、足にひどい怪我を負ったらしい。複雑骨折の上に靭帯が切れていて、元通りになるかどうかはわからないという。
「大丈夫、かも知れないんだよね。まだ分からないんだから、」
必死に絞り出した理央の言葉に、ルリはただ泣きながら頷く。練習で体を酷使したことによる怪我で早くに選手生命を絶たれるというような話はよく聞くが、事故で突然才能を奪われるなんて。
「…柊翔、さんって、いくつ?」
ルリが落ち着きを取り戻してきて、理央もようやく口を開いた。彼のことを何と呼んだらいいのか分からないことに初めて気がつく。
「二十二だよ。年の差カップルでしょ」
理央の行動範囲にはいない年齢の人間だ。どうやって知り合ったのか、ずっと気になっていた。
「電車で立ってたら隣にきて、うわ、チャラそう、って思ってたら急に座り込んじゃって」
誰かの誕生日パーティで飲みすぎて気分が悪くなってしまった彼を、ルリが助けたのがきっかけだと話した。その時のことを思い出したのか、ルリは小さく吹き出し、
「すっごく酔っ払っててね、当時の彼女と間違えて甘えてきたんだよ。見た目あんな感じだから、ギャップがなんか可愛かった」
普通なら見ず知らずの男性に抱きつかれたら警察沙汰になってもおかしくないのに、全く嫌悪感を抱かなかったらしい。それは同性である理央にも理解できる気がした。初めて会った日、気安く話しかけられても、少しも嫌な感じはしなかった。彼の不思議なところで、瞬時に人を惹きつける魅力がある。どんな相手とも対等に向き合おうという姿勢が伝わってくるからかも知れない。
ルリは理央と話して気が晴れたと言い、ソフトクリームを奢ってくれた。理央も彼女に笑顔が戻ったことにホッとして、思わず笑顔になる。別れ際、自分が何に悩んでいたのかなど、もうどうでも良くなっていることに気づいて、ルリに向かって大きく手を振った。
「柊翔先生ね、怪我したからしばらくお休みなんだって」
日曜日、ダンス教室から帰ってくるなり、真央が言った。当然わかっていたことだが、理央は大げさに驚いたフリをする。
「ヒナちゃん、泣いちゃったよ?柊翔先生のことが好きだから」
「いい加減なこと言うなよ、小学生があんな大人を好きになるはずないだろ」
ヒナちゃんというのは、真央と同じ曜日に来ている四年生。大好きな先生に褒められたくて人一倍頑張っているらしい。真央が毎週あのスタジオでの出来事を喋るので、理央も中の様子をよく知るようになってしまったが、六歳児に恋愛事情までは理解できないようだ。
「でもあの先生、本当にきちんとしてるわね。ビックリしちゃった」
二人の会話を聞いていた母親が、感心したように漏らした。
「ひどい怪我なのに、今日ちゃんと来てて、休みの間は他の講師に任せますって説明してたわ」
事故の日からまだ一週間も経っていないのに。手術をして入院しているとルリが言っていたから、病院から来たのかも知れない。包帯グルグル巻きだったよ、と真央が付け足した。
『僕の不注意で怪我をしてしまったせいで、申し訳ありません』
彼のそういう部分は、理央も目にしたことがある。レッスン後、保護者から色々説明を求められて対応する時も決して軽い言葉は使わず、きちんと相手の目を見て話す彼の姿からは、誠意が感じられた。ルリもいつか彼を真面目な人間だと言っていたし、派手な見た目に隠された彼の本質は、全く違うものなのかも知れない。
それにしても、怪我は大丈夫なのだろうか。ダンサーに選手生命があるとしたら何歳なのかは分からないが、二十二歳では早すぎることくらい理央にも分かる。まだ数回しか会ったことがなくても、彼がダンスを愛していることは聞くまでもなかった。もし本当にもう踊れないのだとしたら。大好きだったことが、もう二度とできないのだとしたら…。理央は自分にとってそんなにも大切なものはまだ見つけられていないけれど、それはとてつもなく辛い出来事に違いない。もし彼にまた会うことがあったら、どんな言葉をかければいいのだろう。そんなことを考えて自分の足元を見つめた理央は、彼の白いダンスシューズを思い出した。…あの華麗なステップを、もう見ることができない?理央はようやく事の重大さをハッキリと認識していた。今は足元にも及ばないけれど、いつか一緒に踊れたら。彼の踊る姿を見て以来、心の奥深く、密かにそんな思いが生まれていた。理央にとって彼は初めての憧れの人。彼と踊ることは理央の夢でもある。いや、理央だけではなく、日本中、世界中にも同じ夢を持った人がいるはずだ。…何とか、怪我を治してほしい。彼自身のためだけでなく、彼の周りにいる、彼を必要としている全ての人のために。




