妹の習い事
あの日、ぼんやりとしたまま帰宅した理央は、帰宅が遅すぎたことに加えて履いていったスニーカーを忘れてきたことを、母親にこっぴどく叱られた。ダンス教室の中に脱ぎ忘れたのは良いにしても、翌日玄関で靴を履く瞬間まで気づかないことが情けない!とかなりご立腹だった。平日は部活があって取りに行けないため、また週末、あのショッピングモールへ出向かなくてはならない。
それにしても…。何者なのかわからないあの男のダンスは本当に凄かった。理央も同じヒップホップを習っていると言ってもまだまだ初心者で、評価など出せる立場ではないが、彼の踊りには観るものを惹きつけるパワーに溢れていた。心に直接訴えかける激しい情熱のようなものを、全身から発していた。怖いほどのその情熱は、一体何処から生まれるのだろう。ダンスを好きだという気持ち?大会で優勝したいと思う気持ち?理央にはまだどちらも曖昧で、形になっていない。
いつものように放課後の体育館で練習着に着替え、チームメイトたちと雑談しながら柔軟体操をやっていると、慌ただしい足音とともに、二年生のダンス部員たちが駆け込んできた。
「水野コーチは?」
「まだ、ですけど。何かあったんですか?」
「ナナが、体育で足怪我して大会出れなくなった」
とてつもなく深刻な事態であるということは、誰にも理解できた。大会まであと一週間。ナナは二年生だが、三年生に並ぶ主要メンバーの一人だ。小さな高校で部員も少なく、二、三年生全員でフォーメーションを組んでいるため、替わりはいない。いたとしても、今から練習して間に合うはずもない。狼狽する上級生たちを前に、理央たち一年生は為す術もなく立ち尽くしていた。
間もなく体育館にやってきて部員たちから話を聞いた水野はしばらく沈黙していたが、やがて大きく息を吐き、一年生の方へ体を向けた。いつものように大きい声で、
「ナナの代わり、誰かいない?できる子、返事!」
「はい!」
一瞬の間も無く大きな声で答えたのは、ルリだった。
タイムリミットはあと一週間。フォーメーションを変更する余裕はもうない。そう判断した水野が下した結論は、一週間でナナの代わりを作り上げること。しかも指名するのではなく、立候補させるとは。そしてそれに応えることができる人間がいるなんて、理央には信じられなかった。そんな度胸など、今の自分にはない。できる自信もない。理央と同じ思いで沈黙しているであろう一年生たちの前で、ルリは堂々と先輩たちの方へ歩いて行った。そんな彼女の背中を羨望の眼差し、嫉妬の眼差し、どちらともつかない表情で見送ったあと、それぞれにいつものステップを練習し始める。理央も、同じ。新しいシューズに変わった嬉しさも、今はもう何処にもなかった。
練習時間が終わっても、ルリを含む出場メンバーは残って練習を続けていた。後ろめたい気持ちで体育館を後にした理央は、コンビニに寄ろうという友人たちの誘いを断って、真っ直ぐ家に帰った。平常心でいられないほどの悔しさに気づいて、狼狽している自分。いや、悔しさというより情けなさのほうが優っているのかも知れない。同じ十六歳で、同じように四月からダンス部に入り、同じ場所で練習をしてきたはずなのに、いつからか一歩前を歩いていたルリ。いつも彼女と比べられて腹立たしい思いをしてきたのは、一体何のため?先輩は情けない自分に闘志を燃やす材料を与えてくれていたのではないか。今更それがわかったところで、ナナの代わりをする自信など何処にもないし、そうなれる自分も想像できなかった。
「兄ちゃん、ご飯だよ」
妹の真央が部屋のドアの隙間から声をかけた。机に向かって呼吸することすら忘れていた理央は、ようやく我に返って大きく息を吸い込む。
「今日、ハンバーグだよ」
理央の心情などまるで気にしない真央が、待ちきれないと言う風に理央を急かす。今年小学校に入学したばかりの年の離れた妹は可愛いが、もう女子の片鱗を覗かせていて、拗ねると手に負えない。しかも、
「真央もダンスやりたい」
いつものように食卓を囲んで、真央から出た話題は理央を驚かせた。
「兄ちゃんばっかりズルイ」
何でも理央と同じことをやりたがるが、こう歳が離れていてはそうもいかない。先日はゲームセンターに行きたがり、真央が真似するからという理由で禁止されてしまった。
「ダンスできなきゃアイドルになれないって友達に言われたよ」
真央は将来アイドルになるのが夢だ。それは理央が仮面ライダーになりたかったのと同じレベルの夢だったが、両親はまだ真剣にその相手をする。
「そうね、ダンスができなきゃアイドルは難しそうね」
「だからやるの。明日からやる」
何でも簡単に、明日からやると言う。可笑しくなって理央が笑うと、バカにされたと思ったのか、真央は食事の手を止めて俯いた。
「そうだ、あそこにダンス教室があるんだったわ。理央が靴忘れたとこ。今度行ってみる?」
母親の提案に再び顔を上げた真央は、チラッと理央のほうを伺い、
「兄ちゃんの靴があっても、ぜーったい持ってきてあげないから」
憎らしい口調で言って、理央のハンバーグをフォークで突き刺した。
それにしても女子というのは、ここぞという時の度胸というか、前に進むパワーを何処に隠しているのか、突然見せて周囲を驚かせる。こんなに小さな真央でさえ、自分自身に習い事という大きな環境の変化を与えて成長しようとしているのだ。何にしてもまずは尻込みしてしまう自分には到底真似できなくて、無性に羨ましくなる。真央は本当にダンスを始めるのだろうか。なんだかすぐに追い抜かされそうな気がして、理央は勝手に落ち込んだ。
その週末、理央は真央を連れて例のショッピングモールに来ていた。靴を取りに行くついでだから丁度いいでしょ、と真央をダンス教室の見学に連れて行く役目を押し付けられたのだ。母親は既にダンス教室に連絡を入れていて、今日が休みでないことも確認済みだ。大人になると、そういう根回しというか、物事をスムーズに進めるために障害となることを想像して、予め取り除いておくという行動が簡単にできるようになるのだろうか。靴を忘れてきたとき、あのダンス教室に電話をして確認するという行為を思いつかなかったのは、単に自分がバカだからとは思いたくない。
「あれ?」
扉から中を覗いた理央は、思わず声を上げていた。教室の中で子供達を教えていたのは、あの日の彼ではなく髪の長い女性だったのだ。理央の中で、彼がここの講師である確率は高く、今日難なく会えることを期待していたのに。忘れた靴の話をする予定が狂ってどうしようか悩んでいるうちにレッスンが終わったらしく、中から次々と子供達が飛び出してくる。
「兄ちゃん、何やってんの?早く、」
真央が理央のシャツの裾を引っ張って教室の中に連れて行こうとする。それに気づいた女性講師が愛想の良い笑顔を浮かべた。
「真央ちゃんだよね!こんにちは!」
子供の相手に慣れた様子で真央を招き入れる。お兄さんもどうぞ、と理央に手招きした。
「もうすぐ次のクラスが始まるから、待っててね」
流れている子供向けの音楽にテンションの上がった真央は、勝手な振り付けで踊りながら部屋の中を走り回っている。まだ時間があることを確認した理央は、思い切って口を開いた。
「あの、ここの先生って、他に誰かいるんですか?」
「いますよ。曜日ごとに交代でやってるんです。火曜日と、木曜日と、土日」
講師との相性もあるから、気軽に他の曜日も見学してください、と言った。理央は相槌を打ちながら、恐らく彼のことは口にしないほうがいいのだろうと判断し、それ以上は聞かなかった。もちろん、置き忘れたスニーカーのことも。やがて続々と子供達が入ってきて、賑やかなレッスンが始まった。
当然のことながら、靴を持ち帰らなかった理央を母親は呆れたような顔をして罵った。なかったと言うべきか持ち去られたと言うべきか悩んだが、争点はそこではない。そんなことは百も承知だったから、理央はただ黙って小言が済むのを待った。
「お化けが持ってっちゃったんじゃない?」
「は?」
散々叱られて苛立っていた理央は、思わず真央に当たってしまいそうになった。
「夜の教室には、お化けが出るんだって。もっと勉強したいのに死んじゃった子供のお化け」
何処で聞いてきたのか、よくある話なのにまあまあ怖くて鳥肌が立った。
「そんなわけあるか」
あの日、確かに彼と会話をした。この記憶は紛れも無い事実のはずだったが、真央のせいで少しだけ自信がなくなった。勝手にあのスタジオを使っていたとはいえ、明かりもつけずに練習をするだろうか。
「名前くらい聞いとけば良かった」
お化けに名前を言うと連れてかれちゃうよ、と耳元で囁く真央を睨みながら、意外に難航しそうな靴探しを思い、理央は大きくため息をついた。