ダンスシューズを買いに
ある休日、理央は傷んだダンスシューズを買い替えるために、夕飯の買い物ついでの母親と共に近所のショッピングモールへ来ていた。たった三ヶ月で履けなくなってしまったことをブツブツ言われながら、悠太と同じメーカーのシューズを探す。ダンス用の靴選びの知識がない理央は、まず形から。先輩たちのシューズを見比べた結果、悠太が履いているものが一番イメージに近かったのだ。残念ながら欲しかった黒のサイズがなくて、仕方なく白を選んだ理央に、
「白はすぐ汚れるから嫌なのに」
と母親がまた文句を言った。
早く自立したい。口うるさい母親から少し離れて歩いていた理央は、どうすれば自立できるのか真剣に考えてみる。まずはバイトか?自分で自分の必要なものを賄えるようになったら、自立できたというのだろうか。金銭的なことだけではなく精神的に自立することの必要性を全く考えない時点で、まだ自立への道は遠いのだということに、理央はまだ気づいていなかった。
夕飯の買い物を済ませ、重い荷物を持たされた理央は、ふとある文字が目に飛び込んできて足を止めた。キッズダンススクール。こんなところにダンス教室があったとは、今まで全く知らなかった。おそらく、ダンスに興味がなかった頃の自分の目には留まらなかったということだろう。理央は何気なくその教室の方へ近づいていき、扉の窓から中をのぞいてみた。今日は休講日なのか明かりはついておらず、いつもなら元気に踊っているであろうキッズたちの姿は見えなかったが、その薄暗い空間で踊る、一人の男性の姿。防音になっているはずなのに、流れているであろう音楽やステップを踏む音がハッキリと聞こえる…。そんな躍動感のある動きに、理央は荷物の重さも忘れて釘付けになった。オーバーサイズのTシャツにダボダボのサルエルパンツ。体のラインなど全く見えないにも関わらず、理央には彼の全身の鍛え上げられた筋肉がハッキリと感じられた。部活で先輩たちの踊りを見てすごいと思ったのは事実。しかし、今目の前に見えるたった一人のパフォーマンスは、比べ物にならないほど洗練されたものだった。美しい。そう感じてしまうほどに。
音楽が途切れたのか、練習に区切りがついたのか、ガラス越しの彼は動きを止めた。壁際のデスクに歩み寄ってスマホを手に取り、タオルで汗を拭きながらこちらにやってくる。理央がどうしようか迷うより早く、その扉は開いた。
「…、何か?」
金色の髪、鋭い切れ長の瞳、耳には金のピアス。ドアに手を掛け、理央を見下ろす長身。薄暗い鏡越しにぼんやりと見えていた容姿を目の前でハッキリと確認した理央の口から出てきたのが、これだった。
「カッコ良かったです」
「…」
呆気にとられた表情、その後、彼は少し笑った。この人も、ルリと一緒だ。笑うと全然印象が変わる。
「あのさ、ちょっとだけここ、見ててくれる?」
彼は理央にそう言って、どこかへ行ってしまった。緊張の糸が切れ、ズッシリと荷物の重さを思い出す。ちょうどその時、母親が鬼の形相で戻ってきた。
「理央!勝手にいなくならないでよ!電話も出ないし、探し回ったじゃないの!」
「…ああ、ごめん」
「帰るわよ、ご飯の支度しなきゃ」
母親が理央を急かす。しかし、このスタジオを開けたまま席を外す間の留守番を頼まれたらしい理央は、
「先帰って。俺、もうちょっとここにいる」
そう言って、スーパーの重い袋を母親に返した。
母親が怒りながら帰っていってそれほど経たないうちに、彼は戻ってきた。ペットボトルのスポーツドリンクを理央に見せ、これを買いに行っていたんだと説明する。二本あるうちの一本を理央に渡し、
「いいの買ってもらったじゃん」
「え?」
「それ、ダンスシューズでしょ?」
彼が指差したのは、さっき母親に文句を言われながら選んだ練習用のシューズが入った袋だった。あまりに衝撃を受けたせいで、今日ここにきた趣旨をすっかり忘れていた。
「俺も君くらいの時、その靴履いてた」
懐かしい、と言いながら買ってきたペットボトルの蓋を開け、半分ほどを一気に飲み干す。それを見て急に喉の渇きを覚えた理央も、お礼を言って少し飲んだ。
「靴、中で履いてみたら?」
初対面の大人と何を喋ればいいのかわからず困る前に、彼はそんなことを言った。派手な容姿とその完璧なダンスのせいでものすごく近寄り難い印象だったが、全く距離を感じさせない対応に好感が持てる。
「子供って、親が大きいの買いがちだけど、ピッタリじゃなきゃ怪我するよ」
確かに、さっき母親が大きいサイズを薦めてきた。それを断った自分が正しかったのだとわかり、ちょっと嬉しくなる。理央が真新しいシューズを履いて立ち上がると、
「今、どんな練習やってんの?ちょっと見せてよ」
こんなにやりづらい環境があるだろうか。さっきあんなすごいダンスを見た後に、始めたばかりの拙いステップを見せろだなんて…。理央が尻込みしていると、彼は笑いながら、
「俺の練習勝手に見たくせに」
残りのドリンクも飲み干し、立ち上がった彼は、おもむろに見覚えあるステップを順番に見せ始める。
「これ?それともこれ?」
ランニングマン、ブルックリン、クラブステップ、そしてチャールストン。どれもできるようになったステップばかりだったが、彼が見せるそれは、体育館の片隅の鏡に映る自分と同じ動きには到底見えなかった。華がある、と言うのだろうか。初心者がやると単純に見えてしまいがちなステップが、どれも華やかな技のように見える。迷いなく大胆に動くその足元の白いダンスシューズ…。この人も、白なんだ。レインボーカラーのラインストーンが動くたびにきらめいた。
いつまで経っても理央が乗ってこないからか、彼は最後に床に片手をつき、ふわり、と体を浮かせて着地した。しなやかに曲がる体と、長い手足、軽々と自分を持ち上げる力。動きの一つ一つが、見る者を惹きつける。
「今日は休講日だから、説教はやめとくよ」
そう言って帰る準備を始める。やっぱり、ここの講師なのだろうか。彼の派手な風貌から、勝手にこの場所を使って練習しているのかもしれないと疑っていた理央は、安心してようやく緊張が解けた。
「…やっと笑った」
呆れたように言って、空のペットボトルで入口のドアを指す。
「勝手に使ってるんだ。見つかるとヤバイ」
さっさと出ろ、と言わんばかりに背中を押してくる。理央は押されるままに外に出て、教室の鍵を閉めて帰って行った彼の後ろ姿を見送った。
「…どっちなんだよ?」
ダンスの講師なのか、ただの悪いヤツなのか。複雑な思いを抱えたまま帰宅することになった理央は、うっかりバスを乗り間違えてしまい、とんでもない遠回りをして家に帰った。