病気と嘘
新入生歓迎会に披露する曲は何が良いか、少数精鋭でやるのか全員でやるのか。二月も中旬に入り、連日、二年生たちが話し合っている。そろそろ練習を始めないと、入学式までに間に合わないのだ。理央は去年のその日、先輩たちのダンスに衝撃を受けて入部したことを、遠い昔のことのように思った。あまりにも濃度の高いダンス部の活動に、もう何年もこの場所にいるような気がする。
「やっぱり、インパクトは大事だと思う」
部長の悠太が言うと、皆頷いた。ダンス部に入りたい、と思わせるインパクト。瞬間的に、人を惹きつける情熱的なパフォーマンス…。理央は一度だけ見た柊翔の踊る姿を思い浮かべていることに気づいて、頭を振った。
「なんだ、理央。他に何か良いアイデアでもあるのか?」
怪訝そうな顔をした悠太が尋ねる。理央は慌てて首を横に振った。彼のことはもう忘れよう。これ以上はもうダメだ。自制心を強く持とうとすればするほど、彼への思いを確認することになってしまう。あれ以来、ますます大きくなる罪悪感に、ルリの顔を見ることができない。当然、ダンスパフォーマンスも滅茶苦茶で、水野から毎日のように注意を受けていた。
『理央、やる気ないなら帰って』
決してやる気がないわけではないけれど、そう言われても仕方がないと思うほど、体が重くて全く思うように動かない。まるで誰かの魔法で手足の自由を奪われているかのようだった。
「理央、ちょっと話があるんだけど」
帰り際、悠太に呼び止められた。理央は内容に察しがついた上で、頷く。
「深刻な悩みでもある?」
「…いえ、」
「じゃあ、彼女に振られた?」
「…」
ルリと目を合わせようとしないこと。そこから思い当たることは一つしかないと言った。理央は少し考えて頷いてみる。彼女に振られたという状況に、最も遠いようで限りなく近いのかも知れない。
「やっぱりな。元気出せよ。コーチは厳しいこと言うけどさ、文化祭であんなの見ちゃったら、誰でも手抜いてると思うよ」
「…すみません」
謝ることでもないけど、と言いながら悠太は帰って行った。アッサリと話を終わらせてくれたことに感謝しながら理央はため息をつき、いつの間にか体育館の中にルリと二人きりになってしまったことに気づいた。
「理央くん、どうしたの?」
咎めるような眼差し。なんで無視するの?と涙を浮かべた。
「違うよ、ルリ、…ごめん、本当に、」
慌てて謝っても、本当の理由が言えないのでは釈明にならない。そんなことは百も承知だった。
「ずっと体調が悪くて、…体が重いし、…どこか悪いのかも知れない」
「え…」
「だから部活、しばらく休もうかって思ってたけど、言い出せなくて」
いつの間にか得意になってしまった嘘を並べてみた。体が重いのは事実だし、全くの嘘というわけでもないが、そんな安っぽい手段でこの場を逃れてみたところで、何の解決にもならないのに。
「そうだったんだ、…私、嫌われたのかと思って、」
私が柊翔の話ばかりするから。ルリは溢れる涙を拭きながらそう言った。
「…そんなわけないじゃん、」
心と口が、全く別の回路で動いてしまっている。その時点で理央はもう、病気だと思った。いっそのこと、本当に病気だと診断された方が楽かも知れない。それならこの厄介な症状を治すための薬がもらえるから。
「早く病院に行ったほうがいいよ。悪い病気だったら大変だもん」
「そうだね、」
「柊翔もね、また足手術するんだよ。違う病院に行って、これで最後にするつもりだって」
彼女からその名前を聞いただけで、責められているような気分だった。もう何も聞きたくない。もう二度と好きになったりしないから、どうか忘れさせて…。ルリに体調を気遣われながら駅まで歩く間、理央は抱えきれない罪悪感に行く手を阻まれて前が見えず、何度もよろけそうになった。涙を堪えるのが精一杯で、何一つ言葉にできなかった。
理央は自分を思うようにコントロールできないことに苛立って、近所のゲームセンターに通うのが習慣になってしまった。あの騒がしい空間にいると、思考回路が妨害されるのか、嫌なことを忘れられる。それに気づいた理央は、休日わずかな時間を見つけては、逃げるようにゲームセンターに向かった。特に日曜日、真央がダンス教室に行った後は誰に咎められることなく遊べる。友達を誘って、部屋でゲームをする時もあった。クリスマスに買ったものの、色々あって遊べなかったソフトを、今ようやくやり始めている。…全ては、彼を忘れるために。
そんな涙ぐましい理央の努力も、レッスンから帰ってきた真央のお喋りでいつも水の泡になってしまう。
『ヒナちゃんがね、柊翔先生にお手紙書いたんだって。お返事来たって言ってたよ』
何の屈託もなく話す真央に罪はない。しかし理央にとってそれは何よりも辛い仕打ちだった。記憶喪失になる薬が欲しい。高校生にもなって、そんな馬鹿げたことを考えるとは、思いもしなかった。
「行ってきまーす」
真央の声が玄関から聞こえ、ドアの閉まる音とともに家中が静まり返ると、理央はまたこっそりと家を抜け出すことにした。いつもダンスのレッスンが終わって夕飯の買い出しをしてから帰ってくるため、二時間くらいは自由だ。休日出勤の父親が何時に帰ってくるのかはわからないが、厄介な母親とは違い、理央が留守にしていてもそれほどお咎めはないし、理央の嘘に簡単に騙されてくれる。外に出た理央はまず、家の敷地ギリギリのところで聞き耳を立てる。母親が時々、近所の知り合いに出会って立ち話をするからだ。門から少し乗り出してバス停のある方を覗くと、案の定、角の家の前で立ち止まっている姿が見えた。早く行けよ、レッスンに遅れるだろ。心の中で呟いたその時。
「理央、」
ドキン、と心臓の音が跳ね上がった。絶対に聞こえるはずのない声だったから。
「柊、翔?」
信じられなくて、夢でも見ているのかと思った。驚いたせいで呼吸がうまくできなくて、必死に自分を落ち着けようと努力してみる。しかし、どれだけ息を吸っても苦しかった。
「ルリから体調悪いって聞いて。…でも、思ったより元気そうで良かった」
外に出る元気があるみたいだから。そう言って安堵の色を浮かべる。あの時咄嗟についた嘘…。ルリから柊翔に伝わるであろうことすら想像できなかった自分が情けない。松葉杖に戻っているということは、もう二度目の手術は終わったのだろうか。これで最後にすると言っていたが、結果はどうだったんだろう。尋ねたくても、何も言えなかった。
「…やっぱ、元気ないな。大丈夫か」
その真剣な眼差しが痛すぎて、常に抱えている罪悪感が理央を責める。お前のくだらない嘘のために、怪我をした足でわざわざ様子を見にきた彼の身にもなってみろ。彼の優しさや思いやりを、土足で踏みにじって平気なのか?
「どこも悪くないんだよ、ホントは。病気みたいに見えるだけ。ごめんね、歩くの大変なのに、こんなとこまで」
嘘ばかりついているせいで、本当のことなのに、嘘みたいに聞こえた。しかし、柊翔はただ首を横に振る。その様子に、本気で理央のことを心配していると悟るのは容易なことだった。もしかしたら、あの日のことをずっと気に病んでいたのかもしれない。あの日の出来事のせいで理央が体調を崩してしまったのだと、責任を感じてここまで来たのかも知れない。柊翔はまだ心配げに理央の顔をじっと見ていたが、
「連絡先、やっぱ教えとくよ。…別に緊急事態じゃなくてもいいから連絡しておいで」
そう言って、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「…なんか、いつもの柊翔じゃないみたい」
優しすぎる。理央は夢と現実の狭間で目覚めることのできないもどかしさを思った。あの日から、何をしていても現実味がなく、夢の中にいるような気がしていた。ふとした拍子に目が覚めて、元の生活に戻るのではないかと。あの時の手の傷はまだ残っているが、消えて欲しくない、と思うほどに薄くなっていく。
「お前だって、いつもの理央じゃないよ」
いつもの自分?もうわからない。自分がいつもどんな顔で、どんな声でこの人と向き合っていたのか。彼を忘れようとする思いが、そうさせているのだろうか。本当に大切なものまで忘れてしまってはいけない、誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。
「俺にできること、ある?」
こんな足だけど、と自嘲する様に笑う。理央の目には、彼のほうこそ元気がないように見えた。彼にこんな顔をさせてしまう原因が自分に対する罪悪感なら。そんな取るに足らないことで悩まないで欲しい。…いつもみたいに笑ってほしい。人をからかうような、イタズラっぽい顔で。理央はそう思うと、少しだけ笑顔になれた。
「…やっと、笑った」
彼もようやく、ホッとしたように笑った。今までに見たこともないような儚げな笑顔だった。これ以上彼を苦しめてはいけない。そう思った理央は咄嗟に、
「こないだのこと、…まさか気にしてないよね。怒らせた俺が悪かったんだし。ずっと謝りたかったけど、連絡先わかんなくて」
その言葉に、信じられないという表情をした柊翔は、少しだけ泣きそうになって俯きかけたが、すぐに顔を上げた。
「強いな、お前。ホントに…」
片手で理央を抱きしめ、
「でも、そんなに無理すんな。壊れるぞ」
壊れる?彼の腕の中で理央は笑った。もう、とっくに壊れているのに。だって、絶対に好きになってはいけない人を好きになってしまったんだから。
「足、ちゃんと治して、またダンス教えてよ。…全然踊れなくなっちゃったし」
柊翔から離れ、少しずつ、いつもの自分を取り戻していく。必死にバランスを保とうとすればするほど崩れそうになるのなら、思い切って崩してしまうほうが楽なのかもしれないけれど。
「わかった。じゃあ、治ったら、連絡するよ」
いつか彼にダンスを教えてもらうこと。そして一緒に踊ること。それが理央の夢だと、彼は知っているだろうか。彼の足が完全に治って、また踊れる日が来たら、今度こそ素直にダンスを教えてくれと頼みたい。いや、それより、いつも鏡越しだった彼のダンスを、ちゃんと正面で見たい。観客として。
『だから絶対、あきらめるなよ!』
理央はそう心の中で叫びながら、タクシーに乗り込む彼の背中を見つめた。彼になら、理央の声が届くはず。彼の声も、理央になら届くのだから。閉まる扉の向こうで、柊翔がハッとしたように顔を上げて理央の方を見た気がした。ほらね、聞こえたんだ、きっと。走り去るタクシーを笑顔で見送ったあと、理央はその場で泣き崩れた。