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ダンス コーチ  作者: kanon
16/18

白紙の手紙

 それから一ヶ月。一年で一番寒いという季節にふさわしく、朝起きたらうっすらと雪が積もっていることが少なくない。暖冬になりそうだと言った気象庁の予報は、やっぱり外れたようだった。今月に入ってからは晴れる日が少なく、今にも雪を降らせそうな重く垂れ込めた空は、理央の心の中のようだと思った。

 先日、柊翔の傷はほぼ治って、歩けるようになったとルリから聞いた。しかしまだ運動ができる状態ではなく、リハビリを続けているらしい。真央も、来週柊翔先生来るかも知れないんだって、と嬉しそうに言っていた。…理央が尋ねなくても通学路ではルリが、家では真央が柊翔の近況を教えてくれるのだが、理央にとってそれは徐々に拷問に近いものに変わっていた。

『退院したら、一回会って話そう』

 病室で見たあの優しげな表情とその言葉の意味。あれから理央は、自分の浅はかな行動のせいで、彼に最も気づかれてはいけないことに気づかれてしまったのだと悟った。もう忘れなくてはならない。もう会わないほうがいい。だからもう、あのダンス教室には行かない。そう決めたのに。

「兄ちゃん、お手紙だよ」

 日曜日、ダンス教室から帰ってくるなり、真央が部屋に手紙を持ってきた。誰から、とは聞かずに受け取り、躊躇いながら開いた。

『  』

 驚いたことに、そこには何も書かれていなかった。真央が自分の折り紙と間違えたのかとも思ったが、多分そうではない。理央は真意を測りかねて、その白紙の手紙をもう一度眺めた。

「柊翔先生、まだ足が痛くてうまく踊れないんだって。だから、もうダンスの先生辞めるって言ってた」

「…嘘だ、」

「嘘じゃないよ、さっき言ってたもん。またヒナちゃん泣いちゃった」

 真央のその言葉は、もう理央の耳には届いていなかった。まだリハビリの途中だとルリは言っていたのに。今度こそ踊れるようになると思っていたのに。

 理央は精一杯平静を装って家族で夕飯を食べた後、おもむろに時間を確認し、出来るだけ自然な声色を作ってコンビニに行ってくる、と家を出た。ダンス教室のレッスンが全て終わるのは、高学年クラスのあとで七時前くらい。理央が着く頃には終わっているはずだ。

 電車を降り、ショッピングモールのある方へ歩きながらも、引き返そうとする自分に何度も足を止められる。もう会わないと決めたのに。忘れるはずだったのに。しかし、そんなことはできるはずがないと言うことも、理央にはわかっていた。

 理央はスタジオの前で深呼吸をし、すでに暗い中を覗いたが、柊翔の姿はなかった。時刻は午後七時半。理央の計算が正しければ、レッスンが終わってからまだそれほど時間は経っていない。

「どこにいるんだよ…」

 今までなら確実に、彼はここで理央を待っていたはずだった。理央はポケットに入れた手紙をもう一度取り出して開いてみる。白紙の意味、それは…。 

 しばらく途方に暮れていた理央は、ショッピングモールの外に出て、当てもなく彼の姿を探し始めた。どこに住んでいるのかもわからない。日曜の仕事終わりにどんな予定があるのかもわからない。そして今どこにいるのかも。探すこと自体無駄に思えてきた頃、理央はふと、いつもは通らない裏手の駐車場を思い出して足を向けた。駅が近いこともあり、一人で行動するようになった最近は行くことがなくなったが、小さい頃は家族でよくここに車を停めていたことを思い出す。こんなに狭かったかな…。あの頃は自分が小さくて、この百台ほどの駐車場が膨大な広さに思えていたのだと気がついた。…その時。理央は信じられない思いで、駐車場に面した建物の暗い壁に目を凝らした。

「…久しぶり、」

 柊翔の顔に驚きの色はなく、ただ壁にもたれて理央に話しかけた。どうしてスタジオではなく、こんなところにいるのか。理央が彼を探すとは限らないのに。しかも、入り口から遠く離れたこんな場所に…。やっとのことでそう訴えると、

「でも、ちゃんと会えたじゃん」

 思えば、手紙でこんな曖昧な約束のようなものを交わすようになってからも、彼と会えなかったことは一度もなかった。今日も、理央がここまで来るかどうかさえわからないのに、彼は来ると信じて待っていたのだ。理央は奇跡というより、運命のようなものを感じながら、一歩、また一歩と彼に近づいていく。低気圧のせいか時折強く吹く不安定な風が躊躇する理央の背中を押したが、もう会わないと思っていた柊翔の姿を眼の前にして、理央は何も言えなくなった。本当にダンスの先生辞めるの?そう聞きたくてここに来たのに、心の中の文字は一つも言葉に変換されないまま。理央はただ突っ立って、包帯の取れた柊翔の左足を見ていた。


 この時間、駐車場と建物の間の通路は時折搬入口を行き来する車が通り過ぎるだけで、人通りは少ない。表通りに面した壁に比べると、塗装されていないただのコンクリートの壁はものすごく殺風景で、中の賑やかな様子は想像もできなかった。

「寒いから、中入ろうぜ」

 理央が何も言わないからか、壁から体を起こした柊翔が口を開いた。

「ううん、俺、何かあったかい飲み物買ってくるよ。…柊翔さん、何がいい?」

 柊翔は一瞬、驚いたような顔をした。が、すぐに元の表情に戻って、

「…何だよそれ」

「だから、飲み物何がいいかって、」

 柊翔はそれには答えず、鋭い眼差しを理央に向けたまま黙っている。心の中まで見透かされているような気がした。

「…それで?俺に、なんか言いたいことあんじゃないの?」

 前に病室で会った時、話があると言ったのは彼の方だったはずなのに。白紙の手紙…それは柊翔自身ではなく、やはり理央の言葉を書き込むためのものだったようだ。

「…ないよ、別に」

「嘘つけ」

「ないって言ってんのに」

「あるだろうが。何しにここまで来たんだよ?」

 いつになく苛立った口調。理央はさすがにもうそのわけに気付きながらも、必死に芝居を続ける。何も書いていない手紙で理央を呼び出し、彼が理央の口から聞き出そうとしていることは、決して口にしてはいけないこと。それならこの紙に書いて託せとでも言うのだろうか。

「…意味わかんない。さっきから何怒ってんの?」

「お前の態度が気に入らねーからだよ!何で今更さん付けで呼んでんだよ?そんなことで何か変わんのか?」

「だって、年上だし、呼び捨ては良くないかなって、」

「下手な嘘ついてんじゃねーよ!」

 柊翔が声を荒げてコンクリートの壁を殴った。理央もとうとう言ってしまった。

「言えるわけないじゃん!俺が言いたいこと分かってるみたいに言ってるけど、本当にわかってんの?言ったってどうにもなんないよ。それとも言ったら何か変わるわけ?俺の願いを叶えてくれんの?絶対に無理、」

 理央の言葉が終わらないうちに、柊翔は乱暴に理央を壁に叩きつけ、唇を重ねた。抵抗しようとする理央の手を無理やりねじ伏せ、コンクリートの壁に力尽くで押さえつけながらしばらく動くことを許さなかったが、やがて唇を離し、今度は胸ぐらを掴んだ。

「これで満足?」

 必死に怒りを抑えているのか、震えるような声だった。突き刺さる眼差しに、目を逸らすことが出来ない。彼の顔がまだ唇の触れそうな距離にあることに気付きながら、理央はただ柊翔の力の前に為す術もなかった。

「…、」

「これで満足かって聞いてんだよ!お前の望みがこの程度なら、何回でもやってやるよ!ずっとこうなりたかったんだろうが!」

 今までに見たこともない、怒りに満ちた柊翔の表情に、初めて怖いと感じた。理央はそんな彼を前に、動くことのできない魔法にかかったように、ただジッとしていた。二人の間に、二人を隔てるかのように、凍てついた風が吹き抜ける。

「俺だってお前を特別だと思ってるよ。でもお前が思うそれとは違うんだよ!お前の思いに全力で応えたいのに、できない俺の身にもなってみろよ!」

 柊翔はそう言って理央を思い切りつき離した。


 

「…ごめん」

 時間が止まったかと思うほど長い沈黙のあと、柊翔がようやく口を開いた。立ち尽くしていた理央は体じゅうの力が抜け、崩れるように地面に膝をつく。何が起こったのか、わからなかった。わかりたくもなかった。望んでいたはずだった?自分のことなのに、全くの他人のことのように答えが遠い。

 何も言わない理央を前に、柊翔は苛立ったように大きく息を吐き、壁にもたれて座り込んだ。

「マジ、最低だよ、俺。…ホントにごめん」

 両手で頭を抱えながら、再び謝る。これは現実に起きていること、なのか。区別がつかないまま、理央はただ黒い地面を見つめていた。さっきからポツポツと冷たい雨が降ってきていて、理央の火照った頬を涙のように濡らしている。手の甲に焼けるような痛みを感じ、見ると血が流れていた。

「…痛かったろ、」

 うなだれたまま、柊翔が言った。その声にもう怒りの色はなく、優しさすら感じたが、今の理央には今までの彼がどんな声で話していたのか思い出せなくなっていた。それに気づいた途端に涙が溢れ、理央はその顔を見られまいと彼に背を向ける。夢であってほしい…。そう願いたかったが、徐々に増す傷の痛みがそうすることを許さなかった。

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