辛いお見舞い
新学期が始まり、授業のあと部活に行く生活はすぐに元通りになった。年末の風邪と正月休みで鈍った体を動かすと、胸の中に淀んでいたものが少しずつ排出されていく気がする。体調があまり良くなかったこともあって、この二週間一度もダンスの練習をしていなかった理央は、今日が待ち遠しかった。部活を楽しいと感じられるまでになった自分が何だか誇らしいような気分に浸っていると、珍しく少し遅れてルリが駆け込んできた。遅れてすみません、と小さな声で先輩たちに挨拶すると、急いで理央の方にやってきた。
「柊翔、今から手術だって。どうしよう、怖いよ」
声が震えているのがわかる。理央も急に怖くなってきた。手術という言葉から連想するものは恐怖しかない上に、それが親しい人間の身に起きることだなんて。
「一回では治らないかも知れないし、何回やってもダメかも知れないけど、…可能性があるならやってみるって、」
部活に遅れたのは、彼と電話をしていたからなのだろう。理央はルリの話を聞きながら、ただ頷いていた。あんなに神様にお願いしたんだから、きっと大丈夫。大吉だったんだから、絶対大丈夫。自分を安心させたくて、心の中で何度も何度も呟きながら。
たった二週間踊らなかっただけで、理央ですら部活が恋しくなった。それなら、彼は?怪我をしてから今日まで、どんな思いで過ごしていたんだろう。大会の練習もできない。子供達に教えることもできない。踊ることを生き甲斐にしているであろう彼からそれを取り上げることは、空を舞う鳥から翼を奪うようなものだ。…どうか無事に彼の足が治りますように。祈ることしかできなくて、理央は悔しさに唇を噛んだ。
落ち着かないまま部活が終わり、並んでコーチの小言を聞いた二人は、黙って駅までの通学路を歩いていた。今日どんなステップを練習したのか、コーチがどんなことを注意したのか、全く覚えていない。いつものコンビニを通り過ぎたあたりでチラチラと雪が降り始め、頬に冷たい刺激を残して溶けた。理央はポケットに突っ込んだ手が冷たすぎることに、ルリもきっと同じなのだろうと想像した。…彼の足が治らないなんて、そんな結末はあり得ない。正義のヒーローが負けることがあり得ないように。理央は冷たい手を握りしめ、必死でそう自分に言い聞かせた。
「…柊翔のこと、また連絡していい?」
駅のホームでルリが言った。理央とだったら、不安も半分にできる気がする、と泣きそうな顔になる。ルリは当然気づいていないけれど、理央の心の中も多分ルリと変わらないくらい不安で一杯だった。
「もちろん、俺もすごく心配だし」
「ありがと」
ルリは本当に彼のことが好きなのだ。そんなことは今確認しなくても、承知していたはず。どこから見てもお似合いのカップルで、理央もそう思っていた。本当に、心の底から。
ルリから連絡があったのは、深夜だった。手術は無事終わり、問題なく歩けるようになる。ただ、激しいスポーツに耐えられるかどうかは分からない。それでは手術をする前となんら変わっていないと柊翔は落ち込んでいたようだった。
「でも、これでまた子供達にダンス教えに行けるって言ってた。ああ見えて、子供好きなんだね」
ルリは手術が終わってホッとしたようで、そんなことを言った。それで理央もようやく安堵のため息を漏らした。
「小さい子たちは、先生が踊って見せたのを真似て踊りを覚えるから、歩けるようになるだけじゃ困るんだって」
柊翔が子供達の前で熱心に教える姿が目に浮かんだ。彼は子供が好きで、子供達にダンスを教えるのが好きで…でもきっと、小さな子供にも容赦なく厳しいことを言うんだろうな。理央は文化祭の前にあのスタジオでダンスを見てもらったときのことを思い出していた。理央に何が足りないのか。それを厳しくも優しい言葉で、的確に教えてくれた。彼には何のメリットもないのに、理央のために時間を作ってくれたことが嬉しかった。
「早く柊翔に会いたいな」
電話だからか、相手が理央だからか、ルリはそう言った。
「ルリは、柊翔さんのこと、本当に好きなんだね」
さん付けで呼ぶと、発音しにくい外国語のように思えた。あのとき咄嗟に柊翔、と呼んだこと。彼は咎めなかったが、何と呼べばいいのかいつも分からない。家族と話すときは柊翔先生、ルリと話すときは柊翔さん。理央にとって彼は友達であり、ダンスの先輩であり、…憧れの人。何て呼べばいいの?と聞く機会は何度もあったはずなのに。
「好きだよ。会った瞬間から好きだったんだよ?柊翔は笑うけど、本当なんだから」
以前、出会った時のことを教えてくれた。ルリと柊翔の出会いもまた、奇跡なのかな。そう考えると、何だか悔しい。自制のために、自らルリの思いを確認しておきながら、やっぱり聞きたくなかったと後悔した。彼との奇跡は、自分だけのものにしておきたかったのに…。そんな嫉妬心を必死に抑えようと努力する理央に、ルリは彼と付き合うことになった経緯を語った。たった一度会っただけの柊翔のことが忘れられなかったルリは、彼が降りた駅に何度も足を運んで彼の姿を探した。そして二度目に会った時、告白したのだと。
『ずっと会いたくて探してました』
『俺のこと?』
『彼女がいるのは知ってます。でも、大好き』
ルリの突然の告白に、柊翔は驚いていたと言う。
『こんなストレートな告白、初めてだよ』
そして、前の彼女とはもう別れた、と告げた。しかしルリが中学生だと聞いてまた驚き、
『じゃあ、高校生になってもまだ俺のこと好きだったら、もう一回告ってよ。中学生と付き合ったら、捕まっちゃうから』
高校生になるまでまだ三ヶ月あった。ルリにはとてつもなく長い時間に思えた。
『そんなに待ってたら、他の人に取られちゃう』
柊翔はとうとう笑い出した。大丈夫、俺そんなにモテないから。そう言ってルリに連絡先を教えた。
「嘘ばっかりなんだよ、モテないなんて。そのあと他の女の人といるとこ、何回も見たもん」
いつも違う女だったし。ルリは思い出して怒り口調になる。理央は、それは仕方ないよ、と言いそうになった。どういうわけか、彼は会った瞬間から相手を強く惹きつけてしまうのだ。理央もそうだったように、出会ってしまったら、その魅力からはもう逃れられない。
「何とか私のこと気にしてもらえるようにと思って、一ヶ月間毎日連絡して、突然やめてやったの。そしたら、」
『週末、スキー行かない?二人で』
「単純でしょ?」
中学生のそんな駆け引きに、簡単に引っかかるなんて。でも、柊翔のそんなところが好き、と付け足した。
「ねえ、日曜日、お見舞い一緒に行こうよ。柊翔が、一人で寂しいって言ってたから」
理央は悔しい気持ちを忘れて、思わず笑ってしまった。こんなに色々暴露されているとは思ってもいないはずだ。
「いいよ、何か差し入れ、持ってく?」
純粋に、会いたいと言える関係が無性に羨ましい。二人の微笑ましいやり取りはいつも理央を和ませてくれる。喧嘩をしている時でさえ、羨ましかった。
日曜日の午後、理央はルリと待ち合わせて、総合病院のロビーにいた。こんな場所に来る機会のない二人は、慣れない病院の匂いと人の多さに圧倒されて、なかなか柊翔の入院している病棟にたどり着けなかったが、ようやく五階の整形外科病棟と書かれた文字を見つけ、二人で安堵のため息を漏らした。
「迷路みたい」
もうちょっと見舞客にわかりやすい設計にしてくれればいいのに、というルリの意見に理央も同感だった。
コンコン、と控えめにノックをした後、ルリは病室の扉をそっと開けた。中にはダンス教室で見たことのある女性講師が二人。
「こんにちは、」
ルリとは面識がないのか対応の仕方を迷っているような口調だったが、理央には見覚えがあったようで、いつもお世話になってます、と会釈した。
「じゃあ、お客さんに悪いから、私たち帰るね。お大事に」
気心の知れた仲間、と言う印象の会話を交わし、二人は病室を出て行った。扉が閉まる音がした瞬間、
「柊翔!」
ルリはベッドに駆け寄って柊翔に抱きついた。柊翔も両手でルリを抱きしめ、優しく髪を撫でる。理央はここにいるべきではないと悟り、二人に背を向けて病室を出た。後ろで理央を呼ぶ柊翔の声が聞こえたが、理央は戻らなかった。何も考えられず足早にエレベーターホールに向かうと、そこにはまださっきの二人組がいて、エレベーターを待っているようだった。
「もう、帰るんですか?」
理央に気づいて話しかけてくる。
「…俺がいたら、邪魔だから」
その答えに二人は顔を見合わせ、なるほどと言う表情をした。
「今のが柊翔の彼女さんなのね、」
理央はその言葉に、しまった、と思ったがもう遅かった。今更否定したってどうにもならないことを悟り、一人自己嫌悪に陥る。どうしてこんなにバカなんだろう。どうしてこんなところに来てしまったんだろう。もう頭の中がグチャグチャで、逃げ出したい気分だった。
「あの子のこと、好きなんだ。辛いよね、頑張れ」
勝手な想像で理央にそう声をかけ、二人は帰って行った。理央もそのまま帰るつもりでいたけれど、思いとどまって病棟に戻る。ルリを放って帰ると言う選択はできなかった。
『辛いよね』
それは片思いは辛いという意味に違いない。が、理央の思いは、片思いですらない。…俺は何を期待しているんだろう。冷静な声が頭の中で聞こえた。ルリと柊翔の関係は、自分が一番よく知っているはずなのに。どうして無関係の人たちにまで感情を悟られてしまうような行動をしてしまったんだろう。理央の中には後悔しかなくて、ただ何度もため息をついた。
しばらく経って、ルリが病室から出てきた。ずっとそこにいた風を装って、何でもない表情を作ってみる。
「急に出てっちゃうから、心配したよ」
どこ行ってたの?と咎める。
「だって、俺がいたら絶対邪魔だと思って」
それで飲み物を買いに出たと嘘をついた。いつの間にかスラスラと嘘をつけるようになってしまったことに、何だかまた罪悪感を覚える。
「柊翔と話さないの?今度は私がここで待ってるから、行ってきていいよ」
せっかく来たんだから。ルリはそう言って病室のドアを開け、理央を中へと押し込んだ。
「…おかえり」
扉から一歩入って、それ以上中へは進めなかった。まるで見えない結界があるかのように。それが自分で作り出した見えない壁であるとは知らず、気まずくて黙ったままの理央に、どこ行ってたんだよ?とルリと同じことを尋ねた。
「外」
不機嫌な返事しかできなかった。こんなはずじゃない。今日は手術が無事終わってよかったね、と笑顔で言うつもりだったのに、笑顔を作るどころか何も言葉にできなかった。柊翔はそんな理央をいつになく優しい表情で見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「今日は無理だけど、」
ベッドにもたれかかっていた柊翔はきちんと体を起こし、理央のほうを向いた。
「退院したら、一回会って話そう。お礼もしたいし、」
彼の言葉の意味が、その時はよくわからなかった。何を話す?お礼って?
「また連絡する」
どうやって?また手紙?そう尋ねたかったが、理央はふてくされた表情のまま、病室を後にした。
「喧嘩したの?」
理央くんと柊翔ってホント仲良しだよね、と呆れたように言いながら、ルリはもう一度病室のドアから中を覗き、柊翔に手を振る。当然理央はもう彼とは目を合わさず、気まずいまま別れることになった。何であんな優しい顔をしたんだろう。腹が立っているはずなのに、さっき柊翔が見せた優しげな表情がやけに気になる。
「連絡できるもんならしてみろ!」
モヤモヤした気分のまま帰宅して部屋のベッドに倒れ込んだ理央は、そう呟いた。連絡先も知らないくせに、連絡する、と易々と口にする彼に腹が立った。