1 幸せのさなか、突如響いた悲鳴。
どこまでも続く青い空の下、古木がなお林立する辺境の森に、若い乙女とエルフの少年がいた。乙女の名はイルザ。この地を治めるカミーレ辺境伯一族の長女である。燃え立つような赤毛に、透き通った湖のような青い瞳。整った顔立ちだが、左の頬に、斜めに入った古傷がある。美しいがどちらかと言えば精悍と呼ぶにふさわしい顔つき。軽装の上にレザーアーマーをまとい、腰に剣を下げたその姿は女性でありながらとても凛々しかった。
少年のほうはというと、エルフ族の特徴である長い耳、肩の辺りで切り揃えた黄金色の髪に、色素の薄い乳白色の肌。深遠の森のように濃い緑色の瞳、幼さの残る顔。少年の名はナック、辺境の地の森の奥にひっそりと暮らすエルフ一族の族長の息子だ。彼もまた軽装にレザーアーマー、弓と矢を背に負っていた。
「イルザ姉ちゃん!」
少年が乙女の名を呼んだ。乙女が少年のほうに振り向く。
「ナック……」
「もうすぐだねえ……へへっ」
ナックは喜びを隠しきれない様子で幼さの残る顔をゆるませた。
「本当に私で良かったのか?」
イルザがすこし翳りを帯びた表情でナックに問う。
「もちろん! 僕とイルザ姉ちゃんが結婚することで、僕の一族とイルザ姉ちゃんの一族が仲良くなれば、この地にもいいことだっていうのは確かにある。だけど、そんなのが無くても僕はイルザ姉ちゃんが大・大・大好きだから」
大好き、というところにありったけの強さを込めて、きっぱりナックが告げる。イルザの頬に朱が差した。
「わ……私も」
その先の言葉をゴニョゴニョと濁すイルザ。ナックはにっこりと笑った。
「嬉しいなあ。僕はイルザ姉ちゃんと共にあることが幸せなんだ」
イルザの頬の傷をナックは優しく撫でる。
「この傷は、僕のために付いた勲章だからね」
少し申し訳なさそうな顔をするナック。イルザとナックは子どものころから辺境の森を遊び場にして育った。ある時、森の珍獣、銀虎が襲い掛かって来たのを二人で撃退したのだが、その時にナックをかばってイルザの頬に傷が付いたのだ。
カミーレ辺境伯一族の長女として、どこか大きな貴族の一族と婚約を結び、勢力を拡大するという目的はこれで果たせなくなった。しかし辺境の森の守り人であるエルフの長一族と繋がりを持つのも悪くない。そう考えたイルザの父は、イルザとナックの婚約を認めた。二人はとても喜んだ。生まれてからずっと魂を分け合ったかのように、ともに時を過ごしてきた二人だ。エルフの長であるナックの父はこの婚約を引き受けたとき、ひとつだけ息子に諭した……「おそらくお前は最愛の人の老いと死を見ることになるが、それでも良いか」と。エルフ一族の寿命は人間よりもはるかに長い。ナックの父も母も齢200歳を超えているが、その姿は若い夫婦にしか見えない。ナックにとってイルザは初恋の人だ。人間と結ばれるエルフの例はそう多くない。しかし初恋が結婚という形で成就する喜びしか、今のナックにとっては考えられなかった。
「わ、私もナックが大好きだ!」
イルザは顔を真っ赤にして、ようやくその言葉を口にした。
「うん。イルザ姉ちゃん、一緒に幸せになろうね」
イルザとナックは手を取り合った。そしてどちらからともつかず、互いの唇を寄せようとした、その時。
「きゃあああ!」
森に悲鳴が響き渡った。