02.覚醒 / 大久保悠馬
――五メートルの距離を、一瞬で一号が詰めてきたと。
「信じられないが、どうやらそうらしい。俺の一瞬の隙を突いて高速で移動したんだろうな。絶句したよ。そして奴は腕を振りかぶると……いかにも凶暴そうなその腕で、俺の体を貫いた。思い返すだけでも、口の中に血の味が広がって来る。何とも言えず、嫌な光景だった」
――はい……。
「何が起こったのか全く分からないまま視線を下げると、俺の足が宙に浮いていて、腹には奴の腕が刺さっているんだ。何だこれ、と思った次の瞬間に訪れた、体中の神経が焼き切れるような言葉にならない激痛に、頭がおかしくなりそうだった。本当にあれだけは……何度も味わいたいもんじゃないな」
――その状況を分析した医師から、ショック死してもおかしくない状況だったと聞いています。
「だろうな……。俺はそこで死を覚悟した。笑われるかもしれんが、その状態で走馬燈も見た。このまま楽になるのもいいかと、安らかな心地を、安心感を覚えたりもした。そうして徐々に意識が薄れて行ったんだ」
――死を前にして、安心感を覚えたのですか?
「……なぁ、もう腹を割って話そう。俺の詳細なプロフィールなんかを、アンタらはとっくに調べ上げてるんだろ? 例えば過去の、病院の診断結果も……」
――それは……えぇ、その通りです。
「そうか。やっぱりな……なら隠すこともないだろう。俺は中学三年の頃に鬱をやっていてな。表面上はそれこそ、呑気な自分を演じていたが……。それが未だ完治していなかったんだ。担当医からは環境の変化や時間が解決してくれると言われ、当時も半年に一度は通院し続けていた」
――そのことは存じ上げておりました。鬱病は現代人なら誰もが一度は経験する病気です。私もなったことがあります。それに、過去のトラウマが原因となって発症するものは、簡単には治りませんからね。よく……分かります。
「そういえば、アンタは元精神科医だったか? 確か、ここに来る時にそんなことを聞かされたような……」
――えぇ、投薬治療ばかりで医療実績を上げようとする、どうしようもない元精神科医です。臨床心理士の資格も取得していましたが、現場ではなかなか……。
「そんなアンタが、なぜこの機関に?」
――精神科医にはよくある話です。担当していた患者さんが自殺してしまいまして。それが……少女だったんです……娘と同じくらいの。中学二年生だった。私が四十になったばかりの頃で、それで……まぁ、色々ありまして。
「そうか……アンタにも色々あるんだな。変なことを聞いてすまなかった」
――いえ、誰もがそうやって、何かを抱えて生きているのが現実社会の有りの儘の姿です。人の抱える苦悩の全ては分からない。肩代わり出来るとも思ってはいません。でも私は……人が好きなんです。
だから縁を頂いたのを切っ掛けに、こうしてここで、変な仕事をしているという訳です。などと自分で言っておきながら、何だか恥ずかしくなってきました。
「ははっ、少しだけアンタのことが、分かったような気がする」
――有難う御座います。それでは質問に戻らせて頂きます。当時は軽度の鬱病であったということですが、その原因はやはり……。
「あぁ……」
――春澤カナタさん。
「そうだ。俺とマサカドの共通の幼馴染だ。俺たち三人は、小さい頃は何処に行くのも一緒だった。カナタは明るいやつでな。本当に、太陽みたいで……」
――太陽ですか。
「いつも明るく笑ってるんだ。この世に曇り空なんか存在しないみたいにな。保育園の頃、俺は女々しい奴で、よく苛められて泣いていた。そんな俺に手を差し伸べてくれたのが、カナタだった。“ 一人で泣いてちゃダメだよ ”って……。だがカナタは、中学三年の頃に交通事故で死んでしまった。俺とマサカドを残して……」
――休日の早朝、自動車事故に巻き込まれたと聞いていますが。
「あぁ、犬の散歩中、カナタは酒が抜け切っていない男が運転する車に跳ねられて……死んだ。俺の世界は一瞬に色褪せたよ。それ以降、俺は死の世界に憧れを持つようになったんだ。生きている意味が、分からなくなった。あの怪物と、一号と遭遇した頃もそうだった」
――そうでしたか……。
「ただ、カナタが死んだ後は、マサカドも強い精神的なショックに苛まれてな。血こそ繋がってないが、二人は気の強い姉と臆病な妹みたいな関係だった」
――はい。
「マサカドはいつもカナタにひっついていて……マサカドが小学生の頃にモデルをしていたのは話したが、それが原因で苛められたことがあるんだ。それを解決したのもカナタだった」
――苛め、ですか。
「別にマサカドが嫌な奴だった訳じゃない。小学生の頃の苛めなんて、原因はあってないようなものだろ? 小学五年に上がって直ぐのことで、マサカドが気弱なところに付け込まれたんだと思う。俺とカナタとクラスが分かれたのも、関係しているかもしれない。まぁ、そんな中、カナタは苛めの主犯格の女に、真っ向から抗議に行ったんだ」
――それは、行動力がある小学生ですね
「カナタはそういう奴だったんだ。“ ユリちゃんを苛めるのを止めないと、私が全力でアナタを苛めるわよ ”とか言ってさ。ははっ……苛めはそれでピタリとなくなったみたいだ。それ以降、マサカドは前以上にカナタにべったりになった。髪型も真似たり、揃いのゴムバンドをプレゼントしたりしてな」
――では、カナタさんが亡くなると……。
「俺と同じように……俺以上にマサカドは傷ついていた。様子を見に行った時、明かりの灯らない部屋でクッションを抱きしめて、全てに絶望したような顔をしていたことを……よく覚えている。それも一日だけじゃない、数週間、そんな状態が続いていた」
――そうでしたか。あの、アナタとカナタさんは、ひょっとして……。
「あぁ……カナタが事故に遭う少し前から、付き合い始めていた。マサカドには内緒でな。いつか二人で話そうと思っていたんだが、結局、言えずじまいだった」
――そう、だったんですね。
「別に、そこに負い目を感じていた訳じゃないが……カナタが死んで、マサカドの虚ろな目を見た時、俺がマサカドを支えてやらなくちゃいけないと、そう強く思った。その時は俺も自分の鬱で大変だったが……俺が、俺が守ってやらなくちゃいけないと、そう思って、アイツを部屋の外の世界に連れ出したんだ。カナタがいなくても楽しい世界はあるんだと、アイツに示すようにな。それからも、そうやって必死に生きてきた」
――それがアナタの、行動原理でもあった。
「そうなるな。だが俺は、そうやってずっと……心とは裏腹な行動をとり続けていたんだ。話を戻すと、その時、一号に体を貫かれた時、あぁ、ようやく死ねると、そう思ったのも事実だった。これでカナタに会えると……」
――しかし、アナタは意識を取り戻した。
「あぁ……俺を呼ぶ声が聞こえたんだ。現実から強い声が、マサカドの声がな。アイツが泣き叫びながら、俺の名前を呼んでいた。その時に思ったんだ。俺がここで死んで、同じようにマサカドも死なせてしまったら……天国のカナタに顔向けできない。そう思った。気付くと目を見開いて、歯を食いしばっていた。もう俺は助からないだろうが、それでも、マサカドにしてやれることがあると気づいたんだ。目の前の怪物を少しでも足止めすることが……俺には出来ると。それが、俺が覚醒した唯一の意義だった」
――ドーキンスの悪魔一号の足止めをするために、アナタは覚醒した、と。
「自分が最後に出来ることが足止めとは、情けない話だがな。戦った……と立派に言える程に戦ってはいないが、ドーキンスの悪魔と対面した人間なら誰でも、自分の無力さに気付くことになると思う。それ位に、何もかもが違いすぎるんだ」
――それは……そうでしょうね。
「子供がソフトビニールの人形で遊んでいる時に、癇癪を起してその人形をなぎ払い、遠くに吹き飛ばしたとする。その時の人形が人間で、癇癪を起した子供がドーキンスの悪魔だ。俺たちは、奴等にとってはソフトビニール人形みたいなもんだ」
――後にドーキンスの悪魔の対応を命じられた警察官も、同じようなことを言っていたと聞きます。それで、どのように足止めを行ったんですか?
「動く筈のない右腕で、人差し指と中指――二本の指を揃えて、一号の目に突き入れた。殆ど声になっていなかったが、“マサカド、逃げろ!”と叫びながらな」
――その結果、ドーキンスの悪魔一号は……。
「一号は叫び声のようなものを上げながら、俺を地面に叩きつけた。痛みはあまり感じなかった。ただ、奴の腕が俺の胴体から離れて、あぁ、もうどうしようもないなと思った。何せ……体に風穴が通ってるんだからな」
――私には……想像もつかないような光景です。
「その時まで、俺もそうだった。意識が再び薄れ、どんどん体が楽になった。視界の端が次々と黒色に食われて行くんだ。それと共に、血と一緒に体温が流れて行くような奇妙な感じがした。最後に目の前に投げ出されている自分の指を見たんだが、持てる力を思いっきりぶつけたもんだから、見るも無残に折れていた」
――その時、指先に何か、粒子のようなモノが付着していたんですね。
「その通りだ。それが原因で、生き残ることになるとは思いもしなかったがな」
――ドーキンスの悪魔一号の核は、頭部にあったと思われます。核がどの程度の耐久性を持っていたのかは不明ですが、一号の目をアナタはかなり深く突き、指先が核に届いていた。
「みたいだな。それが仄かに発光した気がしたんだが、次の瞬間には消えていた」
――恐らく爪の間から体内に侵入したのだと思いますが、痛みはありましたか?
「いや、微かな痛みや違和感はあったのかもしれないが……感覚が薄れていく最中だったので判然としない。その光景を最後に、俺は目を閉じた」
――えぇ、それで……。
「列車が急ブレーキをかけた時のような、一号の叫び声を聞きながら、マサカドの泣き声が遠ざかって行くのを聞いていた。その声に安堵したよ。よかった、アイツはちゃんと逃げているのか、これでカナタに顔向け出来る、と、そう思ったんだ」
――はい。
「出来るだけ怪物の怒りの矛先が、俺に向けばいいと願った。俺の体を奴が飽きることなく切り刻んでくれればいいと。そうすればマサカドはより遠くに逃げることが出来る。笑いが込み上げてきた。ようやく、俺もカナタのところに行けると……」
――自身の体の変化を感じたのは、その直後ですね?
「あぁ、自分の体をまったく、他人のモノのように感じながらも、何故だろう、薄れていた意識が急にはっきりとして来たんだ。何だ……もう死後の世界にたどり着いたのか、と、そう思った。しかし目を開けると、現実の世界なんだ。カナタのいない、でもマサカドのいる世界。俺は何だか、立ち上がれそうな気がした」
――えぇ。
「事実、立ち上がることが出来た。その頃になってようやく腕の変化にも気付いたんだが……俺の腕は膨れ上がり、怪物そのものになっていたんだ。林檎の赤とも、血の赤とも違う、やけにメタリックな赤色をしていた。そして驚くことに、腹の傷も癒えていた。ドーキンスの悪魔二号の誕生という訳だ」