08.二人の絆 篠原黒香 / 大久保悠馬
――二十号を倒した後、大久保さんから名前を呼ばれてどう思いましたか?
「どうしてまだ覚えてるんだろうって、純粋に不思議に思いました」
――当時はもう、誰も、あなたのことを……。
「試したいことがあって、市内の実家に寄ってみたことがあるんです。二人はまだ体面を気にして、一緒に住んでて。リビングのソファで寝転がって、本を読みながら二人が帰って来るのを待ってたんですけど、パパが帰って来て、やっほ~って声をかけても、全然気付かなかった。認識も出来てない様子で、笑っちゃって。夜遅くに帰ってきたママも一緒でした」
――ということは、その頃には、もう……。
「私のことを認識してくれるのは、機械だけでした。雑多な町の光景がモザイクされる人混みの中、他人と肩をぶつけて、一人。っていうヤツかな? 弟が昔見ていた、再放送のアニメに、確かそんな歌があった気がします」
――その後に続く歌詞を、ご存知ですか?
「え?」
――果てが見えない緑の絨毯の中、風が吹き抜けて、一人。どちらだろうか、人が、泣きたくなる時は……と、続くんです。
「そう……ですか。あはは、さすが、元先生ですね」
――そんな状況下でも、大久保さんは黒香さんのことを覚えていた。いえ、正確に言えば思い出したんです。ドーキンスの悪魔と化した、あなたの姿を見て。
「そうみたいですね。泣きそうな顔で。YURINAちゃんがユーマのことを覚え続けてたみたいに、何か感情による作用があったのかは分からないけど、とにかく驚きました。そこにいるなんて思いもしなかったし、同時に困っちゃいましたけど」
――困る。それは、どんな心の働きからですか?
「アイツは、本当に、身近な人を幸せに出来る力を持っているのかもしれないって。完璧とはいえないけど、約束を、ちゃんと守ってくれてたから。あと、名前を呼ばれるのって特別なことなんだなって、魔法なんだなって思いました。長い間、とはいっても実際は大したことないんですけど、誰からも認識されないで、名前も呼ばれないでいると、何かす~っとしたものが体の内を通ることがあるんです」
――分かるような、気がします。
「それが本当なら人間のありの儘の状態なんだと思います。ゼロの状態。それなのに、その時、それとは別の、体の芯が温かく痺れるような感覚に襲われたんです」
――えぇ。
「アイツは私の名前を何度も呼んで、苦しそうな顔して、謝って。すまんって。ずっとずっと、忘れないようにしていたのに、忘れてしまってすまんって。私が、そんなのいいんだよって言っても、聞こえないみたいで。でも、もう絶対に忘れないって。私の姿、見えてない癖に、そういうことを言ったんです。謝り続けてたんです。馬鹿だなコイツ、私のことなんて覚えてなくていいのにって思いながらも、そういうのも含めて、なんだかちょっと、愛しく思えちゃったんです」
――それが困ることに、繋がるのですか?
「はい。ユーマはYURINAちゃんと歩んでいくべき人間だから、例えそれが、負い目から来ているとしても。それでも私のことなんて覚えてない方がいい。ドーキンスの悪魔とは誰かが戦ってて、ドーキンスの悪魔のこともあやふやになって、いつか全部過去にして、生きていけばいい。家庭を作っていけばいい」
――本心、ですか?
「えぇ」
――…………。
「…………」
――こんなことを、自分が言うのも不思議なのですが……。
「え?」
――本当は言いたい言葉。知ってもらいたい想い。そういったものを、言えないのは辛い。辛いです。私には、そのことがよく分かる。取り返しのつかない失敗をした人間だからこそ、分かる。本当に……よく、分かるんです。
「そっか……」
――大久保さんは、それからどうしましたか?
「俺は会って、お前に直接礼が言いたかったんだって……そう、言ってました。新しく生き直させてくれて、有難うって。ユリとは仲良くやってるぞ、馬鹿野郎って。カナタのことは忘れない、でも、捕らわれもしない、俺は俺の世界で生きていくって。そう、一人、虚空に向けて叫んでました。外では怪物が現れたって、騒動になってる中で」
――その後は?
「それからは……お前もいい加減、弟から自由になれって、言われました」
――弟さんのことは、大久保さんには話していなかったんですよね。
「そうです。だからアイツが色々と調べて、辿りついた結論から言ったんだと思います。でも、アイツが弟のことを知っていたのには、その時は驚きませんでした」
――それは、どうしてですか? 先ほども約束と仰っていましたが。
「自宅のマンションに戻って、暫くした頃、郵便受けにアイツからの手紙が入っていたことがあったんです。左手で書いた、小学生みたいな字で、お礼が綴られていました。そこに弟のことも書かれてて、それからアイツは、その手紙に書かれていたことと、まったく同じことを言ったんです」
――何と?
「穴は何をやっても埋まらないって」
――穴、ですか?
「はい。俺に空いた穴は永久に埋まらない。だから埋めないって。この先、色んなことがあって、過去よりも悪いことが起こっても、また穴が空いても、俺はそれを埋めないって。穴は埋めちゃいけないんだ。別の何かで塞いじゃいけないんだ。何をやっても、埋まらないし塞げないから。時々、その穴を見て、叫び声を上げたくなることもある。でも欠けた場所は、欠けたままにしておけばいい。その代わり、新しい何かが付け加えられて行くこともあるから。例えば今、俺に、お前が加わったようにって」
――そうですか。それがきっと、中学生の頃に大きな穴が開いてしまった、大久保さんが出した結論だったんでしょうね。
「そうだったんだと、私も思います。それで、お前が新しく生き直せるためなら、俺は何でもするぞって。お前が困ってるなら、俺はいつでも力を貸す。その為にも、お前のことを忘れない。覚え続けてやるって。手紙にはそう書いてあって、その時も同じことを言ってました。一度、忘れた癖に。もう一度、約束するって。約束を破ったら、針千本だって呑んでやるって、子供みたいなことを言って。私はそこで可笑しくなっちゃって、笑って、笑って、気づいたら、笑えなくなってて」
――はい。
「それで、ポケットに手を突っ込んだら、あるものが指先に当たったんです。何だろうと思って取り出したら、好きなブランドの、口紅のケースでした」
――口紅、ですか?
「私、口紅が好きで、人に認識されなくても色んな色を試してたんです。その日は、昔買ったけど使ってない、新しい色を試そうと思って洗面台に立ってたら、怪物の気配を感じて、その口紅を無造作にポケットに入れてたみたいで」
――なるほど、それで?
「雑貨屋さんだったから、近くに卓上ミラーも置いてあって。折角だから、鏡で確認しながら塗ってみることにしたんです。その間にもアイツは、何か言ってました。幸せになった俺を笑いに来るんだろうって。待っててやるから、笑いに来いって。でも俺が幸せになる為にはお前がいないと駄目だぞ、とか、そんなことを」
――大久保さんが……。
「中々上手く塗れなくて、どうにか塗り終わってもまだ叫んでたから。つい悪戯心が働いて、鏡に文字を書いた後、アイツの頬に触れてからその場を去りました」
――大久保さんは、どういう反応を取りましたか?
「振り向かなかったから、分からなかったけど、何か茫然となったような間を置くと、私の背中に向けて、また名前を叫んでました。お前のことは絶対に忘れてやらないからって、俺はいつまで経ってもお前が戻らないと不幸だぞって、そう……」
――そう、でしたか。
「それからバイクの停めてある場所まで走りました。自分の奥底から何かが込み上げてくるのを感じて、その正体もよく分からないまま、私はこれからどうなるだろうと考えて。怪物たちと戦い続ける。その怪物が全ていなくなった時、私はどうなる? もしその時、まだアイツが覚えていてくれるなら、それは救いかもしれないって思いました。世界で私の名前を呼べるのは、アイツだけなんだと思うと……」
――……それからも黒香さんは、二十一号と二十二号、そして二十三号から二十五号のドーキンスの悪魔と戦い、ドーキンスの悪魔事件を収束させた。もう怪物が、名古屋市内に現れることも、なくなったんです。
「ユーマが話してた白い怪物。ドーキンスの悪魔ゼロ号と、戦ってからですけどね。二十五号を倒した直後、直感があったんです。同じ怪物遺伝子から生まれた個体の直感なのかもしれないけど、これでもう怪物はいないって。そう思って直ぐに、桜の花が舞う季節に、ゼロ号はマンション近くの公園で、私の前に現れた」
――ゼロ号のことは特秘扱いとなっており、私も詳しいことは聞かされておりません。また、ゼロ号との戦闘に関する記憶は黒香さんからも失われていると聞きました。それでも何か、覚えていることはありますか?
「えぇ。最近になって、思い出したことなんですけど」
――はい。
「ゼロ号は私の前に現れると、祐希に姿を変えました。そして何処か別の世界に連れていかれ、その先で私は……長い時間を過ごした末に殺したんです」
――誰を?
「祐希の姿となった、ゼロ号を」
――そう、でしたか。黒香さんがゼロ号と接触して、消えた後、我々はアナタを一年近く観測することが出来ない状態にありました。ですがその間も一人だけ、あなたのことを覚え続けていた人がいたんです。その人の名が……。
「大久保悠馬、でしょ?」
――そうです。一度は黒香さんのことを忘れてしまった彼ですが、二十号が姿を消し、八号の姿のあなたと接触したその日から、あなたがたどんな人間で、どんな顔をし、どんな風に笑い、どんな風に悲しむのか。そういったものを慣れない左手でノートにまとめ、繰り返し、繰り返し、記憶の想起を行っていたようです。
「YURINAちゃんとは、どうなってたんですか?」
――私は藤崎さんともお話をさせて頂きましたが、お付き合いはされていなかったと聞きました。まだ結論が出せないから、と、自分に新しく生き直すチャンスをくれた人間が戻って来るのを待ちたいんだと、大久保さんは仰っていたそうです。
それを藤崎さんも受け入れたと、そう伺いました。彼女も、彼女自身が忘れてしまったあなたの話を大久保さんから聞き、時に大久保さんに喚起を促して、記憶の補完に協力していたと聞きます。二人で、あなたの似顔絵も描いたそうですよ。
「そっか。そうだったんですね。おひとよしな、二人だ。本当に……」
――大久保さんの記憶の保持に関しても、黒香さんが悪戯心で書いたと仰った卓上ミラーの文字が、とても大きな力を持っていたんじゃないかと、藤崎さんは語っていました。その文字に気付いた大久保さんは、その鏡を買い取ったそうです。
そして、あなたのことをしっかりと覚えている時には、大久保さんは、そこに書かれた文字が読めたそうです。その文字を読む度に、大久保さんは、あなたのことを強く、強く思い出していたんじゃないかと、藤崎さんはそう言っていました。
「はは……何が繋がりになるか、分からない、もんですね」
――本当に、そうですね。それで、黒香さんはそこに何と書いたんですか。
「別に、大したことじゃないですよ。お遊びみたいなものですから」
――それを、教えて頂けますか?
「実物が残ってるんなら、資料か何かで見てるんじゃないですか?」
――はい。でもすいません、黒香さんの口から聞きたいんです。お願いします。
「本当に、大したことじゃないんです。ただ一言……」
――えぇ。
「またね、って」
――鏡には、そう、口紅で書いてあったのですね。
「そうだ。アイツは鏡と……なんだ、俺の頬に跡を残して、そうして消えた」
――そうでしたか。そして大久保さんは一人、いえ、藤崎さんと協力して、黒香さんの記憶を保ち続けていたと、そういうことですね。
「あぁ、アイツにしろ、あんな言葉を残したんだ。透明人間みたいに認識出来なくなっていたとしても、アイツに関する世界の記憶が、俺の中に搾り滓みたいなものでしか残っていなかったとしても……ゼロじゃなければ、一さえあれば、また始めればいい。生きていればそれが出来る。生きていれば、世界に記憶は増え続けていくんだ。そういうことを繰り返して、アイツがいつか、俺みたいに、また色んな人間に認識されればいいと、そう思っていた。だから記憶を保ち続ける努力をした」
――二十号を撃破した後も、黒香さんはドーキンスの悪魔と戦い続け、やがて二十五号を、その後に現れたゼロ号を倒しました。
「アンタらが言う、“ドーキンスの悪魔事件“が、それで終わったんだ。名古屋市内から物騒な事件もパタリとなくなった。それに先行するように、ある時から急に、クロカの記憶が俺から失われなくなっていた。ひょっとしたら、もう全てが終わったのかもしれないと思った。しかし、だとしたら何故アイツは帰ってこないのか。例え認識出来なくても、何か合図を見せてくれてもいいと思った。分からないことを分からないままに、俺は待ち続けた。カナタの次はクロカかと笑われそうだが、縛られてたわけじゃない。俺は生き続けるために、アイツを待ってたんだ」
――そして、黒香さんが帰って来た。
「そうだ、ようやくな。アイツは……俺たちの世界に帰って来たんだ」
――その時のことについて、教えてもらえますか?
「今から二カ月程前のことだ。どうにか大学三年生に進級できて、クロカの記憶が俺から失われなくなって、一年近くが経過していた」
――えぇ。
「夕方、仕事の撮影を夜に控えたユリと、栄のスタボでお茶をしていた。その時にユリが、何気なく言ったんだ。本当に、何の気なしに、あり得ない言葉を」
――あり得ない、言葉?
「“あ~あ、KUROKA、早く仕事に復帰してくれないかなぁ”って」
――黒香さんが、復帰……。
「俺も当初、言葉の意味が分からなかった。今までもユリに、アイツのことは話していた。だがユリが知る、俺が言って聞かせたクロカと、その時口に出したクロカは、まったく響きが異なっていたんだ。そこにはまるで、友達のことを気軽に口に出すような、そんな響きがあった」
――それで?
「お前、今なんて言った? と尋ねると、“KUROKAのことがどうかしたの?”と尋ねてきて、“ちょっと待って、アンタが待ってたクロカさんって、KUROKAのことなんじゃ……”とか、何か自分でも良く分かっていないような、そんな混乱した素振りをユリはみせていた」
――はい。
「気付くと俺は、その場から駆け出していた。背後からユリが慌てて俺を呼ぶ声がして、どこに行くのかと尋ねられた。分からないと答えた。実際、自分でもどこへ向かおうとしているのか、まるで分らなかった。ただ足は何かに導かれるように、アイツのマンションへと向かっていた。右腕は依然動かないままだ。だが、走らなければならないと思った。左腕を振って。息が切れるまで、走ろうと、走れと」
――えぇ、それで。
「二十分、いや、十五分ほどでアイツが住んでいたマンションが見えてきた。夕方で、近くの公園が斜陽に燃えていた。ふと視線を向けて、目を疑った。誰かが、いつかの俺のようにベンチに腰掛けていたんだ。感情を持て余したような、どうして自分がそこにいるのか分からないと、途方にくれているような感じで」
――ベンチに、ですね。
「体が馬鹿みたいに震えて、呼吸も苦しくて、春なのに猛烈に寒いと体が感じていた。その感覚を振り切って、荒い息を落ち着け、俺はソイツの近くまで歩みを進めた。足音に反応してビクッと体を震わせ、ソイツが顔を上げた。ソイツは、泣いていた。黒い髪の、女だ。俺に見られていることが分かると目を瞬かせて、あれ、とか言葉を漏らし、自分の声が震えているのに気づき、頬に手をあてた。茫然と指に着いた雫を眺め、どうして自分が泣いているのか分からないでいる様子だった」
――それからあなたは、何か重要なことを言ったんですね。
「あぁ」
――何と、仰ったんですか?
「ば~~か、と言った」
――ははは、馬鹿と? その他には? 黒香さんに何と?
「あぁ、それからついでに――」
――えぇ。
「一人で泣いてんなよ、って言ってやったんだ」
「R.E.A.S.O.N./InterView KUROKA編」
――END――




