07.黒い稲妻 / 大久保悠馬
――カナタさんの死を、大久保さんは乗り越えられたのですね。
「随分と、時間がかかったがな」
――それからは、どのような日々を?
「それからはもう、クロカの居場所を探ることは止めた。せめて一言礼を言いたかったが、一度アイツのマンションを訪れたのを最後に、俺は俺の人生を歩み始めた。その日々の中で気付いたんだが、失われた存在の情報は、少しずつだが取り戻せるんだ。戦いの日々の中では力の行使の連続で失われていくばかりだった。でもそれは、日常の中でまた取り戻せるんだ。自分から世界に働きかけて、誰かに認識されて、少しずつだけどな。だからこそ、アンタらの機関に見つかった訳だが」
――えぇ、ある時から、今まで記録されていたドーキンスの悪魔二号の姿が、怪物ではなく、右腕を変化させた人間であることが分かったのです。それが暫くすると大久保さんだと判明し、コンタクトを取らせて頂きました。
「アイツがいなくなった、世界でな」
――そうですね。黒香さんはある時から、どこにもいなくなった。この世界で観測することが、出来なくなってしまったんです。彼女と接触らしい接触を取ったのは、大久保さんが最後でした。記録では、十二月の二十日となっていますが……。
「当時のことは、よく、覚えているよ」
――それではその日のことを、ドーキンスの悪魔八号と、いえ、黒香さんと遭遇した日のことを、教えては頂けませんか?
「分かった。あれはアンタの言う通り、クリスマス少し前の、土曜日の午前中のことだった。怪物の力を失い、数ヶ月が過ぎていた。隠しても仕方ないから本当のことを言うが、俺はその頃、アイツのことを忘れてしまっていたんだ。そういうことも覚悟して、準備していた筈なのにな……」
――準備。黒香さんのことを覚え続けていようと、そう考えていたのですね。
「あぁ。アイツの意図とは裏腹に、いつからか俺は分裂した自分が生まれていることに気付いた。その関係もあって、覚え続けていたかったんだ。アイツを」
――それは、どんな大久保さんだったんですか?
「ユリを好きでいたい自分と、クロカに焦がれている自分だ。もうアイツのことを、カナタの代わりとして見ている訳じゃない。アイツ自身として、クロカそのものとして、アイツのことをよく考えていた自分がいた」
――そうでしたか。
「それに、戦う毎にアイツが人から忘れ去られていくこと。それがアイツが選んだ人生だと、決断だと、そう断じ切れるほど、俺は強くなかった。世界中の誰が忘れても、俺はせめてアイツを覚え続けていようと思った。クロカへの負い目があって、その負い目に自分が醜くも自己納得をつける為という面も、きっとあったと思う。それでも俺はアイツを覚えていたいと、そう思った」
――なるほど。それで、準備というのは?
「怪物となってからの日々を、ワードで日記風に記録したんだ。アイツのことを忘れても、怪物たちの記憶が消える訳じゃない。怪物となった人間が忘れ去られることを、俺は身を以て知っていた。その前提となる経験が残っているからこそ、クロカという女がいたことや、そいつが俺の代わりに戦っていること。だから忘れてしまっていることを、日記を読めば記憶し続けることが出来ると考えたんだ」
――その結果は、芳しくなかったのですか?
「いや、試み自体は成功していた。だが俺は、致命的なミスを犯していた」
――それは、どういう?
「事実だけは、認識出来ていた」
――事実だけ?
「俺がクロカという女と出会い、そいつにカナタを見て、甘えて一緒にドーキンスの悪魔と戦ったこと。そいつには弟を亡くした過去があり、俺に手を差し伸べてくれたこと。そして今は一人でドーキンスの悪魔と戦っていること。だからこそ俺はユリと一緒にいられること。それが、そいつが残した願いであること」
――それの何が、問題が?
「クロカという名を見ても、まるで思い出せないんだ。ソイツがどんな奴だったのか。あるのは冷たい事実だけだ。雑誌の切り抜きでもいい。そういうのを張って、俺はクロカという人物そのものの記憶を想起し続けるべきだったんだ。だが当時の俺は、そこに思い到っていなかった。だから思い出せるのは、クロカという女がいた事実だけ。そいつがどんな顔をして、どんな風に笑うのか。クロカという女はどんな奴だったのか……そういったことが、全く、思い出せないんだ」
――事実だけとは、そういう意味だったのですね。
「あぁ、朝起きて、注意書きに促されてパソコンの中の日記を読み返す。忘れていた場合はそこで記憶が補完される。だがクロカという人物のことが、まるで思い出せない。そのことにどこか居心地の悪さを覚える。そんな日々が、続いていた」
――はい。
「その日もアイツのことを思い出せないまま、ユリと二人、クリスマスシーズン中の、星が丘にあるショッピングモールに来ていた。ユリは当時、完全にクロカのことを忘れていた。ただ今までの人生で見たことがないくらい、楽しそうに浮かれていたよ。俺も奇妙な居心地の悪さはあるものの、そんなユリを見て満足していた」
――その光景は、とても明瞭に想像出来ます。それから?
「そのショッピングモールをユリと歩いていると、一人でグズっている子供を見つけたんだ。ユリがそれに気づくと声をかけ、男だったが、怖がられないようにしゃがんで、“どうしたの?“って、世話を焼き始めた。俺は子供に怖がられやすいからな。それを少し離れて見ていたんだが……」
――えぇ。
「その子供、どうやら長い間、迷子になっていたらしくてな。暫くして、ユリが言ったんだ。“これからは迷子になったら、一人で泣いてちゃダメだよ“って。”歩いてる人とか、それが怖かったら、お店の人にちゃんと話すんだよ“ってな」
――“一人で泣いてちゃダメだよ”……ですか。
「懐かしい言葉だな、と、自然と微笑みを誘われた。カナタが昔、俺に言ってくれた言葉だな、と。だがその直後、何か違和感を覚えたんだ。カナタ以外にも、誰かが、それと同じようなことを言ってくれた気がする……と」
――その人は……。
「寂しい世界の真ん中に、突然放り出されたような感覚がした。思い出せない。とても、とても、大切なことだったのに。忘れちゃいけない、大切なことだ。意識の中で人影が揺れた。誰かがそこにいたんだ。髪の、黒い女だ。いつも飄々としてて、笑みを絶やさない女。その人影がまた揺れたんだ。誰か、思い出せない。絶対に、忘れちゃいけない女なのに。その女が笑っていた。左手を剣に変えて。黒い、剣に変えて。寂しそうに、笑っていた。一人でそいつは、笑っていた」
――ええ。
「気付いたら、呟いていた」
――何と?
「“くろか“……と」
――…………ドーキンスの悪魔二十号が、生活雑貨などを販売している「NOW & THEN」に現れたのは、その直後で間違いありませんか?
「あぁ、間違いない。俺が呟くと、ユリが“え?”と言いながら振り向いた。直後、すぐ近くの白塗りの店から叫び声が聞こえたんだ。ユリが立ち上がり、俺の足元から嫌な予感が膨れ上がった。子供と一緒にそこにいろと言い置いて、俺は店に飛び込んだ。学校の教室三つ分ほどの店内。その中央には青黒い怪物が、ドーキンスの悪魔がいた。そいつがピンクのエプロンを着た白いシャツの女を、右手を巨大な針のようなものに変えて…………刺し貫いていた」
――突き刺されていたのはアルバイトの女性で、山田弘美さん、当時二十三歳。ドーキンスの悪魔となったのは、店長であったことが最近になって分かりました。
「そうか……」
――力を失った後、ドーキンスの悪魔と対峙されて、どう思いましたか。
「久しぶりに見たドーキンスの悪魔は、圧倒的だった。殺戮を呼吸するような気配に、力を感じさせる禍々しい図体。悪魔、鬼。よくもあんなものと戦えていたものだと、正直な話、怖気に震えた。力を失い、左腕しかまともに動かせない俺には、何も出来ない。現れる予感さえ覚えることはなかった。衝撃で動けないでいる店内の人間に向けて、早く逃げろと、そう呼びかけることしか、出来なかったんだ」
――店内には、何名くらいの人がいましたか?
「ざっと見て、十名近くはいたような気がする。俺の一言で我を取り戻すと、叫び声を上げながら一斉に、何人かは転びながらも店の外へと逃げていった。怪物を外に出せば被害が広がる。俺は五メートルほど離れて奴と対峙した。自分に何も出来ないことは分かっていた。それでも、俺はそうせざるを得なかった。ただ……」
――ドーキンスの悪魔は、直ぐには襲いかかってこなかったのですね。
「そうだ。背を俺に向けると、入口から見て店の右奥へと向かって行った。何だ、と思う間もなく、怪物の進む先の方角から女の悲鳴が聞こえた。怪物が、針に刺さったままの女を奥へと放り投げる。悲鳴が絶叫に変わった。逃げ遅れていた女がいたんだ。気付くと俺は無我夢中で近くの鍋を掴んで奴に投げていた。当たってもものともしない。一度こちらに顔を向けると、再び、勿体つけるように歩を進めた」
――ドーキンスの悪魔、二十号……。
「金切り声が一段と大きくなった。俺には、俺には何も出来ないのかと、悔しくて左手で拳を作った。あそこにいるのは、誰かの愛しい人間なんだ。誰かの娘なんだ。こうなったら、怪物にしがみついてでも注意を逸らすしかない。ユリのことが瞬時に頭に浮かんだ。怖かった、恐ろしかった。初めて死ぬのが怖いと思った。それでも俺は覚悟を決め、声を上げたら……俺の横を、黒い稲妻が通り過ぎた」
――黒香さんが、その場に現れたんですね。
「そうだ」
――その後の詳細を、お聞かせ願えますか?
「あっという間の出来事だった。黒い怪物が、左手の剣で青黒い怪物に襲いかかった。振り返った怪物の、右手の巨大な針のようなものと剣がぶつかり合う。黒い怪物が振り払われ、壁に激突した。それでも奴は直ぐに態勢を取り戻し、咆哮を上げながら青黒い怪物と戦い始めた。青黒い怪物の方が格段にデカイ。だがスピードが違った。剣戟を数度交わし合い、黒い怪物が消えたと思ったら一瞬で懐に入り込み、青黒い怪物を突き刺していた。一体の怪物が姿を消した」
――黒香さんが、二十号を撃退したということですね。
「あぁ。視界の先には、黒い、しなやかな怪物がいた。左腕から剣を生やした怪物だ。意識の中で、また、誰かの人影が揺れた。心臓が強く鼓動したのを、よく、覚えている。俺はその怪物に、見覚えがあった」
――えぇ。
「そいつが俺に振り返る。怪物に表情なんかない。でも驚いたような、そんな気配が伝わって来た。誰かの影と、その怪物の姿が重なる。とても、とても大切な奴に。カナタじゃない、ユリでもない。もう一人の大切な誰か。ついさっき、思い出しかけた誰か。絶対に、忘れちゃいけない女だ。その女こそが、怪物だと。いや、あれは怪物じゃない。混乱したまま、訳も分からないまま叫んでいた。アイツの名前を、クロカという、あいつの名前を」
――はい。
「直後、クロカの記憶が奔流のように俺に流れ込んできた。愕然とした心地に襲われた。どうして、どうして忘れてしまっていたのだろう、と。黒い怪物が首をかしげた。直後、姿が消えた。変身を解いたんだ。見えない、見えない、認識出来ない。でも俺は、そこに確かに、アイツがいることを感じていた。フラフラと、近寄って、それで、俺は……」