天使の遺言
はあ、と健二は呟く。少し頭をかいて武谷を見ると、「なんだよそのやる気のない返事は」と苦笑された。
「よくわからないんですけど」
「どこらへんが?」
「全部です」
「お前ってよく大学まで来れたよな。質問の仕方が馬鹿そのものだぜ」
「質問じゃなくて、訴えです。わかりませんっていう」
訴えんなよそんなことで、と武谷は驚いて目を丸くした。武谷こそ馬鹿なんじゃないかと健二は思う。
「それで、なんでしたっけ。もう一回言ってくださいよ」
「今朝、天使を看取った」
そうでしたね、と健二は呟いてたまごサンドを頬張った。いつも武谷に「たまごサンドなんてガキの食いもんだと思ってたぜ」と馬鹿にされるのだが、今日は何も言われない。恐らくそんなことよりも口に出したいことがあるのだろうと、思ってはいたが。
「天使って、なんですか。猫?」
「ねこ? 猫も天の使いなのかよ、初めて知った」
「そうじゃなくて、天使ってなんか、愛らしい物の比喩で使うじゃないですか。武谷さんは一体何を天使だって言ってんですか」
「お前が猫派なのはわかったけどよ」困ったように武谷は眉を八の字にする。「比喩じゃねえよ、俺はストレートな男だから」
確かに、と健二は頷く。だけれどそうだとしたら、武谷は本気で天使などというものの話をしているのだろうか。
残念ながら武谷の顔は真面目そのものだ。
「俺と天使の出会いから説明しようか」
健二は腕時計を見る。午後の講義に出ようか出まいか、まだ悩んでいた。
「武谷さん、それって、韓国語の講義より面白いですか」
「それはお前がどれだけコリアンを愛しているかによる」
「韓国のりって美味いですよね」
「買ってやるよそんなの」
「じゃあ聞こうかな」
現金なやつだねお前は、と武谷が呆れた顔をする。それじゃあ話すぜ、と武谷は炭酸の抜けた炭酸水を口に含んだ。
家に帰ると、大体八時くらいになってるだろ? お前は違っても俺はなってるもんなんだよ。その日の特徴としては、たしか晴れてはいなかったな。雨でもなかったけど、月も星も見えない夜だった。
それで、そうだ。街灯があるだろ。田舎道に十メートルに一個くらい立ってるあれだよ。え、田舎にあるのは街灯って呼ばないんじゃないか? 街じゃないから? じゃあなんて呼ぶの? 虫寄せ灯かよ。あれすごいよな、めっちゃ虫集まって来てて。
そう、そんな虫が集まってる灯りのすぐそばのな。民家の塀の上に、女の子が腰かけてたんだ。だから俺は、「はた迷惑なネエちゃんだな、幽霊かな」と思って近づいたんだよ。普通は逃げる? そうだな、お前だったら逃げてたな。でも俺は近づいて行った。なぜならそのネエちゃんが美人だったからだ。幽霊というよりは、天使のように美人だった。それで俺は「こんなところでどうしたんですか? ラーメン食いに行きませんか」って話しかけたわけだ。……うるせえな、金がなかったんだよ。そしたらそのネエちゃんは、「なんのためにもならずにただ生きているだけで死ぬよりも、せめて誰かのために生きて死にたい」なんて泣きながら言ったんだ。「これは天使で間違いねえな」と思った俺は、「そんなことはまた明日考えることにして、とりあえずラーメンでも食いに行こうぜ、天使ちゃん」って言ってやったんだよ。
ここまで要約すると、どうやら武谷は精神が不安定そうだが天使のような美人をナンパし、見事ラーメン屋へ連れ込んだらしかった。
「それで、どうなったんですか?」
「その子はありえないほどラーメンを食べるのが下手だったよ」
「はあ」
「すするっていう発想がなかったんだろうな。ひとくちひとくち噛みしめて食べるもんだから増えるわ増えるわ。すすることを教えたら汁めっちゃ飛ばすし。結局、伸びて三倍くらいになったラーメンを俺が食べたよ」
「それで」と当惑しながら健二は肩をすくめた。「結局その子と付き合うことになったんですか」
ううん、となぜか武谷は唸る。そういうわけでもねえな、と。
「というか、その日は俺の部屋に泊めたんだがマジで何もなかったし、俺は次の日その子をチャリに乗せて家まで送った」
「親に警察呼ばれませんでしたか?」
「そこは俺も空気を読んで、親に会う前に帰ったよ」
「逃げただけじゃないですか」
だって実際何もなかったんだし、と武谷は笑う。逃げたも何もないだろ、と。
「それからだよ」目を細めて武谷は言った。「その子は何度も俺の家に来た。悪戯っ子の顔で、そうだ、ハロウィンってあるだろ。『トリックオアトリート』によく似た響きの『来ちゃった』で俺の部屋のドアを開けた」
天使ちゃんは人を救いたがっていた。名前? 知らねえな。俺は名乗ったけど、あの子は自分のことを特に言っていなかった。『天使ちゃん』って呼んでたぜ、それで不便なこともなかった。
天使ちゃんは俺の部屋に来ては、人を救う計画を熱く語っていった。まあ、二週間ほど経ってからかな。「これはもしかして俺に期待しているのか」と思い始めた。遅い? うるせえぜ。俺は鈍感ボーイなんだよ。それで、俺も可愛い女の子に期待されたら何もしないわけにいかないだろ。しかも天使だぞ? ここで天使様の意に沿えなかったら死後どうなるか恐ろしいじゃねえか。それで、「何がしたい?」って聞いたんだ。そうすると天使ちゃんは目を輝かせて、俺に箱を持たせた。そのまま駅まで連れて行けと言い、駅まで行くと三時間立たされた。俺の隣で天使ちゃんはにこにこして「募金お願いします」って通行人に声をかけてんだ。
募金だぜ? 俺が。え、今も駅で俺を見かける? どこで見てんだよお前。怖いわ、情報化社会怖い。そうだよ、今でも時々やってる。あれは慣れると案外快感だぜ。やってみればわかるって。合コンで目立つ方法なんて考えてねえで、駅で立って大声出してる方が目立つし印象もいいし女の子との出会いもある。やってみろよお前も。
まあ、いいわ。それで……どこまで話したっけ。そうだな、俺たちはそれから何度か慈善活動を行った。俺はほとんどあの子の足として扱われたが、それはそれで楽しかったよ。なんだか驚くほどスタミナのないあの子を負ぶって、地球何周分走ったことか。いや、これは大袈裟だけどよ。北海道縦断くらいは歩いたんじゃね? 別にどこで誰が幸せになろうと俺は興味なかったけど、天使が天使らしく笑ってるのは、世界がちゃんと回っているみたいでいい気分だったよ。
天使ちゃんはあれだろうな。人間の体に慣れてなかったんだろうな。よく体調を崩していた。でも、いいことをしている時は絶対に体調が悪くなったりしなかったよ。
一番楽しそうだったのは、その辺の子供たちを集めて公園で紙芝居を見せた時だ。あの時の俺の働きぶりは、お前に見せたかったよ。なんせその紙芝居を作ったのは俺だからな。もしかして才能があるんじゃないかと思ったぜ。まあ、天使ちゃんからダメ出しの末、テイク三十五くらいの作品だったけどな。あの子もあれで案外頑固だったから。紙芝居に関してはほんとにうるさかった。まあ、最初俺が作ったのは鶴が「体で恩返しを」って言って脱ぎ始めるやつなんだけど。見たいか? 破り捨てられたよ。
そうして半年くらい、俺たちは実現できる限りのいいことをし続けた。
いつの間にか、健二はその話に聞き入っていた。仕方なく取った韓国語の講義よりもずっと面白かった。だけれど、と健二は一息つく。もうすでに結末は知っている。
「死んじゃったんですか、その子」
「お前は本当に空気の読めないやつだな。なんでいきなりそんなこと言うんだよ」
「だって武谷さんが最初に言ったんじゃないですか。看取ったって」
しかし、そこで健二はなんとなく違和感を感じる。武谷はこう言ったのだ。『今朝、天使を看取った』と。もしその女の子が今日の朝息を引き取ったとして、そんなことを飄々と健二に報告する武谷は、正気だとは思えなかった。
「今朝、亡くなったんですよね」と健二は確認する。「違う、死んだのはもう三年くらい前だ」と武谷は肩をすくめた。
「ばったり来なくなって一か月が経ったころ、あの子の家に行ってみたんだ。一度しか行ったことがなかったから、つかないだろうと思ってたけどな。行けたよ。俺ってそれなりに記憶力高いのな。尊敬しろよ」
「してますよ、それで?」
「あの子の親に会った。俺のことを知っているみたいだった。命日だけ教えられて、その日は帰ったよ」
淡々と武谷は言う。どういう気持ちだったのだろう、と健二は思った。悲しかったのか残念だったのか、何も思わなかったのか。何より今までの話を聞いても、武谷と彼女の関係がはっきりとは分からない。仕方なく健二は、話を今朝へと進めることにした。
「それで、どうして三年前に亡くなった天使を、今朝看取ることになったんですか」
ああ、と武谷はどこか心ここにあらずという様子で呟いた。遺言だよ、と独り言のようにこぼす。
「俺が、カメラをなくしたって話はしたか?」
「はい」
「それで、新しいカメラを買ったってことは?」
「聞きました」
「そしたら、古いカメラが出てきたっていうのは」
「昨日じゃないですか。聞きましたよ。俺、『そういうもんですよね』って言ったじゃないですか」
「ああ、そうだな。そういうもんだ。そんな、一度捨てたようなものから凄いもんが出てきたりするんだよ」
そうかもしれませんね、と健二は頷く。話がどこへ向かっているのかわからず、少々当惑していた。
「新しいカメラを買ったからな、俺は古いカメラを売ろうと思ったんだ」
「ああ、そんなことも言ってましたね」
「でもその前に、何かデータが残ってたら消そうと思って。そしたらあったんだよ」
天使の遺言が、と武谷はちょっと虚ろな瞳で言った。「天使の遺言?」と健二はおうむ返しする。
「動画は二つ入ってた。一つは、あの子が真面目な顔でカメラのボタンを押して、真面目な顔のまま手を振っただけだった。きっと、カメラの操作方法を確認して、消すのを忘れちゃったんだろうな。可愛いよな。でも、あの子はこんなに細かったんだっけと思うと顔が引きつったよ。二つ目を見るのが怖かった」
健二は、武谷が午前中の講義で見当たらなかったことを思いだした。きっとその時間が、武谷のためらいの時間だったのだろう。
「二つ目の動画は、一つ目とは対照的に不自然なほど明るい表情のあの子がいた。そうだ、いつも俺の部屋のドアを開ける時とよく似てたよ。それから、武谷くん、といきなり言った。俺は背筋を伸ばして聞いた。『武谷くん、ありがとう。とてもいい、人生でした』それから少し考える素振りで、『また会いましょう』と言った。それだけ。それだけだよ」
最後だけなぜか自信がなさそうに小さな声で言ってから、武谷はちょっと目を閉じた。健二は、武谷が目を開けるのを待って尋ねる。
「武谷さんが今でも募金とかしてるのは、その子のためですか?」
それはどうだろうな、と武谷は言葉に詰まった。しばらくして、苦笑しながら武谷は言う。
「だってお前、いいことをしないと天国には絶対行けないんだぜ」
そうですよね、と健二はつられて苦笑する。「じゃあ僕も一緒にやっていいですか?」軽い調子を心がけて、健二はそう言ってみた。「僕も天国に行ってみたくなりました」
おいおい、と武谷は目を見張る。
「別にいいけどよ、もし天国に行ったら、絶対にあの子はやめろよ。違う天使ちゃんにしろよ」
わかってますよ、と健二は肩をすくめる。笑った武谷は天を仰いで、「天使が落ちてきそうないい天気だな」と呟いた。どちらかといえばその日は、重い雲の広がる曇り空だった。
結局彼らはどんな関係だったのか、どんな関係になりたかったのか、言葉にする必要性もなくなってしまったから。