一度だけチャンスを上げましょう、貴方はきっと何もできない
やりたいことが、たくさんあったのですね。
目の前の男は雪子にそう言った。彼は細身のスーツを着こなして、ワインレッドのネクタイを締めていた。
「それでは後悔しているでしょう」
天使というには卑屈すぎて、悪魔というには爽やかすぎる笑顔を、男は浮かべている。だから雪子は、その男が一体何者なのか計りかねていた。
「なぜ命を絶ったりしたのですか?」
やはり悪魔なのかもしれない、と雪子は息をのむ。いいのです、リラックスをして、と男は笑みを深くした。
「生きていられなかったから」雪子は恐る恐る呟く。「生きていられなかったから、死んだの。それだけよ」
やりたいことはたくさんあったけれど、それとこれとは別だった。
「やりたいことっていうのは、」雪子は目を伏せる。
「『自分が自分じゃなかったらやりたかったこと』だったのですか?」
先を越されて、雪子は目を丸くする。「死んでもそのように表情を変えられるのは、素晴らしいですね」と男が微笑んだ。それから、人差し指を立ててウインクをする。
「それでは、僕と遊びましょう。簡単です。貴方には、貴方と全く違う人間になっていただいて、生き返ってもらいます。何をしてもいい。あなたはまた死ぬまで自由に生きられる」
どうして、と雪子は青ざめて言った。一体何を犠牲にして、と言い換えてもよかった。
「いえいえ、別に何も貴方の物は欲しくありません。だけれど一つだけ、確認したいのです」
「確認?」
「一度だけチャンスを上げましょう、貴方はきっと何もできない」
「何も……」
「そんな貴方を、僕は愛していますから」
「あなたは、」
一体何者なの、と雪子は当惑して尋ねる。その瞬間に、男はその顔から笑みを消した。深い悲しみを込めた瞳で雪子を見つめる。「きっとそれも、貴方が思い出すことはないでしょう。それで構わないし、僕は」そこで一旦言葉を探し、続けた。「きっと貴方は何もできない。それを確認するためだけに、僕は貴方にチャンスを上げるのです」
わからない。けれど、
「また今度死ぬときには、あなたの名前くらいは思い出すわ。待っていて」
よい旅を、と男は笑った。旅というにはあまりに陽気さのない女の、再出発が始まった。
ああ、また雰囲気だけの小説を書いてしまった。




