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夜になり、照明器具が一切ないイオタの隠れ家は真っ暗闇そのものになる。そんな中で視界を照らすのは、外から洩れ出るネオンの明かりと、夜空に小さく浮かぶ白い月の光だけだ。
「今日は満月だよ、イオタ」
「そんなのどうでもいい」
隠れ家の裏手にある鉄製のドアに背を預けながら、イオタは部屋の中央に腰を下ろす少女へぶっきらぼうに言葉を投げかける。小さなひびの入った窓越しに外を見つめているミューが座っているところは、本来はイオタが寝床にしていた場所だ。昨日彼女を運び込んで以来、比較的ごみが落ちていないそのスペースは、そのままミュー専用となり、イオタは冷たい扉の前で寝起きするようになった。
「イオタ。昨日から、どうしてそんなところで寝るの?」
ミューが、少年の座るドアの方角に顔を向けた。こめかみを軽く掻いて、イオタが応じる。
「決まってんだろ。一度真人を寝かしつけた場所で、寝るのがいやだからだ。それで、今とても後悔してる。せっかくの夜の楽しみを、みすみすどぶに捨てた気分だ」
「うそ。それは、あなたがとても優しいからよ」
「ハア? おれが?」
イオタが両目をぱちくりと見開く。外からのぼんやりとした光でも分かるほど、呆然とした表情を浮かべた少年に、ミューはくすりと笑顔を見せて続ける。
「言葉はちょっと悪いけど、本当のイオタは誰にだって優しいの。昨日は軍から追われてたわたしを助けてくれたし。自分では気づいてなかったかもしれないけど、コッパくんの死体を見てたとき、イオタ、悲しそうな顔してた。わたしは知ってる。あなたが誰よりも、純粋で尊い心を持ってるって」
「ば、ばか言うな。このおれが優しいって。そんなわけがあるか。今の生活を始めてから、おれは人としての思いなんか捨てたんだ。きれいさっぱりな。騙されないぞ、嘘つきの真人め」
イオタが一息にそう言うと、しばしの沈黙が訪れた。外からにわかに聞こえてくる喧騒の声だけが、二人の耳に入る。数秒ほどの静寂を経て、最初に口火を切ったのはイオタだった。
「ごめん。言い過ぎたよ」
少年が小声で口にする謝罪の言葉に対し、ミューはゆっくりとかぶりを振る。
「ううん。けど、やっぱりあなたは、人を心から憎むことのできない人なのよ」
うるせえやい。小さく呟いて、イオタは足元にある埃まみれのカーペットを引っ張ると、それで自分の身体を覆い隠す。その様子を見届けて、ミューもまた、少年がかつて使っていた薄手の布団を自身の身体に纏い、その場に寝転がった。夜になり、さらなる寒さを吸収したコンクリートの感触に少し身を震わせていると、扉に座ったままの少年の声が、少女の耳に入る。
「なあ、ミュー」
「なに、イオタ」
「お前はどうして、そこまで『平和』ってものにこだわるんだ? そんな曖昧で不確かなもの、生きていく上で何の価値もありゃしないのに」
部屋中に木霊するイオタの声を耳にして、ミューは頬にかかっていた自身の長い金髪にそっと手を置いた。それを自分の肩の上に乗せると、少女はゆっくりと口を動かす。
「わたしね、二つ歳の離れたお姉ちゃんがいるの」
「えっ。お前、姉さんがいたのかよ」
イオタが素っ頓狂な声を発する。まだ話していなかったことだとはいえ、思いのほか驚いているようだった。ミューは半身を床から起こし、カーペットに包まった少年に再び顔を向けた。
「うん。わたしが生まれてすぐに両親が死んで、それからわたしは施設に預けられた。お姉ちゃんは叔父さんに引き取られたんだけど、わたしが軍隊に入る少し前に、叔父さんたちの住んでた街で、軍とゲリラとの激しい銃撃戦があってね。叔父さんは流れ弾に当たって死んじゃって、お姉ちゃんはその日からずっと行方知れずのまま。軍を脱走したのはね、お姉ちゃんを探し出したかったから、というのもあるの」
ミューの話を黙って聞いていたイオタが、彼女の顔を見ないまま、カーペットの闇に向けて尋ねる。
「もう一ついいか、ミュー。お前はなんで、王国軍なんかに入ったんだよ。おれよりも優しいお前が、どうして、ヒトゴロシをしようだなんて」
少年の問いかけに、ミューは思わず息を呑む。数秒ほどの間を置いて、少女は少し俯きがちに、やや震えた声で答える。
「それはね、死にたかったから」
ミューの口にした思わぬ一言を聞いて、イオタは思わず身体に纏っていたカーペットを引き剥がし、少女の顔を覗き見る。涙を潤ませたブルーサファイアの瞳は、月の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
「パパとママ、叔父さん、お姉ちゃん。立て続けにどんどん、わたしの周りから大切な人がいなくなる。わたしは、それに耐えられなかった。だから、死に場所を求めて、軍隊に入ったの。だけど、わたしは死ねなかった。軍では、わたしたち真人は戦場に立たないまま優遇されて、肌の黒い人たちだけが、わたしの目の前で、たくさん死んだ。その中には、真人だったわたしと、親しかった人もいたわ。軍にいて、わたしができたことは、誰かを見殺しにすることだけだった」
ミューの瞳から、大粒の涙がいくつも零れ落ちた。彼女の言葉も、合間に挟まれる嗚咽によって徐々に詰まってくる。
「それで、いつも思ってた。どうしてわたしだけは生きて、みんなが死ななきゃいけないのかって。どうしてわたしだけが、こんなに苦しい思いをしないといけないのかって。けどね、あるとき思ったの。このまま黙って、誰かが死ぬのを見てるより、助ける側の人間に回りたい。救ってあげられる人間になりたい、って」
そこまで言ったところで、ミューの視界の先にいるイオタが、扉から背を離すのがぼんやりと見て取れた。
「けど、だめだよね。わたし。本当に何も知らなくて、無力で。その上、いっぱい人を殺しておいて。他人事のように平和を口にしてた。それだけじゃ何の解決にもならないってことを、イオタに教えてもらわなきゃ、いつまでも気づけなかった。わたしは、偽善者だ」
「やめろ!」
鋭い叫声が部屋中に響いたかと思うと、ミューは自身の腹に何かがしがみつく感覚を覚えた。外から差し込んでくる青白い光を頼りに、少女がおそるおそる覗き見ると、イオタが両手で彼女の服を強く握りしめていた。耳を澄ませば、微かに泣き声も聞こえてくる。
「もう、自分を責めるな。死ぬだなんて、言わないでくれ。お願いだ、ミュー」
「イオタ、どうして」
ミューは、呆然とした様子で、少年の頭に目線を下ろす。
「どうして。わたし、真人なんだよ。イオタには、どれだけ恨まれても足りないほど、肌が白い人間なのに。そんなわたしが、あなたに許される筋合いなんて、どこにも」
「そうじゃない!」
イオタが、細い腕をミューの背中へと伸ばす。少しきつく抱きしめられた少女は、服越しに少年の体温のぬくもりを感じた。
「おれは、今も、真人のやつらが許せない。すっごく憎んでるさ。だけど、ミュー、お前だけは違った。どれだけ憎もうと思っても、憎めなかった。最初に会ったときから、ずっとだ。どうしてだか、おれもよく分からない。けど今は、お前を失うことが、何よりも怖いんだ」
そこまで口走って、イオタは、ミューの胸の中に頭を埋めた。少年の咽び泣く声を聞きながら、ミューは左手をイオタの背に回し、右手で彼の短い髪をゆっくりと撫でる。その体勢のまま、少女はイオタの言葉を頭の中で反芻する。
お前を失うことが、何よりも怖いんだ。
ミューは、生まれて初めて耳にしたその言葉の重みを、あらためて理解する。わたしは、誰かに望まれて生きているんだ。親や家族を失い、死に場所を求めて王国軍に入隊した後、彼に言われるまで、考えもしなかったことだった。
心の底から、必要とされている。
わたしは、一人なんかじゃなかった。
そのことを痛感したミューの両頬を、幾筋もの涙が伝った。それからしばらくして、少年の嗚咽が穏やかな寝息に変わったのを見届けた少女は、目を細め、小さな微笑みを作る。彼女の艶のある長い金髪は、淡い月光を浴びて、ダイヤモンドのように白く輝いていた。
「ありがとう、イオタ。わたしもね、あなたのことが好きよ」
そう言って、ミューはイオタの額に、薄いピンク色の唇を軽く当てた。
年端もいかない二人の人影は、お互いに抱き合ったまま、黒い闇と青白い光が交差する部屋の中で、静かに眠りに着いた。
◇
何匹もの鳥の飛び立つ音が、耳に心地よく響く。
ミューは、ゆっくりと瞼を開いた。朝早く、夜明けがまだ訪れていない黄昏の空は、上から順に深い青色からピンク、オレンジがかった白色で大別され、どこを切り取っても色の変化の流れがはっきりと分かるほどだった。
朝一番の寒さに少し身体を震わせながら、ミューは床から音を立てないようにして立ち上がる。彼女のそばには、ダークブラウンの肌をした幼い少年が、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てていた。
おはよう、イオタ。ミューは、彼を起こさないように、心の中で呟く。はじめて目にしたイオタの寝顔は、普段の口の悪さを想像させないほどの純粋な年相応の少年の顔つきであり、どことなくかわいらしいとさえ思った。
再び実感する早朝の肌寒さに、ミューはたまらず部屋の隅にやや乱暴に置かれた自身のローブを手に取り、慣れた手つきで素早く纏う。これで少しは寒さは防げる。そう安堵していると、鉄製のドアの付近から、何かがこつん、と小さくぶつかった音が耳に入ってきた。
何の音だろう。ミューがドアの方に目を向けると、再びこつん、と同じ音が聞こえてくる。
誰かが、扉越しにいる。
少女は、言い知れぬ不安を覚えながらも、このまま放って置いていいものかと考える。もしかしたら、相手は脱走した自分を追ってきた王国軍かもしれないのだ。
もしこちらが、何もしないで居留守を使ったら、どうなるものか分からない。自分だけならまだしも、無関係なイオタまでもが巻き込まれるのだけは避けなくては。咄嗟にそう思ったミューは、ちらと自分のほぼ真後ろで仰向けに眠っている少年の顔を見る。そして、一度深呼吸をした彼女は、意を決したようにドアへと近づいた。
ドアノブをゆっくりと回し、ほぼ無音で外開きに開ける。扉をゆっくりと動かしながら、ミューは徐々に外の視界を広げて、きょろきょろと見渡す。だが、そこには無機質なコンクリートの道と壁、所々に散らばった缶やビン、新聞などのごみが散らかっているだけだった。
ミューはさらに、後ろ手でイオタの隠れ家の扉を閉め、三メートルほどの幅がある道の真ん中に立ち、再度左右を見渡す。やはり、周囲に人影は誰もいなかった。
気のせいか。少女が深く息を吐き出した瞬間、一人の男が突如として、路地の壁の陰から飛び出した。
黒いトレンチコートを着た三十代ぐらいの細身の男は、コンクリートの道を素早く駆け抜ける。そして、ミューが悲鳴を上げるより先に、男は彼女を羽交い絞めにしていた。口を男の手で塞がれる中、少女の青い瞳がどうにか捉えた後ろに立つ人物の肌は、イオタのそれよりも黒く染め上げられていた。色黒の肌を持った男は、左手に持った短いナイフの切っ先をミューの左胸に添えると、低くどすの入った声で告げる。
「大人しくしていろ。お前をこれから、俺たちの組織へと連れて行く。命が惜しけりゃ、黙って従うことだな」
ぺろりと赤黒い唇を一舐めすると、男は自由を奪った少女の全身をじっと観察する。頭のてっぺんから、足の先まで、何度も視線を往復させた。ミューは、じろじろと自分の身体を覗き見る男にわずかばかりの抵抗を示すかのように、きっとブルーサファイアの目を細めて睨み付ける。対する男は、そんな彼女に怯む様子を見せないまま、ぶつぶつと独り言を呟いていた。
「昨日、スラム街で王国軍にいた真人の女を見た、というタレコミがあったから、半信半疑で女と一緒にいたガキの住処を探してみたら。まさか本当だったとはな。へへっ、こりゃあボスも喜ぶぜ。お前さんには、たっぷり軍の情報を吐いてもらった後、俺たちにたっぷりご奉仕してもらうんだからな」
永久に。そう言って、男は小さく、下卑た笑い声を上げる。ミューは、顔色に強い不快感をあらわにしながらも、ぐっと堪えた。今は下手に足掻くよりも、チャンスを待ってから逃げたほうがいい。そう自分に言い聞かせながら、ミューは男とともに一歩、また一歩と、イオタの隠れ家から離れていった。
少し歩いていくと、二人は閑散とした大通りに出た。朝早く、人通りの少ない古い通りには、見るからに不自然な真新しい黒の自動車がぽつんと置かれている。その周りには、サングラスを着けた色黒のスキンヘッドの男が二人、整ったスーツを着て棒立ちに立っていた。
お疲れ様であります、トンピ様。スキンヘッドの人物たちの呼び声に、ごくろう、とトンピと呼ばれる男は一言だけそう応じた。
「さっさと車を出せ。今ならこの女と一緒にいたっていうガキも眠ってる。気づかれずにやるんだ、早くしろ」
トンピがスキンヘッドの男たちに急かす。二人は、それぞれ車の運転席と助手席に乗り込むと、慌しくエンジン音を響かせた。やがて、助手席に乗った男が、思い出したかのように勢いよく車のドアを開けると、外に出て後方の席のドアを開ける。
何やってんだ、のろま。ドアを開けたまま、スキンヘッドの男が恭しく頭を下げているのに対し、トンピは一言だけ不愉快そうに吐き捨てた。
ミューは、自身の胸にナイフを向けられたまま、車の後方の座席へと誘導させられる。先にミューが入り、続いてトンピが彼女の隣の座席に腰を下ろす。すると、彼は小さく息を吐き出すと同時に、ミューに突きつけていた左手のナイフを放し、自分の足の上に置いた。
車の中へ連れ込んだ時点で、もはや籠の中の鳥も同然だ。トンピの表情は、今にもそう口走らんばかりに、完全に勝ち誇ったかのような満面の笑みを浮かべていた。
この男が完全に油断している、今がチャンスだ。そう直感したミューは、トンピから素早くナイフを奪い取る。思いのほか、簡単にナイフを奪取できたミューは、迷う様子を見せずに、黒い肌の男の太腿に鈍く光る刃先を突き刺した。
トンピが短い悲鳴を上げる。ナイフが深々と埋まっているその場所は、かつて少女が軍にいたときに聞いた、人体の急所並みに重要なところだ。
これで、思うように行動できないはず。ミューは、過去に学び得たことを心で反復し、口を真一文字に閉じる。車の前方であたふたと混乱するスキンヘッドの男たちを尻目に、トンピの身体を挟んだ先にある、未だ開いたままのドアへと一目散に駆け込んだ。
「このアマ、ふざけやがって!」
激しい痛みに耐え切れないのか、たまらず両手で傷口を押さえているトンピが、自分の目の前を悠然と通り過ぎる少女に対し、大きく目を見開いて叫ぶ。そんな彼の貌は、まるで聖書に出てくる悪魔のような狡猾さを、強く前面に押し出していた。
「ちくしょう、いまいましい真人め! 王国軍のメス犬が! 絶対に逃がすものか! 俺たちレジスタンスの、長く非人と蔑まれてきた連中の、積もり積もった憎しみと恨みの罰を、この身で味わいやがれ!」
不気味に響く叫び声を耳に挟みながら、ミューは黒い車の外に脱出する。通りには、ゆっくりと日が空に昇ってくるのを察したかのように、人の群れがにわかに形成されつつあった。この人混みに紛れてしまえば、男たちも自分を追うことは困難だろう。
それで、これから。わたしは、彼に会って別離の言葉を述べなければならない。王国軍ばかりでなく、レジスタンスにも狙われる身となった自分とこれ以上いるのは危険だ。
だけど。
少女は、ピンク色の乾いた唇を噛み締める。
悔しい。寂しい。辛い。大切な人と離れることが、胸が張り裂けそうになるほど、悲しいことだったなんて。
生まれて初めて感じた不思議な感覚に、ミューは白い頬を赤らめる。溢れ出しそうになる思いの丈を抑えるように、何度も瞬きを繰り返した。
イオタ。
心の中で、ミューは少年の名を呼ぶ。刹那、彼女の背後から現れた白いとも、黒いともつかない眩い閃光が、幼い少女の身体を飲み込んでいった。