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 翌朝、イオタとミューの二人はマルファリガーロ王国の首都の一角にある、スラム街の大通りを歩いていた。大通りは、色黒の肌をした人間でごった返しており、ぼろぼろの服を纏った彼らは、露天商と談笑したり、罵倒しあったりしながら、野菜や肉、衣類を手に持っていた。

 上下ともに薄茶色で統一された短パンとTシャツを着たイオタとは対照的に、ミューは黒い大きめのコートで全身を覆っている。成人した男性が纏うコートと、白い肌に金髪の少女の組み合わせは見るからに異様であり、すれ違った人が思わずミューの姿を振り返って再確認するほどだ。

 おい、あれ真人じゃねえのか。まさか、見間違いだろ。腐った食い物や、薄汚れた連中の臭いで溢れた場所に来るわけがないさ、あの真人様が。

 方々から民衆の話し声やひそひそ話が聞こえてくる中、ミューは、幼い少年が隠れ家に積まれたごみの山からどうにか見つけ出した古いコートにちらと目をやった。それから、彼女はばつが悪そうに灰色の帽子のつばをいじりながら、眼前を進むイオタを見下ろし、小声で尋ねる。

「ねえ、イオタ。コートが大きくて、少し歩きづらいわ。暑いし、人目も気になる」

「仕方ないだろ。それしか、お前に合う服がなかったんだから。昨日のローブで出歩いたら、軍の奴らにばれちまうぞ」

 イオタは、後ろを歩く少女を振り返らずに応じる。彼の視線は、左右に並ぶいくつもの露店へと向けられており、簡単に店の特徴を観察しては、忙しなく次を求めた。

「それは、そうだけど」

 ミューが、不機嫌そうに薄桃色の唇を少しだけ尖らせる。すると、前を歩くイオタが突如として駆け出していった。

 まって。ミューの呼びかけにも応じず、イオタはまっすぐに衣類が山積みにされた出店へと駆け出していった。商品棚のすぐそばに立っている店主と思しき老女は、道行く人たちに恭しく笑顔を見せながら、必死に服の宣伝をしている。

 お客さん、どうかね。ここらでは珍しい、綿でできた日本製のドレスだよ、安くしてやるから。けたたましい声で叫ぶ女を尻目に、イオタは小さく舌打ちをした。見るからに粗いドレスに、そんなでたらめをよく言うぜ。老女の言動と行動の浅はかさに呆れながらも、彼の目は山積みにされた獲物だけをしっかりと捉えていた。

 今ならやれる。

 せいぜい、上物の客が釣れる夢でも見ていろ。ババア。

 イオタは心の内でそう吐き捨てる。やがて、大量の衣類が並ぶ露店の机の角に立ち止まるや否や、細い右足で机の脚を力強く蹴り上げた。山積みにされた衣服が高く空を舞い、店主の女や近くに居た人間の、驚愕とも呆然ともつかない表情が並ぶ。イオタは、すぐさま腕を伸ばし、小さな手いっぱいに掴めるだけの衣類を掴み取る。

「走れ、ミュー!」

 少年が、後ろで唖然と突っ立ったままの少女へと振り向き、大声で叫ぶ。何が起こっているか理解できない、といった様子のミューに早足で近づくと、イオタは服を持った右手はそのままに、左手で彼女の柔らかい手を乱暴に握った。

「あっ、イオタ」

 ミューは、年下の少年に引っ張られながら、ゆっくりと彼のペースに合わせるかのように走り出す。大切な商品を返せ、クソガキ! 金切り声を上げる老女の声を遠くに聞きながら、イオタたちはスラム街の人波の中を無我夢中に駆けていった。



 必死に息を切らしながら、二人は狭い路地の中を進んでいった。左右には三階建てのコンクリート製の建物が並び、灰白色の塗装には所どころに縦に並んだ黒いラインが走っている。両足を不器用に進めていく中で、どこからか漂ってくる糞尿(ふんにょう)の臭いが、少女の鼻を刺激する。次第にはっきりとしてくる強烈な異臭に鼻を覆いたくなる気持ちを抑えながら、ミューは眼前を走る少年へと声を張り上げた。

「ねえ、イオタ、待って」

 少女の言葉を聞いて、イオタはぴたと足を止める。それとほぼ同時に、ミューも重くなりつつあった足を静止させた。程なく、イオタは右手に持った大小さまざまな衣服を強く握り、後ろにいるミューへと顔を向ける。

「なんだよ」

「良くないよ、こんなの。戻って、盗んだ服を返そう。それで、一緒に謝ろう」

「どうして。それがわざわざ、危険を冒してまでお前の服を調達してやった相手に言うせりふかよ」

 イオタの両目が、相手を威嚇(いかく)する猫のように細まる。ミューは、自分の心臓がゆっくりと締め付けられる感覚を覚えながらも、声を振り絞った。

「だって、大切なものを盗られたら、盗まれた人が悲しむよ。そんなことしてまで服をもらっても、わたしは嬉しくない。その人がものに込めた思いを、踏みにじることになっちゃう」

「踏みにじるだって? じゃあ聞くけどさ、ミュー。お前、そうやって誰かの思いを踏み潰さなきゃ生きていけない人間の気持ちを、考えたことはあるのか」

 イオタの問いに、ミューは思わず閉口する。まったく、考えたことがなかったのだろう。少なからず動揺を見せた少女の顔つきからそう直感した少年は、ちらと路地の向こうに目を向ける。その先にあるものを注視しながら、彼は年上の少女へさらに言葉を重ねた。

「おれは、父さんと母さんを殺されてから、この街で必死に生き続けた。数え切れないぐらい盗みも働いたし、ごみ箱の中のわずかな食べ残しで空腹をしのいだこともある。ストリートチルドレンと(さげす)まれて、いろいろな罵声を浴びせられて。たまに、逃げるのに失敗して店の主人にボコボコにされた日だってあった。それでも、おれはこうして生きてきたんだ。死に物狂いでな。これからも、そのやり方を変えるつもりはない。ああはなりたくねえからな」

 そう言って、イオタは『それ』を左手の人差し指で指し示した。ミューも、彼の細い指が向けられた先にあるものを、目で追いかける。そのまま、狭い路地の先へと視線を伸ばしていくと、赤土でできた通りが見えた。そこを行き交う、肌の色が黒い非人と、清潔な服を着た真人の群れの真ん中にぽつりとある『それ』を目にして、ミューは思わず自身の口を両手で覆う。

 そこには、イオタとほとんど年は変わらないであろう、色黒の少年の遺体があった。

 ほとんど肉が付いてない骨と皮だけの身体には、小さな虫が何匹もたかっており、わずかに開かれた唇からは枯れ木のように細い歯が露出していた。だが、十四歳の少女がもっとも目を疑ったのは、遺体の周囲を歩く民衆の誰もが、彼がそこに『いなかった』かのように、気にも留めなかったことだ。

 ふいに、ミューは強い吐き気に襲われた。思わずその場にしゃがみこみ、唾液の混じった吐瀉物をコンクリートの地面へと吐き出す。突きつけられた現実の重圧。自分が気づかなかっただけで、身近にある死の実感。それらを否定するかのように溢れ出すものを外へ出し続けるミューの傍らで、十歳の少年が独り言とも、彼女への最後の追い討ちとも取れない口調で話す。

「あいつの名前はコッパ。ほとんど関わることはなかった奴だけど、おれが今までで知ってる奴らの中でも、無駄に心のきれいな方だったよ。希望だとか、信じるだとか、口を開けばそればかり抜かしてやがった。おれと同じストリートチルドレンのくせに。食うものにも困ってたくせに。最期まで馬鹿な奴だ」

「そんなこと、ない」

 荒々しく呼吸を整えながら、ミューはイオタの顔を見上げた。顔中が涙と鼻水、涎で濡れた彼女の青い瞳からは、強い何かが滲み出ているように少年には見て取れた。コートの袖で口元を拭いながら、ミューは続ける。

「その、コッパくんは、きっと信じてたんだよ。いつだって、笑って暮らせる世界を。平和な時代が来ることを」

「また平和とやらの話か。馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿なんかじゃない。きっと誰かが、心の底から望んでいることを、軽々と口にするのは、いけないことなの? 間違ってるの? イオタ、あなただって、本当は」

「もういい」

 ふん、と鼻を鳴らすと、イオタは(きびす)を返し、再び路地を歩き始めた。手に持っていた服には、所どころに深い(しわ)が寄っていた。この女が昨日から事あるごとに吐き続ける『平和』という単語。それをかたるのは、上っ面だけの綺麗事を口にできる真人だ。信用できない。できるはずがなかった。

 そのとき、一陣の風が二人の身体に吹き付けた。冷たい秋風を目を伏せることで耐えていると、突如イオタの顔に白い紙が張りつく。

「うわっ」

 イオタは短い悲鳴を上げると、空いた左手で顔に付着した紙を器用に取り除く。手に持ったものをあらためて見ると、それは紙一面に文字がびっしりと書き込まれたビラであった。

 イオタは、紙の上に赤いペンか何かで殴り書きされた文字をじっと凝視する。何度か露店などで目にした『アルファベット』と呼ばれる異国の言葉だ。だが、それが何を意味しているかについては、教育を受ける前にスラム街で暮らすようになった少年にとっては無縁なものであった。

 くだらない。イオタは、ビラを丸めて後ろへと投げ捨てた。そのまま、前へと二、三歩、足を進めたところで、ミューのはきはきとした声が聞こえてきた。

「『このビラを読んでいるきみたちへ』」

 イオタが思わず後ろを振り返ると、そこにはミューが先ほどのビラを広げて立っていた。アルファベットの意味が分かるのか、こいつは。イオタが感心していると、ミューがゆったりとした口調でビラの続きを読み上げた。


 二十一世紀が始まって、はや九十年の歳月が経とうとしている。

 だが、我々人類は未だに本当の意味で平和を掴み取ることはできていない。

 我々は二十世紀から引き続き無益な戦いを重ね、その結果多くの人の命が失われ、そのたびに涙を流してきた。

 どうか、このビラを目にしているきみへ。

 これから先、戦争や紛争で誰かが犠牲になることのない二十二世紀を築くために、力を貸してほしい。それは、たとえどんな小さなことでも構わない。戦いに反対する心を持つきみたちの力が必要だ。一人ひとりが、心の安寧と明日の希望を強く望めば、世界に必ず平和が訪れる。

 ともに抗おう、戦に巻き込まれて隣人が死んでいく時代から。

 ともに望もう、新しい命を育んでいくことのできる時代を。

 次の世代の子供たちの笑顔が見たい、きみの同胞より。


 一通りビラの内容をミューが読み終えると同時に、イオタは言い知れぬ悪寒を感じた。これを書いた人間は、誰もが戦争に反対しようとしない限り、平和なんて訪れないと宣言しているようなものだ。

 そんなこと、ありえない。平和のためだけに戦いから手を引くことなんて、そう都合良くできるもんか。こんな馬鹿げた戯言(たわごと)を考えた奴は、頭がどうかしているのか。

 くだらないおとぎ話を聞くだけ、時間の無駄だった。少年の心の内に、強い後悔の念が湧き上がる。

「良かった」

 イオタの正面に立つ少女は、ビラを持った両手をゆっくりと下ろす。彼女の両目からは、一筋の涙が流れていた。どうしたんだよ、怪我が痛むのか。イオタがそう口にしようとしたとき、ミューは涙声で呟いた。

「平和について考えてる人が、この国にもいたんだ。嬉しい」

 ミューは、両手で(こぼ)れた涙を拭うと、穏やかな微笑を浮かべた。対するイオタは、彼女の表情を目にして、言い知れぬ安堵感を心の奥底で感じ取っていた。

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