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 西に日が傾き、狭い部屋の一角にピンクとオレンジで彩られた光が差し込むと同時に、少女は仰向けの体勢のままゆっくりと両方の瞼を開けた。目に入ってくる光の量を調節しながら、徐々にはっきりとしてくる少女の視界に、古いクモの巣があちこちに張られたコンクリートの天井が映る。さらに左右に首を動かすと、天井と同じコンクリートでできた床の上には泥や垢などで汚れた生活用品があちこちに散乱しており、中には灰色の埃一色にコーディネートされたものもあった。自分が今いる部屋の様子を観察すると同時に、少女のローブ越しに固く冷たい床の感触がひしひしと伝わってくる。

 ここは、どこだろう。少女は、小さくそう口にする。

「気がついたか?」

 どこからか聞こえてきた甲高い声に、少女は咄嗟に半身を床から慌しく起こした。その瞬間、彼女の全身を鈍い痛みが駆け巡る。奥歯を噛み締めて痛みに()えていると、陽光と夕闇が等しく共存する部屋の片隅から、ダークブラウンの肌をした小柄な少年が現れた。

「怪我自体は大したことないけど、けっこう疲れてるみたいだから、少し大人しくしたほうがいい。まったく、感謝してくれよ。おれがいなかったら、外の奴らの紛争に巻き込まれるところだったんだぜ」

 短い髪をぽりぽりと掻きながら、快活な口調で話を進める少年の顔を、少女はじっと凝視する。彼の華奢な体格から察するに、自分より年下らしいことが見てとれた。少女の視線を受け、少年は少し俯きがちに言葉を続ける。

「なんだよ、お前。そんなにじろじろ見て。余計なおせっかいだったかよ。おれに助けられるぐらいなら、あのまま巻き込まれてた方がよかったか」

「違うの。ただ、あなたが助けてくれたことに、少しびっくりしただけ。ありがとう、わたしを助けてくれて」

 そう言って、少女はにこりと眼前の少年に微笑む。対する少年は、少女の無邪気な笑顔に戸惑いを隠せなかった。非人である自分に対して、何かしら取るに足らない罵詈雑言の一つや二つを浴びせかけてくると思っていたからだ。けれども、彼の予想は大きく外れた。予想外の事態に動揺を隠せないまま、少年は少し声を裏返らせながらも口にする。

「真人のくせに、変わった奴だな。ところでお前、名前は?」

「なまえ?」

 少女は、少年の発言をオウム返しする。それから少しの間をおいて、少女は薄いピンク色の唇をゆっくりと動かした。

「ミュー。わたしの、名前」

「ミュー、か。結構変わった名前だな」

「あなたは?」

「おれか? おれは、イオタって言うんだ」

 少年――イオタの名前を耳にして、少女――ミューは首を傾げた。な、何だよ。イオタが、目をぱちぱちと瞬かせながら、困惑の様子を顔に描き出す。ミューは、微かな笑みを唇の端に浮かべると、雪のように白い右手を口元へそっと寄せた。

「あなたも、変わった名前ね。イオタ」

「う、うるさい。大きなお世話だ」

 イオタは、焦りをかき消すかのように、耳まで熱く紅潮した顔を左右に揺らす。額にわずかに汗を浮かべながら、彼は床の上で半身を起こしている少女を真顔で見下ろした。

「そんなことより、説明してもらうぞ。ミューが、どうして王国軍(やつら)に追われていたのか。連中の様子から察するに、お前何かよっぽどのワケアリなんだろ」

 若干まくし立てるかのように、イオタは口走る。生活に困窮して犯罪を犯したり、あるいは何かしらの理由をつけたりして、老若男女を問わずさまざまな非人を追い回す王国軍の姿を、イオタは何度か目にしたことがあった。白い肌を持つ人間が偉い立場を占めるこの国が、真人を使って、同じ真人を執拗(しつよう)に追い詰める。その事実は、少年にとって衝撃的なものであり、そして滑稽(こっけい)なことこのうえなかった。

 真剣な面持ちのイオタに対し、ミューは二、三回ゆっくりと瞬きをすると、はっきりと通る透明感のある声で口にした。

「軍隊から、逃げてきた」

「それは分かってる。だから?」

「そうじゃなくて。わたし、二年間軍にいたの。そこから、逃げ出したの」

 ミューが抑揚のない声で発言した内容に、イオタはぺたんとその場に腰を打った。口をパクパクと動かしながら、少年は眼前の少女が口にした言葉を整理する。

 こいつは今、確かに『軍にいた』と言った。それは紛れもなく、このマルファリガーロ王国における王の忠犬として名高い、王国軍のことだろう。彼らは、この国のどこかでほぼ毎日のようにレジスタンス組織と抗争を続けている、文字通り戦いに長けた精鋭集団だ。そこでは現在の王国と同様に、白い肌を持った真人を頂点に、黒い肌を持って生まれた非人ばかりが激しい戦闘の最前線に駆り出されるという、あからさまなヒエラルキーが形成されている。

 だからこそ、イオタはミューの発言に驚愕すると同時に、疑問も抱いていた。命を落とす心配をする必要がほとんどなく、国民に課せられた重税で毎日豪華な料理を食べられる真人の兵士が、どうして自らの安定した立場を捨てたのか。少年が(いぶか)しげな面持ちで低い唸り声を上げるのを目にして、ミューは質問に答えていくかのように、すらすらと言葉を紡ぐ。

「わたしはね、イオタ。二年前に王国軍に入ってから、戦場にもほとんど出なかったし、出たとしても安全なところから見てるだけだった。だけど、そんなことをただ繰り返してるだけでいいのかなって、あるとき思ったの。何と言うか、わたしたち真人が、肌の違いだけで誰かを虐げてきたのが、ほんとうは間違ってる気がしてならなかった」

 それで。少女がそこまで口にしたところで、イオタが低い声で促す。ミューは、少年のねずみ色の瞳を真っ直ぐに見据えて続けた。

「だから、わたしは変えたいと思った。わたし自身を、そして今の世界を。それは、端から見たら真人という立場から感じた、非人への憐れみに映るかもしれない。だけどね、これだけは言える。わたしは、みんなが笑って暮らせる平和な世界を、どんなことがあっても作りたい。たとえエゴだと後ろ指を差されても、わたしは何度だって言い続けたい。そのためには、軍にいるべきじゃないって思った。だから」

「逃げてきたって、そう言いたいのか」

 ミューが最後まで言い終える前に、イオタが遮る。彼の右手に握られた拳には、長く伸びきった白い爪が食い込んでおり、掌が赤黒く染まっていた。イオタは、ミューを鋭く睨みつける。そんな少年の目には、涙がいっぱいに溜まっていた。

「ふざけるなよ。何が憐れみだよ、平和だよ。お前たちの、いいやお前のせいで、おれの父さんと母さんは死んじまったんだぞ。紛争に巻き込まれて、流れ弾に当たったおれの親に対して、お前らは何をした? 見て見ぬふりをした!」

 イオタが腹の底から叫ぶ。幼い少年の力強い大声に、ミューは思わず全身を小さく震わせる。彼女のサファイアを思わせる瞳は、イオタの顔だけを瞠目していた。

「そいつらはな、ミュー。お前と同じ、肌がとっても白い真人だったよ。だからこそ、おれは肌の白い人間を見ると、憎しみばかりが沸き上がってきて、どうしようもなくなる。下手したら殺しそうになるほどだ。その度に、何度カミサマというものを恨んだことか」

 ここまで一息に言って、イオタは大きく深呼吸をする。一回、二回。長く吐き出される息は、イオタが吐露した人生の負の部分を掃除するかのように、ミューには感じられた。少し落ち着いた顔色を取り戻したイオタは、先ほどの激情的な勢いとは対照的に、ぽつりと消え入りそうな声で呟いた。

「出て行ってくれ。ここは、美しい生活を好む真人サマのいるところじゃない。もう分かったろ」

 イオタの言葉に、ミューは静かにかぶりを振る。どうして? 冷静に問いかける少年の言葉に、少女は目を伏せながら淡々と答えた。

「わたしもね、帰る場所がないの。パパとママは、わたしが生まれてすぐに流行り病で死んじゃったから。軍を抜け出した後、これからどうするか、本当を言えばまったく当てがなくて。それでね、すごくワガママに聞こえると思うけど、イオタ。あのね、少しの間でいいの、一緒に居させてくれない? 迷惑でなければ、だけど」

 ミューの言葉に、イオタは自分の耳を疑った。一緒に暮らしたいだって? 冗談じゃない。こんなタチの悪い真人と生活するだなんて、想像するだけでも虫唾(むしず)が走る。握り締めたままの拳に、鈍い痛みを感じ取りながら、イオタはゆっくりと告げた。

「さっきも言ったけど、おれはあんたたち真人を恨んでる。おれと一緒に居たいと言うなら、一つだけ聞かせろ」

 真剣な面持ちの少年に、少女は長い金髪を揺らして頷く。

「こんなおれに殺されてもいいという覚悟が、お前にあるか」

 刹那、ミューは自分の心臓が激しく揺さぶられる感覚を覚えた。殺されてもいいという覚悟。ミューは心のうちで少年の言葉を反芻(はんすう)する。

 イオタの思いを聞いて、まったく同情しなかった、と言ったら嘘になる。かといって、簡単に死ぬと答えるのには抵抗があった。わたしは生きたい。幼い少年相手に殺してください、と言う人はほとんどいないだろう。十四歳の少女は、あらためてその常識を再認識する。

 死ぬのはいやだ。怖い。かつて王国軍の兵士として戦場に立ったときに目にした、兵士やレジスタンス組織の人間、そして老若男女に富んだ国民の惨たらしい(むくろ)が脳裏に蘇る。

 あんなひどい死に方はしたくない。

 しかし、この先ひとりで、実質無法地帯と化した王国の中で住まうのには、ミュー自身も不安があった。

 これからこの王国で生きて、自分の思いを実現させるには、力がいる。それは、一人では到底得られることのない、大きな力だ。

 それを得るために、目の前の少年に返す答えはもう決まっていた。少女は、迷いを振り払って一息に告げる。

「分かった。イオタのお父さんとお母さんを、わたしたちが見殺しにしたことは謝る。だから、イオタがわたしを殺したいと言うなら、殺せばいい。けれど、わたしはまだ生きたい。生きて、平和な世界を作りたい。そのときはイオタ、あなたも一緒よ」

 ブルーサファイアの瞳に見つめられながら、はっきりとそう返されたイオタは、苦虫を噛み潰したかのような表情を見せる。そのまま、小さく溜息を吐いた。

「分かったよ、好きにしろ」

 半ば投げやりにイオタは応えると、ミューから背を向けてすたすたと歩を進めた。その先には、大部分に赤錆が付着した流し場があり、側にある小ぢんまりとした椅子の上には乾パンが置かれている。パンの周りは、赤いリンゴの皮で覆い尽くされていた。

 イオタは乾パンを手にすると、それを二つに割った。リンゴの皮が零れ落ちそうになるのを押さえながら、少年は両手のパンをローブを着た少女へと持っていく。

「それは?」

 ミューが見たことのないものを目にした疑問を形にしたかのような質問をする。対するイオタは、移動する途中で右手に持った乾パンとリンゴの皮にかぶりついており、むしゃむしゃと噛み砕きながら彼女の言葉に応じた。

「アップルパイ」

 えっ? 少年の口にした一言に、ミューは思わず目を(みは)る。すると、イオタが彼女に向かって左手を差し出した。その手に握られた、乾パンをリンゴの皮で埋め尽くしたもの。それは、ミュー自身が見知ったアップルパイのそれとは似ても似つかない代物であった。呆然と眼前のパンを見つめるミューに顔を向けて、イオタは唇の端から小さな食べかすをこぼしながら告げる。

「死んだ母さんが、いつもおれに作ってくれたものさ。美味いから、食えよ」

 少年の言葉を聞いて、ミューはおそるおそる『アップルパイ』を手に取った。そのまま、それをゆっくりと口の中に入れて、彼女自身の白い歯で噛み千切る。

 その瞬間、ミューは自分の口内で、乾パンとリンゴの皮が不思議な甘味を口いっぱいに広げていくのを実感した。その味は、今までに彼女が食べたどの食べ物よりも甘美で、独特の温かさがあった。

「おいしい」

 ミューの口から、素直に思った感想が漏れる。そのまま、彼女は矢継ぎ早に目の前のアップルパイへと唇を向け、それを頬いっぱいに詰め込んだ。その様子を見たイオタは、口の中にあるものを飲み下すと、小さく嘆息してみせた。

「なかなか食い意地が張ってるな、お前。そこらの非人も真っ青な食い方してるぜ」

「だって、おなか、すいてたんだもん」

 ミューが口の中にあるパイを噛み砕きながら応じる。あっそう。ぶっきらぼうにそう言うと、イオタは右手に残ったアップルパイを一気に口の中へ放り込み、数回噛んでから飲み込んだ。やがて、少年は手近においてあった古い褐色のカーペットを手に取る。所どころに虫食い穴のあるそれを一瞥してから、イオタは、残りわずかなアップルパイを口にする少女へと目を向けた。

「もう夜になる。おやすみ、ミュー」

 えっ? ミューの返事にも応じず、イオタはまっすぐに、隠れ家の裏手にある鉄製のドアへ歩を進めた。ドアの前でつと立ち止まると、彼はそのまま腰を下ろし、扉を背に預け、手に持ったカーペットの中に自らの身体を(くる)む。

 その体勢のまま、少年は顔だけをミューへと向けた。彼女のすぐ後ろにある窓からは、群青(ぐんじょう)に染まった空が見え、夕日に照らされた橙色の空はほとんどかき消えていた。薄闇の中にぼんやりと見える少女の表情は、少し困惑しているようにも、呆然としているようにも見えた。イオタは、先ほどの言葉について補足するかのように、あらためて説明する。

「言い忘れてたけど、ミュー。この家には灯りがない。だから、夜になったらさっさと寝る。ここでの決まりみたいなものだ。分かったら、もう寝ろ。起きててもいいけど、騒がしくするなよ」

「うん。分かった」

 ミューは小さく頷いた。頭が動くのに合わせて、金色の長い髪がふわりと揺れ、彼女の顔に数本ほどの髪がかかる。左手でそれを払いのけながら、ミューは言葉を続ける。

「イオタ」

「なに?」

 イオタは小さくあくびをしながら、気だるそうに応じる。それに対し、ミューは屈託(くったく)のない笑顔を少年へ向けた。

「本当にありがとう。わたし、イオタのそばにいられて、とても嬉しい」

 その言葉を聞いたイオタの顔と耳が、ダークブラウンの肌に混じってうっすらと赤みを帯びる。そのことをミューに悟られまいと、イオタは素早く彼女から顔を逸らし、部屋いっぱいに声を響かせた。

「ば、ばか! そんなこと、真人のお前に言われても、おれはこれっぽっちも嬉しくないぞ。一日も早くここを出て行ってくれなきゃ、おれの方が困るんだ。それに、そんな気安く『ありがとう』なんか言うな、調子が狂うだろ。じゃ、おやすみっ」

 声の調子が徐々に竜頭蛇尾と化していくのをごまかすように、イオタは半ば強引に言葉を切る。おやすみ、イオタ。少女がそう口にするのを耳にしながら、彼は自分の心臓の鼓動が激しく高鳴っていくのを感じ取っていた。どうしてこんな気持ちになるんだろう。いや、そもそもこの気持ちって、いったい何だろうか?

 曖昧(あいまい)な気持ちを抱えたまま、イオタはしばしの間、寝付くことができないでいた。

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