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狭い路地裏を、息を切らしながら駆ける。
足が覚束ないように、しっかりと地面を踏む。そこからまた地を蹴って、走る。すべては、自分が生きるためだ。
後ろから、中年の男の野太い罵声が少年の耳に入ってきた。返せ、泥棒! 声高に叫ぶ男の目的は、彼が経営する店から少年が持ち去った、乾パンとリンゴだ。
男の数メートルほど前を進むダークブラウンの肌をした少年が、ちらと後方を見る。離れていても分かるほど、男の白い顔は紅潮し、眼光がぎらぎらと光っていた。そんな彼の表情は、地の果てまでも追いかけると言わんばかりのものだ。
だけど、おれも捕まるわけにはいかない。もし警察の世話にでもなれば、今よりもひどい生活を何年も強いられることになる。それだけは、ごめんだ。
考えられる最悪の事態を振り払うかのように、口の中に溜まった唾を一気に嚥下すると、少年は手近にあった古いゴミ箱を荒々しく蹴り飛ばした。あたり一面に、生ゴミや赤茶色の液体が入った袋が散らばり、思わず鼻を覆うほどの異臭が立ち込める。少年の狙いどおり口元に右手を持っていった男が、半ば自棄になりながら、大きく罵声を吐き捨てる。
「賤しいストリートチルドレンのガキめ、汚物にまみれて死んじまえ! 畜生!」
男が悔しげに地団駄を踏む様子をわき目に、少年は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。そして、男に向けて胸の内で毒突く。
そうやっていつまでも、負け犬の遠吠えを喚いてろ。高慢ちきのシンジンが。
やがて、少年は両手に持った乾パンやリンゴを落とさないようにしっかり抱え込むと、路地裏の先に広がる闇の中へ消えていった。
◇
「よし、今日はこんなもんか。うまくいったぜ」
久々に、美味いアップルパイが食べられる。心の中で呟くと、少年――イオタは無邪気な笑みを顔いっぱいに浮かべた。眼下の床に置かれたリンゴと乾パンが、十歳の少年の脳に、滋味にあふれた心地よい刺激を送り出す。
それにつられて唇の端からよだれを垂らしそうになるのを、イオタはぐっと堪えた。どうにか裏路地の一角にある隠れ家に逃げ帰ることができたとはいえ、油断はできない。いつどこで、自分と同じく食物に困窮し、生きることに必死なストリートチルドレンに狙われるか分からないからだ。
自分の戦利品は、盗られる前に片付ける。
それが、治安が悪化し、国民の生活に大きな影を落とすこの国――マルファリガーロ王国で生きるストリートチルドレンたちの、暗黙のルールとなっていた。
かといって、すぐに食べちまうのは、少しもったいないな。
そうして、イオタが相反する欲求と闘っていると、ふいに隠れ家の外から銃声が鳴り響いた。一発だけではない。乾いた音が何度も少年の耳にこびりついた後、聞いたこともない男たちの低い声がぼそぼそと聞こえてきた。
そっちに行ったか。お前たちはあっちを探せ。あの裏切り者め。
薄い壁を通して入ってくる男たちの短い会話を、イオタは気配を殺しながら聞き取る。幼い少年の表情が、みるみるうちに喜びから恐怖へと染まる。
マルファリガーロ王国では、王の暴政に抵抗するレジスタンス組織と、王の忠犬である王国軍との抗争が、五年前から続いている。やがてそれは、時間の経過とともに終わりの知れない混沌と化し、いつどこで誰が命を落とすか分からない様相を呈するようになった。一週間前には、レジスタンス組織の一人が自爆テロを仕掛けて、王国軍の兵士ばかりでなく無関係の市民までもが犠牲になったばかりだ。
いやだ。おれは、こんなところで死にたくない。イオタは意を決したように、両手のこぶしをぐっと握りしめる。そのまま、小ぢんまりとした隠れ家の裏にある無機質な鉄製のドアをぐっと押し開けた。
なるべく、音を立てないように。慎重にドアを開いていくと、イオタの視界に予想だにしなかったものが映った。
扉のすぐ先にあるアスファルトの地面に、少年より一回りほど背の高い少女が荒い息を立てながらうつ伏せに倒れていた。彼女の首から下をすっぽりと覆い隠している藍色のローブには、泥と血が所どころに付いており、怪我をしているであろうことは容易に想像できる。
イオタの目に映る十四歳ぐらいの背格好をした少女は、腰までの長い金髪と、目鼻立ちがバランスよく整った美しい容姿が印象的だ。だが、彼の目をひときわ釘付けにさせたのは、上物のシルクのように白い少女の肌だった。色黒の肌を持つイオタとは対照的な、『真人』のみが許された肌の色である。
少年の脳裏に、ありとあらゆる人間から自らの生まれ持った肌を罵倒された過去が、鮮明に蘇る。同年代の子ども、市場の店員、年老いた老婆。彼らに共通していたのは、皆が口を揃えてイオタをはじめ黒い褐色の肌をした人間を『非人』と呼んでいたこと、そして全員が白い肌を持っていたことだ。どうして真人と非人とで区別されるのか、イオタ自身もよく知らない。ただ、彼が物心ついた頃に両親にそのことを聞いたとき、厳しい面持ちで親が言った言葉を、イオタははっきりと覚えている。
そういうものだから。何も考えずに受け入れろ。お前がこれからこの国で生きるためには、必要なことなんだ。
当時のことを思い返しながら、イオタは鋭い眼差しで少女の姿を見つめる。
何が真人だよ。一生奴隷のように扱われても受け入れるしかないなんて、ふざけているとしか思えない。だからこそ、白い肌を見ると、反射的に憎しみが沸きあがる。それは、眼前に映る女に対しても同じだ。
このまま見捨ててしまえばいい。そうしたら、おれは外の奴らのいざこざに巻き込まれずに生き延びる。女は殺されるか、のたれ死ぬ。それだけの、簡単な話だ。
生きるためなら、どんな非道なことだってやってやる。おれをずっと罵ってきた奴らが、そうしてきたように。イオタが自分自身にそう言い聞かせていると、少女がかすれた声で、弱々しく口にした。
「た、たすけ、て」
おそらく長時間水を飲んでいないのだろう、しゃがれた声がイオタの耳に、いやに鮮明に響いた。彼は、おそるおそる足元の少女の顔を見る。長い睫毛を持った少女の瞼は固く閉じられている。きっと、ただのうわ言だろう。イオタは自分に強く言い聞かせる。
だけど。
本当に、これでいいのか。
心の中で自問する非人の少年は、沸き上がってきた疑問を振り払うかのように、素早くかぶりを振る。そもそも、相手は自分が憎んでやまない白い肌を持った真人だ。その真人が眼前で苦しげな表情を浮かべているのを見ると、清々しい気持ちにさえなる。わざわざ助ける道理はないはずだ。
それなのに。
おれはどうして、彼女の手を引っ張っているんだ?
心の奥底では拒絶したくて仕方がないはずなのに。どうして、おれはこの女を助けようとしているんだろう?
行動と思考の明らかな矛盾に答えを見出せないまま、イオタはローブを着た少女を自分の隠れ家へと運び込んだ。
外で聞こえていた男たちの声は、いつの間にか遠くへと消えていた。