第二話 名前
「…俺、」
少年はポツリとつぶやく。
「名前が思い出せない。さっきから、ずっと思い出そうとしてるのに…出てこない」
誰にも聞こえないくらいの、蚊の鳴くような声だった。
左腕を押さえ、苦しそうに言う。
「ぼんやりと、何かが見えるんだ。
左腕のこのあたりに、名前を思い出すヒントになりそうなモノがあるはずなのに、無い」
ギリ、と爪を立てる。そこからは、血が滲んでいた。
「っ、血が出てるよっ」
リシャナは少年に駆け寄り、手を掴んだ。
強い力で押さえつけたのだろう。
爪の跡がくっきりと残っていて、少し、痛々しかった。
「あと、あと少し…あと少しなんだ…でも、その部分だけ霞がかかったみたいに…」
絞り出すようなその声に、リシャナは何も言えなかった。
程なくして、先程から調理していたスープが出来上がる。
リシャナはそれをカップに注ぐ。
ほわほわと湯気をあげる様子を見ていると、僅かながら安息を覚えた。
「ね、スープできたけど…」
「…」
「飲む?」
ベッドの上で丸まっている少年に声をかけるが、何も返答はない。
何気なく顔を覗き込めば、意外と幼い寝顔だった。
「…、ってあたし…」
ボッ、と赤くなる頬。
彼女は、そのまま家を飛び出した。
「はぁ、はぁ」
街中を疾走していたリシャナは、気づかないうちに、広場に来ていた。
噴水が綺麗な、緑のある広場。
普段は子供達が遊びにやって来ているが、時間が時間のため、誰もおらず、噴水の音が静かに広場を包んでいた。
彼女は設置されているベンチに座ると、片手で水をすくい、
火照った頬に噴水の水をかけた。
「何で彼の顔見て恥ずかしくなったんだろう」
ふっと上を見上げると、遥かな天井のガラスの外を魚が通った。
「………あの魚、名前、何だっけ」
魚を目で追いかける。
魚はスイスイとリシャナの頭上を泳いで行った。
そうしているうちに、辺りは暗くなり、夜が訪れようとしていた。
ぽぅっと物思いに耽っていた彼女は突然立ち上がり、そうだよ、と呟く。
「彼、フィオに似てるんだ」
だから、あたし、などと言いながら、再びベンチに身を預ける。
「でもフィオに似てるだけだもん。
フィオじゃないんだから…。」
そして何か思いついたかのような表情を浮かべると、勢いよく立ち上がり、家に向かって走り出した。