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真導士サキと二つ星  作者: 喜三山 木春
愛読お礼小話 日々のかけら・その1
88/121

内緒

 微睡みの中、鐘の音を聞いた。

 目覚めるのがもったいないと思えたので、ぬくぬくとした場所に潜る。

 低い振動が伝わってきて、自分が置かれている状況を思い出した。

「……起こしたか」

「ちょうど起きたところです」

 寝起きは声が出しにくい。自然、ささやき声となってしまい、まるで内緒話をしているようだと思った。


 ――そう、内緒。


 皆には絶対内緒にしよう。

 こんなに恥ずかしくて幸福な時間を、伝えられるわけがない。

 ローグがあたたかいことも。起きたばかりの時は、瞳の力がゆるむことも。意外と寝相がいいことも。全部、自分だけが知っていればいい。

 誰にも教えてあげない。

「涼しい」

 彼が自分の頭を抱え込んで、満足そうに言った。また真力で涼をとっていたらしい。

 ローグはとても暑がりだ。

 夏用のローブや夜着がなければ、サガノトスの夏は越せないとまで言い切っている。

「暑くないか」

「いいえ」

「もともと体温が低いのか。サキは夏に強いんだな」

 低く笑ってから目を閉じたローグは、そのまま真眼を合わせてきた。

 熱い体温に触れる。

 胸にじわりと何かが沁みた。湧いた感覚を、大切に確かめているうちに気がついた。海の真力がまだ戻ってきていないと。

「……だるさは抜けませんか」

 そうだなと応じたローグの額と、自分の額とを強く合わせた。

 覗き込んだ彼の世界は、とても閑散としている。際限がないように視えていた真力が、いずこかに消えてしまっているのだ。

「サキ……、気配が乱れてきたぞ」

「心配なのです」

「じきに治る。カルデスの男は丈夫だからな。俺も寝込んだことは一度しかない」

 ぬくい場所から彼を見上げた。

 そう言われると、そのたった"一度"が気になってくる。

「いつごろの話ですか?」

「三つの時に、船から落ちて溺れたことがある」


 物心がつく前だから、記憶は一切ないと彼は言う。

 親類の家からの帰路。船で帰る途中で、嵐に遭ったのだそうだ。嵐の時は、乗客だろうが船員だろうが、協力して事にあたるのがカルデス流。手伝いに出て行った父親を追いかけ、甲板に迷い出た幼いローグは、荒れ狂う海へと投げ出されてしまったらしい。

「落ちた時に引っ掛けた傷が、いまも残っている。……ほら、ここと。それからここだ」

 話しながら唐突に衣服をめくる。一瞬、視線が泳いでしまった。男性の衣服の下を見るのは、とてもはしたない。

 動揺して頬が熱くなりかける。しかし今回は途中で血が止まった。


 さらけ出された場所を見つめる。

 左腕の肘の辺りに引き攣れた跡。そして胸元の……丁度、心臓の辺りに大きな跡があった。


 ゆるめられた衣服の隙間から見えた傷跡は、負った傷の深さをいまだ物語っている。

「大丈夫だったのですか?」

「大丈夫だったからここにいる。と言っても、生死の境を彷徨ったらしいがな」

 嵐を抜け、町に戻ったローグは、それから十日ほど熱に苦しめられたという。

 当時、まだ存命だった彼のお祖母さんが、毎日毎日いろんな薬を求めてきて彼に飲ませていた。やんちゃ盛りだった兄達も、この時ばかりは神妙にしていた。

 彼の口から紡がれる過去は、自分には縁遠い話。ぬくもりを分け与えてもらっているようにも感じられ。低い響きの中、その幸せに酔う。

「……だが十日目の朝に突然熱が下がって、けろりと起きたんだと。前日に婆さんが飲ませた薬が効いたという話になって、その薬を親父が大量に仕入れてきてな。快気報告ついでに町中で宣伝したら、飛ぶように売れたらしいぞ」

 きょとんとした。

 少し前まで、あたたかい家族の絆の思い出だったのに。あっという間に商売の話となってしまった。ローグの商人気質も困ったものだ。

「薬はうちの定番商品になった。いまでも売上が落ちるたびに、もう一度寝込めと言われるんだ」

 勘弁して欲しいと愚痴り、くつくつ笑う。

 話の結末に呆れて――。

 でも、結局は楽しそうに笑い続ける彼につられ、一緒になって笑った。

「傷跡は真術で治せないのでしょうか」

 癒したい。

 とても自然に生まれた欲求は、残念なことに低い笑いに遮られる。

「女ならまだしも、男の傷跡など誰も気にしないさ」

 でもな……と。ローグが言葉を止めた。

 穏やかな黒の奥で、想いが明々と燃えている。そこから強い熱を感じ取り、息を吸い込んだ。

「サキは気をつけろ。癒しが使えるのだから、肌に傷跡を残さないようにな」

 喉の辺りで止まっていた血が、一気に駆け上ってきた。かっと熱を帯びた頬を指先で撫でられる。


 ああ、まただ。


 いつもいつも、急に態度を変えるから……とても追いつけない。

「ローグ」

 たしなめると、いっそう笑みを深めた。

「……もう傷がついていたとしたら、どうします?」

「傷はない」

 ちょっといじけてみようとしたのに、出鼻を挫かれた。やけに自信満々な答えだ。どこからそんな自信が? と訝しみ、上目遣いで確認する。

 ローグの顔は、声と同じように自信に満ちていた。

 何か変だと真眼が騒ぐ。寝ぼけていた鋭敏な勘が、よくない気配を察知して、さわさわと動き出した。

 彼の真意を探っていると、自信ありげな表情が悪戯小僧のそれへと変化した。

「傷はないが――」


 いやな予感がする。


 そう思って身を固くした自分の背中に、いきなりの接触があった。

 つい情けない叫びを上げた。

 触れられたのは右の肩甲骨の下。いきなり指で突いてきたローグは、次に背骨の上を突いた。

「この二か所」

 意味不明な言葉を出す。

 くすぐったさに音を上げて抗議した。しかし抗議の言葉もどこ吹く風。悪戯小僧は、またもや違う場所を突いてきた。

 今度は、右の鎖骨の上。

 喉に最も近く、尖って出ている骨の上をとんと軽く突いた。

「あとはここだな。これ以外は何もなかった」

 頭上で疑問が踊っている。

 言葉の意味を考えて考えて……あまりのことに跳ね起きた。


 心臓がばくばくといっている。

 全身の血が、急激に流れて巡り、呼吸と思考を混乱の渦へと陥れる。


「だから言ったんだ」

 寝転がったままのローグは、勝ち誇ったように言う。

「無防備過ぎる。どうなっても知らないからな」

 両手できつく襟を絞る。

 言い返そうとしたが上手くいかず、ぱくぱくと口だけが動いた。

 最初の二か所はわからなかった。背中のすべてを見るのは不可能だ。だから自分でも知らなかった。

 でも最後に彼が突いた場所は、自分でも見ることができる。自分はそこに何があるのか知っている。知っている事実と、彼の不審な行動と言葉が繋がって、どうしようもないほどの巨大な羞恥を形成した。

「……は、破廉恥ですっ」

「警告はした。それに不埒な真似はしていない。賭けてもいい」

 悪びれる様子もなく言ってのけたローグは、ごろりと転がって頬杖をつく。

「泣いても怒っても遅い。もう見てしまった」

 自分の中で羞恥が極まり過ぎて、怒りへと変貌を遂げる。

「"忘却の陣"を覚えます!」

「無理だ。蠱惑の真術だからサキに向いていない」

「でも、絶対に覚えますからっ……!!」

 重ねて言えば、また笑う。

 今度は悪徳商人殿のお出ましだ。

「そうか。ならばそれまで、しっかりと覚えておくことにしよう」

 悪徳商人の黒い笑いを、ぎりぎりと睨みつける。


 何てことだ。

 娘としてあるまじき失態である。

 こんなこと誰にも言えない。ティピアにもユーリにも相談ができないではないか。

 恥ずかしさと悔しさにうち震える両手で、きっちりと襟元を合わせ続けた。




 ――その夜。

 美白粉を黒子に擦り込むサキの姿を、鏡だけがそっと見守っていた。

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