内緒
微睡みの中、鐘の音を聞いた。
目覚めるのがもったいないと思えたので、ぬくぬくとした場所に潜る。
低い振動が伝わってきて、自分が置かれている状況を思い出した。
「……起こしたか」
「ちょうど起きたところです」
寝起きは声が出しにくい。自然、ささやき声となってしまい、まるで内緒話をしているようだと思った。
――そう、内緒。
皆には絶対内緒にしよう。
こんなに恥ずかしくて幸福な時間を、伝えられるわけがない。
ローグがあたたかいことも。起きたばかりの時は、瞳の力がゆるむことも。意外と寝相がいいことも。全部、自分だけが知っていればいい。
誰にも教えてあげない。
「涼しい」
彼が自分の頭を抱え込んで、満足そうに言った。また真力で涼をとっていたらしい。
ローグはとても暑がりだ。
夏用のローブや夜着がなければ、サガノトスの夏は越せないとまで言い切っている。
「暑くないか」
「いいえ」
「もともと体温が低いのか。サキは夏に強いんだな」
低く笑ってから目を閉じたローグは、そのまま真眼を合わせてきた。
熱い体温に触れる。
胸にじわりと何かが沁みた。湧いた感覚を、大切に確かめているうちに気がついた。海の真力がまだ戻ってきていないと。
「……だるさは抜けませんか」
そうだなと応じたローグの額と、自分の額とを強く合わせた。
覗き込んだ彼の世界は、とても閑散としている。際限がないように視えていた真力が、いずこかに消えてしまっているのだ。
「サキ……、気配が乱れてきたぞ」
「心配なのです」
「じきに治る。カルデスの男は丈夫だからな。俺も寝込んだことは一度しかない」
ぬくい場所から彼を見上げた。
そう言われると、そのたった"一度"が気になってくる。
「いつごろの話ですか?」
「三つの時に、船から落ちて溺れたことがある」
物心がつく前だから、記憶は一切ないと彼は言う。
親類の家からの帰路。船で帰る途中で、嵐に遭ったのだそうだ。嵐の時は、乗客だろうが船員だろうが、協力して事にあたるのがカルデス流。手伝いに出て行った父親を追いかけ、甲板に迷い出た幼いローグは、荒れ狂う海へと投げ出されてしまったらしい。
「落ちた時に引っ掛けた傷が、いまも残っている。……ほら、ここと。それからここだ」
話しながら唐突に衣服をめくる。一瞬、視線が泳いでしまった。男性の衣服の下を見るのは、とてもはしたない。
動揺して頬が熱くなりかける。しかし今回は途中で血が止まった。
さらけ出された場所を見つめる。
左腕の肘の辺りに引き攣れた跡。そして胸元の……丁度、心臓の辺りに大きな跡があった。
ゆるめられた衣服の隙間から見えた傷跡は、負った傷の深さをいまだ物語っている。
「大丈夫だったのですか?」
「大丈夫だったからここにいる。と言っても、生死の境を彷徨ったらしいがな」
嵐を抜け、町に戻ったローグは、それから十日ほど熱に苦しめられたという。
当時、まだ存命だった彼のお祖母さんが、毎日毎日いろんな薬を求めてきて彼に飲ませていた。やんちゃ盛りだった兄達も、この時ばかりは神妙にしていた。
彼の口から紡がれる過去は、自分には縁遠い話。ぬくもりを分け与えてもらっているようにも感じられ。低い響きの中、その幸せに酔う。
「……だが十日目の朝に突然熱が下がって、けろりと起きたんだと。前日に婆さんが飲ませた薬が効いたという話になって、その薬を親父が大量に仕入れてきてな。快気報告ついでに町中で宣伝したら、飛ぶように売れたらしいぞ」
きょとんとした。
少し前まで、あたたかい家族の絆の思い出だったのに。あっという間に商売の話となってしまった。ローグの商人気質も困ったものだ。
「薬はうちの定番商品になった。いまでも売上が落ちるたびに、もう一度寝込めと言われるんだ」
勘弁して欲しいと愚痴り、くつくつ笑う。
話の結末に呆れて――。
でも、結局は楽しそうに笑い続ける彼につられ、一緒になって笑った。
「傷跡は真術で治せないのでしょうか」
癒したい。
とても自然に生まれた欲求は、残念なことに低い笑いに遮られる。
「女ならまだしも、男の傷跡など誰も気にしないさ」
でもな……と。ローグが言葉を止めた。
穏やかな黒の奥で、想いが明々と燃えている。そこから強い熱を感じ取り、息を吸い込んだ。
「サキは気をつけろ。癒しが使えるのだから、肌に傷跡を残さないようにな」
喉の辺りで止まっていた血が、一気に駆け上ってきた。かっと熱を帯びた頬を指先で撫でられる。
ああ、まただ。
いつもいつも、急に態度を変えるから……とても追いつけない。
「ローグ」
たしなめると、いっそう笑みを深めた。
「……もう傷がついていたとしたら、どうします?」
「傷はない」
ちょっといじけてみようとしたのに、出鼻を挫かれた。やけに自信満々な答えだ。どこからそんな自信が? と訝しみ、上目遣いで確認する。
ローグの顔は、声と同じように自信に満ちていた。
何か変だと真眼が騒ぐ。寝ぼけていた鋭敏な勘が、よくない気配を察知して、さわさわと動き出した。
彼の真意を探っていると、自信ありげな表情が悪戯小僧のそれへと変化した。
「傷はないが――」
いやな予感がする。
そう思って身を固くした自分の背中に、いきなりの接触があった。
つい情けない叫びを上げた。
触れられたのは右の肩甲骨の下。いきなり指で突いてきたローグは、次に背骨の上を突いた。
「この二か所」
意味不明な言葉を出す。
くすぐったさに音を上げて抗議した。しかし抗議の言葉もどこ吹く風。悪戯小僧は、またもや違う場所を突いてきた。
今度は、右の鎖骨の上。
喉に最も近く、尖って出ている骨の上をとんと軽く突いた。
「あとはここだな。これ以外は何もなかった」
頭上で疑問が踊っている。
言葉の意味を考えて考えて……あまりのことに跳ね起きた。
心臓がばくばくといっている。
全身の血が、急激に流れて巡り、呼吸と思考を混乱の渦へと陥れる。
「だから言ったんだ」
寝転がったままのローグは、勝ち誇ったように言う。
「無防備過ぎる。どうなっても知らないからな」
両手できつく襟を絞る。
言い返そうとしたが上手くいかず、ぱくぱくと口だけが動いた。
最初の二か所はわからなかった。背中のすべてを見るのは不可能だ。だから自分でも知らなかった。
でも最後に彼が突いた場所は、自分でも見ることができる。自分はそこに何があるのか知っている。知っている事実と、彼の不審な行動と言葉が繋がって、どうしようもないほどの巨大な羞恥を形成した。
「……は、破廉恥ですっ」
「警告はした。それに不埒な真似はしていない。賭けてもいい」
悪びれる様子もなく言ってのけたローグは、ごろりと転がって頬杖をつく。
「泣いても怒っても遅い。もう見てしまった」
自分の中で羞恥が極まり過ぎて、怒りへと変貌を遂げる。
「"忘却の陣"を覚えます!」
「無理だ。蠱惑の真術だからサキに向いていない」
「でも、絶対に覚えますからっ……!!」
重ねて言えば、また笑う。
今度は悪徳商人殿のお出ましだ。
「そうか。ならばそれまで、しっかりと覚えておくことにしよう」
悪徳商人の黒い笑いを、ぎりぎりと睨みつける。
何てことだ。
娘としてあるまじき失態である。
こんなこと誰にも言えない。ティピアにもユーリにも相談ができないではないか。
恥ずかしさと悔しさにうち震える両手で、きっちりと襟元を合わせ続けた。
――その夜。
美白粉を黒子に擦り込むサキの姿を、鏡だけがそっと見守っていた。




