ひとりぼっちの虜囚
気がついたら夕方になっていた。
少しだけ横になるつもりだったのに、深く寝入ってしまったらしい。
いけないと跳ね起き、急ぐ理由がなかったことを思い出す。
今日は慌てて夕飯を拵える必要がないのだった。
起きあがったばかりの身体を、寝床に放り投げる。ぎしりと軋んだ板が、はしたないと責めているようだった。
(今日はヤクスの家に泊まるから)
帰りがけに言い置いて、長身の友人と歩き去ってしまった彼。
言い渡された内容を上手く消化できないまま、ぼんやりと帰路についた。最近様子がおかしいと訝しんでいたけれど、ついにここまできてしまった。
黒髪の相棒は、隠し事をしている。
もしかしたら先日。彼に相談もしないで、勝手に出掛けたことを怒っているのか。そうだとしたら謝ろうと思っていたのに、違うのだと彼は言う。では、何なのかと問うてみても明確な答えは得られない。
幾日も幾日も悩みに悩んで、一つの答えを導いた。
悲しくて苦しくて辛い答えだが、とても腑に落ちやすかった。そもそもがおかしい話なのだ。彼と自分はどう見ても不似合いで不格好。流れが正される時がやってきた。過剰な僥倖に、終焉が訪れたと覚悟を決めた。
それなのに……これも違うと彼は否定する。
ちゃんと受け止められるから、話してくれと言ってみても。焦りと戸惑いとを浮かべて苦悶するばかり……。
どうしても納得がいかなかった。
ゆえに真実を手にするため黒を覗き込んでみた。そうやって覗き込んだ瞳の中の炎は、苦悶する彼の言う通り、確かに明々と燃えていたのだ。彼の想いはまだ変わっていない。むしろ以前よりも強く、大きくなっているようにすら視えた。
だとすれば、いったいぜんたい何を悩んでいるのか?
何が何だかさっぱりだ。
「ローグのいじわる……」
拗ねてむくれた自分は、恋しい人を小さく詰る。
頭に軽い感触がした。むくれた顔を上げてみれば、白のふわふわが揺れている。
慰めようとしているのか。はたまた叱りに来たのか。かわいいジュジュが、つぶらな瞳でこちらを見ていた。
「何です。ジュジュまでいじわるしないでください」
こら。
そんな気配と一緒に、ふわふわの尻尾が額を柔く叩く。
むうと膨れて、ジュジュを抱き上げた。
「ねえ、ジュジュ。わたしどうしたらいいのでしょう……」
サガノトスに潜む不穏。そしてたくさんの謎。
忙しないと感じていた日々が、よりいっそうの慌ただしさと騒々しさとを増して。狭い自分の世界では、受け止めきれないほどになっている。もう頭が破裂しそうだ。
やらねばならないことも、やりたいと思っていることも全部が混じって。もう、どこから手をつけていいかわからない。
混乱した頭を自分でこつりとやってみた。
ひやりと冷たい温度に触れる。
寝床の中、仰向けになったままの格好で両手を上げ、手の平を眺める。
「わたし、どうしちゃったんでしょう」
夏の大気の中にあっても、冷たいままの体温。
辛くない。
全然苦にならない。
普段は気にも留めていないが、やっぱりちょっと変だ。
散らかしっぱなしのそれらの中。いまの自分でも改善策がわかるのは、体温を上げることくらい。
一人でいると食欲も出ない。
かといって、何も口にしないのはいけないことだ。長身の友人にばれたらそれこそ大変。苦い薬湯を処方されるのはごめんなので、お茶だけでも飲んでおこう。
起き上るのも億劫だけど、とりあえずの用事を思いついたので、寝床からもぞもぞと這い出た。
自分の後を、足音も軽くジュジュが追ってくる。
ジュジュがいてくれて本当によかった。一人っきりだったら、この一日をどう過ごしていいか、きっとわからなかった。
炊事場に向かおうとして、ふと鏡に目をやった。
寝転がっていたせいで、翠の髪留めがずれている。
今日はもう誰とも合わない。そうかといって年頃の娘として少々情けない。しっかり見れば、フードも変にめくれてしまっている。これはいけないと鏡に向かって歩き、椅子に腰かけよう姿勢を変える。
そこで強烈な痛みを覚えた。
視界が暗転する。鏡台の縁に手をかけ、前のめりになった身体を支えた。
しかし、支えた腕の振動が背に流れしまい、その痛みに息を詰める。
背中が痛い。
痛くて痛くて立っていることすら辛い。
肩甲骨の下が、ざっくりと切り裂かれるような……。
違う。
中から塊が飛び出て、皮膚を弾けさせるような痛烈な熱さ。
「っ……」
(痛い。熱い)
「つぅ……」
(誰か、助けて)
「ぁ……!」
(お願い)
来てくれるって。
絶対だって、そう言ったのに……。
応えるはずもない。わかっていても彼を呼ぶ。
誰かと共にいることを。頼ることを。甘えることを自分に教えたその人は、声の届かぬ場所にいる。
眠りの病と共に発症した痛みは、祭壇の気配が断たれたいまも身体を呪いつづけていた。激痛が走る間隔が狭まってきている。自分の中で大きく渦巻く力がある。
解放を望み。決して果たされず。脆い身体の中で暴れ狂う力がある。
足りないから。
全部じゃないから。
これだけじゃだめ。ちっとも大きく開けない。
半分だけじゃ元にもどれないもの。
だから。
だから――。
手を伸ばした。
救いをもとめて。
空を掻いた冷たい手は、鏡台をすべり、床に落ちて身体の横に転がった。
(応えて)
ねえ――。




