戦いのはじまり
家に帰って早めの朝食をとり、これから掃除でもしようかと思っていた時。
道から喧騒が聞こえてきた。
長椅子で本を呼んでいたローグが、何かあったのかと立ち上がる。
それと同時に、扉が激しく叩かれた。
「ローグ……ローグ! いるんなら出てきてくれ」
ヤクスのがなり声に弾かれて、ローグが急いで扉を開く。
「ヤクス……お前、どうしたんだ!」
扉を開くなり居間になだれ込んできたヤクスは、白のローブに泥をまみれさせていた。
よく見れば、顔や手の甲に多数の擦り傷がある。
走ってきたせいなのか。
それとも怪我のせいなのか。
激しく呼吸を繰り返しているヤクスは、癒しを施そうとした自分の手を遮って、ローグの腕を取った。
「ローグ、一緒に来てくれ! 林の修行場で乱闘だ。クルトが巻き込まれてる」
「何だって?」
言葉に驚いた彼だったが、すぐに表情を引き締めてこう言った。
「サキは家にいろ。俺が戻るまで扉を開けるな」
ローグはそれだけを言い置くと、息も整っていないヤクスに連れられ。外へと駆け出していった。
自分は道を遠ざかっていく二人の足音を、何もできないまま見送った。
林の修行場。
そこは、学舎から一番近い修行場だったと記憶している。
常に大勢の導士達が集まって、鍛錬をしていると聞いた。
そこで乱闘が起きたというのか。
ヤクスは、クルトが巻き込まれていると言っていた。
では、ユーリはどうなのだろうか? 幼馴染の番は、いつも一緒に行動をしていると言ってはいなかったか。
友人達の安否が気になって、扉を開こうかとも思った。
けれども、ローグの言い置きが拘束力となり、実行に移すことができなかった。
しかし、何もしないで待つのも落ち着かない。
急いで自室へ戻って、洗ったばかりの麻布を数枚、居間に持ってきた。
その足で炊事場へ向かい、湯を沸かす。
少なくともヤクスは怪我をしていた。
傷口自体は真術で癒してもいい。ただ、可能なら治癒の前に消毒はしておいた方がいいと、座学で習ったことがある。
大地に潜んでいる毒素が身体に回り、発熱してしまう場合もあるらしい。
消毒用の薬は、倉庫からもらってきた備蓄があったはずだ。
とにかく、彼らが帰って来た時の準備をしておこう。
居間で支度を整え。まんじりともしないで待っていれば、道から話し声が聞こえてきた。
急いで窓から外を確認し、人影の中に黒髪を見つけてから扉を開く。
「大丈夫ですか!」
そこには、ローグの肩に右腕を預け、足を引きずりながら歩いているクルトと、泣きながら幼馴染の後ろをついて歩くユーリが。
そして泥だらけの格好で、ユーリを支えているヤクスがいた。
「サキ、手当をしてやりたいんだが……」
「準備はしてあります」
早く中へと促し、四人を居間に通した。
一番重傷なクルトを、まずは長椅子に座らせる。
クルトの容体を確かめようと腕まくりをしたヤクスは、ユーリを落ち着かせてくれと頼んできた。
ヤクスからユーリを預かり、ぼろぼろと涙を流し続ける彼女を、食卓の椅子に腰かけさせる。
「ユーリさん、お怪我はありませんか」
声を掛ければ、彼女は萌黄色の髪を振り乱しながら首を振った。
ユーリに怪我はないらしい。
念のため彼女の全身を見てみたが、ローブの裾に泥がついているくらいで、血が滲んでいる様子はなかった。
「……っトが、クルトがっ、死んじゃう……」
彼女は、両手で流れ続ける涙を拭いながら、そんなことを言う。
完全に動転してしまっているユーリに、長椅子の上にいる患者から苦情が入った。
「馬鹿、これくらいじゃ死なねえよっ……」
苦しそうな赤毛の幼馴染の声を聞いて、彼女の泣き声が高くなってしまった。
これはまずいと、ユーリの背中を撫でる。
どうにか宥めようとしてみたが、クルトから痛みを訴える声が届くたび、ユーリは新たな涙を流してしまう。
幼馴染の痛みが感染しているかのような泣きじゃくりに、ヤクスが笑った。
「ユーリちゃん、大丈夫だよ。打撲と擦り傷だけだから、消毒して癒しを使えば元気になるって。……サキちゃん、悪いんだけどクルトに"癒しの陣"を放ってくれないかな。それから、ローグは着替えを貸してやってくれ。クルトがこの格好のままじゃ、ユーリちゃんが落ち着かない」
ヤクスの指示を受けて、二人で動く。
クルトの怪我は痛そうであっても、そこまで重いものではないようだ。
治療を終えて、着替えてきたクルトが居間に戻った時も、ユーリはまだ泣きじゃくっていた。
すっかり怪我を癒したクルトは、いつまでもいつまでも泣き続ける幼馴染の頭をこんと叩く。
「おい、いい加減泣き止めよ。皆、困ってるだろ」
「……るさい。うるさい、馬鹿クルト、馬鹿。……ほんと、に……死んじゃうかと思ったんだもん……」
力なくクルトを叩き返したユーリに、周りから苦笑が漏れた。
大げさではあるが、彼女は本当にクルトのことを案じていたのだろう。
微笑ましい番の絆を見て、自分達三人は、ようやく肩の力を抜いたのだった。
「いや、本当に助かったよ。悪かったなヤクス、ローグレスト」
やっと涙が消えたユーリを加えて、五人で食卓を囲む。
クルトは真っ先に、二人に対して謝罪と礼を述べた。
聞けば、ユーリと二人で修業場に行き。すでに発生していた乱闘に巻き込まれてしまったらしい。
当初は三人が揉めていただけであったのに、時間が経過するにつれて人数を増して。最終的には十人の男達が参加する、大乱闘になったのだとか。
修行場の騒ぎは、近くの家に住むヤクスの耳にも届いた。
様子を見に行った際に、殴り合いに巻き込まれているクルトを発見してしまい。慌てて、救出を試みたが上手くいかず。大急ぎでローグの手を借りに、家まで走ってきたとのことだった。
ローグを連れて戻った時には、誰が敵か味方かもわからない状況にまで発展していて。近くに居る人間を殴る、というような醜態になっていたらしい。
「ローグレストは武道でもやっていたのか。一人だけ異常な強さだったな」
変な誤解をしたらしいクルトは、羨望の眼差しでローグを見ている。
うちの相棒は、乱闘で何をしてきてしまったのだろうか……。聞きたいけれど、怖くて聞けない。
「クルト違うよ、ローグはカルデスの生まれなんだ」
とっておきの秘密を打ち明けるようにヤクスが言うと。クルトが羨望の眼差しを引っ込めて、小さく呻いた。
「……人は見かけによらないな」
カルデスの悪名は、ところ構わず響き渡っているようだ。
話題の中心となった黒髪の相棒は、乱闘の内容には触れずに、何があったと聞いた。
「どういう原因で、あそこまでの揉め事になるんだ。殴り合いと言っても誰かに賛同して……という雰囲気ではなかっただろう」
ローグの問いに、幼馴染の番が顔を見合わせた。
「それが……、わからないんだよ」
「わからない?」
二人の話をまとめると。
発端となっていた三人は、"三の鐘の部"にいる導士で、普段からとても仲が悪かったらしい。
それこそ座学がはじまって、いくらもしないうちに険悪になっていたと。
周囲の導士も、お互い名前すら知らない状況であったため、よくない雰囲気になっている三人を止める者がおらず。このふた月の間、三人はその状態で睨み合っていたのだという。
「ずっと仲が悪い人達だったから、いつ喧嘩が起きてもおかしくないなとは思ってたんだよね」
「そうなんだ。オレ達も、なるべく近寄らないようにしようぜって話をしていて、気をつけてはいたんだけど。……こいつが、勘違いされてさ」
そう言いながら、赤毛の友人はユーリを指した。
指されたユーリは、いつもの元気を失って肩を下げている。
「わたし……、笑ってないもん」
「血が上ってたんだろ……。ユーリは帰ろうって言っただけだったのに、三人のうちの一人が、自分達のこと笑っただろうって、つっかかってきてな」
その先は、言われなくても想像がついた。
二人は完全に被害者だ。
「それはまた、災難だったな……」
同情にしたように言うローグに対して、クルトは疲れた顔で「まったくだ」と返した。
「どうもな。"三の鐘の部"は、仲が上手くいっていない奴らが多くてさ。雰囲気も悪くていやになっちまう……」
思わず、ローグと視線を合わせた。
キクリ正師が言っていたのは、このことだろうか。
「みんな、どこかおかしいんだよね。かりかりしているっていうか、焦ってるって感じで。人より先に行こうって考えているみたいなの」
「夢中で鍛錬に勤しんでいるような奴ばかりだぞ。自分だけは"落ちこぼれ"にならないって、馬鹿の一つ覚えみたいに……」
しばらくぶりに聞いた、侮蔑の言葉。
耳にしただけで、つい身体が緊張してしまう。
「何だと」
クルトの発言に身を乗り出したローグを、腕だけでヤクスが止めた。
彼がまとう気配が荒くなる。それに気づいたクルトは、どうしたのかと視線だけで自分に問う。
「わたしのことです。真力が選定線にかかるくらいしかなくて。史上最低の真力だから"落ちこぼれ"だと……」
発言を受けて、クルトが瞠目した。
褐色の瞳に後悔が滲んでいるのが見えてしまって、申し訳ないなと思う。
「サキちゃんのことなの……。えっと、でも。あんなに気配が読めるのに?」
ユーリは察知能力を持っている自分が、何故"落ちこぼれ"なのかと、そう聞いてきた。
彼女の率直な言葉は、嘘や誤魔化しがない。
無垢と言えるほど素直なユーリの在り様が、自分の言葉も素直にさせてくれる。
「察知能力を知っているのは、実習で一緒になった人だけです。他の人達にとっては真力くらいしか、評価する基準がありませんから」
「えー、そんなのおかしい。やっぱりあの人達、ちょっと変だよ」
「だから、変なのはわかってるっての。普通は先に真術を覚えたとか、誰々より真円が大きいとかで、態度がでかくなったりしねえよ」
どうやら……、"三の鐘の部"の導士間では、そうとうな軋轢が生じているようだ。
"二の鐘の部"も、はっきりと言ってしまえば、仲がいいわけではない。
しかし、"三の鐘の部"のそれは、最悪と表現しても差し障りがないようなものらしい。
「そんな下らないこと、誰が言いはじめた……。三人が原因か?」
里に広がる選民意識や、他者を見下す無意味な優越感。
それは、ローグが卑しいと忌憚している事柄に当たる。
彼は眉間にしわを寄せて、心底いやだという顔を作った。
「それもよくわからないんだよ。三人が原因かと聞かれれば、そうだとも言えそうだ。でも、座学の顔合わせの時点で、あいつの真力がどうとか、"迷いの森"を抜けてきた順番がどうとかの話が、方々から出てたから……」
「ええっと、じゃあ"三の鐘の部"全員が、最初から同じよう雰囲気だったってこと?」
「……だと思う」
これには三人で、顔を見合わせた。
「大変ですね……」
同情とは違う、不確かな感情を含めたまま呟いてしまった。
"二の鐘の部"にも、セルゲイのように選民意識が高い者がいる。
そしてローグの真力に嫉妬する者や、自分を嘲笑う者もいる。
しかし、それでも全員揃って同じような雰囲気におちいることはない。
少なくとも自分達の周囲は、暗い気概を持つ者は皆無。
イクサと最近のディアもそうであると言えそうだし。ベロマを一緒に抜けた者達も同様だ。
娘だけの番は"三の鐘の部"だが。彼女達もあれ以降、自分に負の感情を向けることは一切なく。道で会えば世間話をするくらいは仲良くなっている。
(何だか、変……)
二人の言う通り、何かが変だ。
言葉に表せないが、釈然としない。
「なあ」
低い声の問いかけに、全員が振り向いた。
言葉を発した張本人は、右手で顎を擦りながら、食卓の一点を見つめている。
「最初からは、おかしくないか」
腑に落ちないと、彼は言う。
「俺達は、国中からばらばらに集まって選定を抜けてきた。出身も出自も違うような人間が、どうしてここまで統一されている」
眼差しの奥にある感情の炎は、種火ほどに小さくなっている。
ローグは、不快感を露わにしていた様相を一変させ。感情を欠落させたまま、思考を紡ぎ上げていく。
「やっぱり"真導士の里"だからじゃないのか。"控えの間"でのこと思い出してみろよ。浮かれ切って、自分は選ばれた人間なんだって、言っている奴もいただろう」
ヤクスが懐かしい記憶を持ち出した。
クルトとユーリが、初日の出来事をなぞろうと天井を見上げる。
自分も二人にならおうかとしてみたが、体調が優れなくて眠ったことを思い出した。
ローグもぐっすり眠っていたはずなので、自分達の記憶は頼りにならない。
「全員が全員ではなかっただろう。真導士の詳細も真術についても、座学に入るまで何も知らされていなかった。それなのに、最初から優劣の話になるのか。そもそも奴らは、何のために優れていようとしている」
「何のためにって、立身出世……かな」
ヤクスの言葉に、力がなくなってきた。
説得力が欠けているのを悩むというより、自分で納得できていないのだろう。
「真導士とは、どのように出世するのだ」
「オレが知っているはずないだろ。出世したこともないし、出世した知り合いもいない」
「そうだな、ヤクスは知らない。俺だって知らない。クルトとユーリはどうだ」
二人とも頭を振った。
「だろうな……。里の話は、外に漏れないことになっている」
「ローグレスト、何を考えてんだ?」
一枚の絵のようになった彼は、普段のようなわかりやすい起伏を持たない。
目的が見えない謎かけのような会話に、不安を覚えたのは自分だけではないらしい。
「いや、どうにも言葉がまとまらない。ただ、最初からというのは奇妙過ぎると思ってな。……特に、"三の鐘の部"での話は、目指している目標が曖昧で、辿りつくまでの道すら見えていないのに、全力で走っているように思える」
「言われてみりゃ、そう思えなくもねえな」
「ドルトラントと一口に言っても、文化も習俗もまったく違う。地域も違うならば、階級が違う者だっている。だというのに、真導士となった途端、同じような主義に変異するものか? 国軍ですら長い期間をかけて、国への忠誠と規律を仕込む。話を聞く限り"三の鐘の部"の連中は、真導士になった時から"真導士の立身出世"という幻に、忠誠を誓っているようだ」
おかし過ぎるだろうと言い切った彼に、言葉を返すものはいなかった。
沈黙は肯定だ。
真導士の里に来てふた月。疑うことのなかった里の日常が、とても怪しげに思えてくる。
自分の運命を決定付けたあの日から、湖面の下に広がり続けていた憂苦が、心を蝕んでいる。
気づかなかったことはない。
導士の誰もが知っていた。ただ、当たり前として受け止めていただけだ。
真導士の里はそういう形をしているのだと、物知り顔で飲み込んでしまっていた。
過去から時が連なって、いまがある。だというのに、誰も"過去"と"いま"を見比べようとしていなかった。
違和感を、違和感であると受け止めようともしなかったのだ。
ふるりと身体が震える。
自分達は、どこにいるのだろう?
自分達のいるサガノトスは、過去から存在していた"第三の地 サガノトス"と同じ形をしているのだろうか?
そして、そんな場所にいる、自分達は……いったい何者なのだろう?
見つけてしまった綻びが、取り返しのない大きさにまで広がっていく。
そんな世界が脳裏に浮かんだ。
誰一人として、抜け出してなどいなかったのだ。
自分達は、"選定の儀"があったあの日から、迷いのなかを彷徨い続けている。
ローグの言葉をきっかけに、曖昧模糊とした不安が、五人の心で形を成す。
戦いの幕は、この瞬間に切って落とされた。
しかし、それを自覚している者は、まだいなかった。