吉凶の年
湖を見据えていた黒が、自分を映した。
黒く透き通った穏やかな瞳に、恋心が膨らんでいってしまう。
感情の膨らみを隠すのは不可能。
いくら真力が高かろうと、至近距離にいる相棒の気配であれば、彼だって辿れてしまう。
「いま、何を考えている」
いじわるな問いが、顔に熱を生む。
彼は自分のこの感情が、何に起因しているか知っているはずだ。
「聞かないでください」
「サキはそればかりだ」
「……わかっているでしょう」
「そうだとしても、サキの口から聞きたい」
やはり、わかっているのではないか。
横を向いて視線を逸らしてみれば、彼の手が添え髪をくいと引っ張る。
悪戯小僧が顔を出した。
先ほどまで、気高い瞳で未来を見据えていたローグの変わり身に、くすりと笑いが出てしまった。
「こちらを向いてくれ」
笑われたことで、少し拗ねてしまったようだ。
また、いじけ虫になられても困る。
もう白の果実は食べ切ってしまった。
添え髪を引く力に合わせて、振り返り。仰ぐ。
背丈に差がある自分達が、傍近くで顔を合わせようとすると、どうしてもこういう形になってしまう。
ローグと顔を合わせたところで、彼が身を屈めてきた。
そんな外で……と躊躇いはしたけれど、歩みはじめたローグを祝福したくて、目を閉じた。
唇に熱が触れる。
慣れない感覚。
思わず眩暈が起きそうだったから、握っている手に縋って立つことにした。
ふと、大気の気配が動く。
もう片方の腕が、自分を迎え入れるように広げられた。
あたたかなそこへ飛び込もうとした時、唐突に声を掛けられた。
「おはよう、お二人さん」
二人して彫像と化した。
現実を見たくない。
見たら彫像の身体がばらばらに砕けて、大地に還ってしまいそう……いや、むしろ還ってしまいたい。
覚悟を決めたらしいローグが、現実を覗き込もうと声の主を見た。
自分は、そちらを見ているローグの喉元を、黙って見ていることしかできない。
声の主を確認した彼が、その人の名を口にする。
「キ……クリ正師」
声でわかってはいた。
でも、そうであって欲しくはなかった。
よりによって上位の真導士であり、自分達の指南役でもあるキクリ正師だとは。運が悪過ぎる。
ローグの近くにい過ぎて、気配が感じ取れなかったらしい。
史上最大の真力は、真眼を閉じた正師の気配など、たやすく掻き消してしまう。
「修業が足らないようだな。今度、特別講義の時間でも設けようか?」
キクリ正師の声には、多分にからかいが混ざっている。
面白くて、面白くて仕方ないと、暗に伝えてきていた。
「い、いえ。……結構です」
ローグがここまで動揺するなど滅多にない。
すでに彼は、喉元まで赤に染まっていた。
不思議なことに。慌てている人を傍で見ていると、それだけで落ち着いてしまう時がある。
いまの自分がいい例だろう。
恥ずかしさは消せないけれど、キクリ正師の顔が見れないほどではなくなった。
息を大きく吸い込んで、声がした方向に身体を向ける。
「おはようございます、キクリ正師」
赤茶けた髪も眩しく、年若い正師が立っていた。
自分が挨拶をしたのを意外に思ったらしい。紺碧の瞳が、わずかに面白がる色を強くした。
「こういう時は、女の方が強いものかな……」
ひとり言のように呟き、完全に血が上ってしまっているローグと、自分とを見比べた。
キクリ正師は、里の上層部の中で、もっとも導士に近しい。
正師が持つ、快活な人柄。そして、三人の正師の中で、一番若いことにも起因している。
親しげな雰囲気を持つ正師は、導士達にとって兄のような存在でもある。
自分に兄弟はいない。
でもキクリ正師を見ていると、どういうものなのか少しわかる気がしていた。
キクリ正師が、わざとらしい咳払いを一つした。
「仲がいいのは結構だが、風紀を乱し過ぎないように。……すまんな、とりあえず指導する決まりとなっている。まあ、他の正師に見つからないよう、周囲には気をつけなさい」
虫の声よりも静かに、二人で返事をした。
さすがに里が推奨しているだけあって、叱責を受けるということはないらしい。
「キクリ正師。このようなところで何をなさっているのですか」
平静を取り戻したローグは、ちょっと恨みがましい声で質問をした。
話題を逸らすというより、何でこんな場所にいるのかと抗議をしているように感じる。
「修行場の結界を、展開し直してきたのだ。破れでもしたら大変だからな」
サガノトスには、導士が利用できる修行場がいくつかある。
修行場には、誤って周囲に影響を与えぬようにと、強固な結界が展開されている。
大がかりな真術を試す時は、必ず修行場で行いなさいと指導されていた。
キクリ正師は、どうやら結界の管理を任されているらしい。
言われてみれば、湖の近くにも修業場があった。
「二人はどうしたのだ。昨日、実習から帰ってきたばかりだろう。疲れはちゃんと取れたのか」
「……どうも気力が高ぶっていたようで。二人して早起きしてしまいまして。ならば散策でも、と」
正師も、実習について聞き及んでいるのだろう。
からかいをすっかり消して、自分達を気遣ってくれた。
「今日は、とにかく身体を休めなさい。気力や真力も大事だが、人である以上は体力がもっとも大事だ。どうにも上手く気力が整わないというなら、中央棟を訪ねてきなさい。こういう時は自分達で抱え込まないことが肝要。任務内容が特殊だったゆえ、里の中ではうかつに話せない。だが、正師相手ならば許される。必要なら私を呼び出すよう。遠慮はいらないと他の者達にも伝えておきなさい」
……ふむ。
やはりキクリ正師は導士思いなのだった。
正師のこういう部分が、男にも娘にも人気である理由なのだ。
キクリ正師は、まったくいい人であると感動していたら。またもや、からかいの笑顔を作られてしまった。
「それにしても、お前達はずいぶんと進展が早いな。"迷いの森"を抜けてきた時から、いつかそうなるだろうと考えていたが。ここまで早いとは、思いもしなかったぞ」
正師は笑顔のまま、二人の間を指差してきた。
"迷いの森"を抜けて来た時と同じように、固く握り合っている手を思い出し、大慌てで引き剥がす。
「キクリ正師!」
ローグが必死の様相で、からかいに対する抗議をした。
しかし、大笑いをされただけで済まされてしまった。
自分達は何と迂闊なのだろうか。
恥ずかしくて下を向いたら、大人しく鎮座していたジュジュと目が合った。
「この様子なら、サキは大丈夫そうだな。……こちらとしても案じていたのだ。里に来てすぐあのような不祥事に巻き込まれたゆえ。しかし、お前の庇護があるとわかれば、もう恐ろしい目に合うこともあるまい」
そう言われた途端、ローグの表情が変わった。
不祥事とはリーガ達の一件だろう。
かの一件は自分だけではなく、里の上層にも衝撃を与えていたらしい。
「今年は導士の数が多いのも相まって、揉め事が多発していてな。例年よりも、いさかいが起きやすいようなのだ。あれ以降、正師や内勤の高士が見回りを強化している。何か起こったら知らせてくれると助かる」
「承知しました」
ぴりと、しびれるような何かを感じた。
感覚を逃していけないような気がして、慌てて正師に質問をする。
「今年だけ、揉め事が多いのですか……?」
紺碧の瞳の中で……瞬時、思考が揺れた。
真眼を閉じているキクリ正師から、ささやかにこぼれていた真力の気配が、如実に変化していく。
正師の気配に触れて、やはりこの人は、里の上層に位置するべき人なのだと納得した。
有能でなければ、正師の位には就けない。
導士の前では隠していても、真導士としての腕前は確かなのだと、気配だけで知れる。
「多いな……。ここまで導士達の気力が荒い年はなかった。一人一人と接すれば普通なのだが、集団になると浮き足だってしまっている」
何を思って、この話をしているのかは知らない。
しかし、これは警告であると本能が見極めた。
「年嵩の高士連は、"吉凶の年"であるからとも言ってはいる。しかしどうもな……」
「"吉凶の年"?」
自分の知見は、まだまだ狭い。
ドルトラント王国での常識を覚えようとしているけれど、どうにも追いついていないようだ。
「ああ、今年は"二つ星"でしたね」
ローグはキクリ正師の言葉を、正確に受け取った。
自分の知らない事柄であると気づいた彼は、いつもの如く丁寧に意味を教えてくれる。
「"吉凶の年"というのは、十二年に一度巡ってくる。天に散る星の中。たった二つだけ、大きく輝く星が生まれる年だから、"二つ星"とも呼ばれる。"吉凶の年"は他の年に比べて、人の記憶に残る出来事が多くなる。いいことにしろ悪いことにしろ、派手な事件が起こりやすいという……一種の迷信だ」
四大国の大戦が開始されたのも、終結したのも"吉凶の年"であったらしい。
"二つ星"。
それは実習の時に、甲板で見た二つの大きな星のことだろう。
あの星に、そのようないわれがあるとは知らなかった。
わずか鼓動が早まったように思えて、胸に手を置いた。
「とにかく何かあったら知らせてくれ。見回りを強化していると言っても、導士達の中に入っているわけではない。ゆえに見落としてしまいがちだ」
「はい」
「それから、外で仲良くするのも程々にな。見回りは隠れて動いていることもある。男として、年頃の娘への気遣いを忘れてはならない」
「……はい」
弱気な返事を聞いて、ようやく正師は二人の前から去って行った。
赤い顔をしたローグと並んで、長い丈の白のローブを見送る。
羞恥のあまり固まっていた自分達は、ジュジュの鳴き声で我に返った。
かき乱された真力と気力とを抱えつつ、二人と一匹で来た道を戻っていくことにした。
真っ赤に染まった黒髪の相棒は、それでも手を繋ぎながら家路を歩く。
今日は快晴だ。
雲一つない青空の下。鮮やかに舞う黒い髪を、幸せな心地で眺めていた。