真導士と花祭り(6)
聖都ダールの神殿に着いた。
またも恭しく扉を開いた御者は、今後ともご贔屓にと言いつつ、一本のボトルが入った籠をローグに手渡した。
「これは?」
「手土産だ。先ほどの御者は、いつもなら聖都ダールで馬車を走らせているんだろう。今日は祭があるから遠征していただけだ。これからも馬車を使うなら、自分を使ってくれという心付けだな。中には……ほら。木札が入っている」
取り出された木札には、御者の名前と思しき文字と、紹介所で呼び出すための手順が書かれていた。
「……もしかして、勘違いされています?」
低い声が喉だけで笑う。
「遊び呆けて聖都に帰る、金持ちの子弟だと思われたらしい」
勘違いされても損はないと言い切った彼は、家に帰ったら開けてみようとボトルを掲げた。
小振りなボトルだったので、これなら大丈夫かと思い。いいですよと軽く返事をした。
グラスに注がれる赤い液体を見つめる。
とくとくと音を立て、透明なグラスの中で量を増やしている液体からは、甘く濃厚な香りがただよってきている。
御者からの心付けは、とてもおいしい果実酒だった。
一口飲んでその甘さの虜となり。すいすいとグラスを進めて、三杯目に突入している。
ローグが注いでくれている赤は、心なしか先ほどよりも量が減っている。ちらりと不満に感じ。それでも注がれた液体を飲もうとグラスを受け取る。
グラスを傾けて、こくりと喉を動かす。
口いっぱいに広がる、甘酸っぱい味と濃厚な香り。幸せで幸せで、とろけてしまいそうだった。
「ローグ」
「何だ?」
「おいしいですね」
「そうだな。サキには、果実酒の方が飲みやすいだろう」
羞恥を感じてはいないのに頬が熱い。涼しさを求めて果実酒の入ったグラスを、熱い頬にあてた。
口の中がおいしいのと、ふわふわの世界が楽しくて笑いがこみ上げてきた。
「ローグ。ねえ、ローグ」
「今度は、どうした」
「これ、おいしいですね」
いま、幸せである理由を報告する。
おいしいものは素晴らしい。女神の恵みの中で一番素晴らしいものだと、本気でそう思った。
「……酔っているな」
びっくりした。ローグは、また勘違いをしているらしい。
自分はまだ酔っていない。記憶もちゃんとしているし、ローグが話している言葉もわかっている。
「わたし、酔っていません」
誤解を解こうと、彼の顔を覗き込んだ。しっかりと見て欲しい。自分の視線は、真っ直ぐにローグを見れている。
――ほら、ね?
瞳に集中して同意を要求してみたのに、望んだ答えは得られなかった。
「これを飲んだら終わりにしよう」
彼は意見も聞かず、ボトルの栓を閉めようとする。
「いやです。まだ飲みます」
袖を引っ張って、おいしい飲み物を奪っていこうとする手を止める。
「もう終わりだ。自分で自分の状態がわかっていないだろう」
素っ気ない言葉にむっとした。
黒の瞳を見据えながらも、彼の手に捕獲されているボトルを取り戻す方法を考える。
このままではリズベリーの二の舞だ。ローグは自分が諦めた後に、全部飲んでしまおうと目論んでいるに違いない。
「女が深酒をするものではない」
かちんときた。
確かに自分は女で、ローグは男だ。女として慎みの大切さは重々承知しているし。男である彼の意見を立てなければならない、ということも理解している。知見の狭い自分にだって、そのくらいの常識は備わっている。
――だが。
例え常識としては、そうなっているのだとしても、これだけは譲れない。おいしいものをおいしいと感じ、大切に思う心に男女の区別はない。
小振りのボトルをじっと見つめて、一気に手を伸ばした。
奪えると確信した瞬間。手に納まるはずだったボトルが、視界から失われる。
「同じような手を、何度も使えると思うなよ」
勝ち誇ったような笑いを浮かべた彼は、高々とボトルを持ち上げていた。
「ずるいっ……」
腕の長さでは敵わない。
長椅子から立ち上がってさらに腕を伸ばす。もう少しだと思っていたら、突然大声で「こぼれる!」と言われ、ぴたりと止まってしまった。咄嗟の判断ができなかった自分の隙を突き、ローグがグラスまでも奪っていく。
(何て卑怯な……!)
「もう無理だ、完全に酔っぱらっている。これ以上酒を飲ませたら、ヤクスに何を言われるかわからん」
もっともらしいことを言い。おいしい飲み物達を、彼の横にある脇机に置く。
誘拐された赤い果実酒を取り返そうと、夢中で追いかけ――世界がくるりと回転した。
ぱちり、ぱちりと瞬きをする。
ふわふわの頭では、何が起こったかの把握が難しい。
脇机を目指していたはずの自分は、どのような手品に引っ掛かったのか、ローグの膝の上に落とされている。
「あれ……?」
いつの間にと、彼を見上げる。
「いい加減に諦めろ」
しかめっ面で、静かに見下ろしてきているローグ。その深い黒の瞳を見つめて……微笑んだ。
怒ったふりをしている。
真眼を開いている状態では、感情の揺れを隠せないというのに。騙せると思ったら大間違いだ。
面白くて面白くて、くすくすと笑う。
「……何で、笑う」
「怒ったふりが下手です。全然、怒っている気配がしません」
言うと、彼は変に弱った顔をした。
「まいったな。サキは笑い上戸だったのか……」
目を閉じたまま、疲れたような溜息を吐く彼が面白くて、笑いが止められない。
ふわふわの世界が楽しい。
ローグの様子が楽しい。
今日は楽しいことがいっぱいの一日だ。
満足がいくまで笑い続け。笑いの壺が空っぽになったところで、ローグを見上げた。
知らぬ間に、しかめっ面を仕舞い終えていたらしい彼の瞳は、穏やかな黒を湛えていた。下を見ているせいでいつもより長く垂れた黒髪が、ローグの顔に影を作っている。
その大人びた表情に、どきりとなる。胸がきつく締まっていく感覚。宥めようと、胸に手を置いて深く呼吸をする。真眼を開いているいま、互いの気持ちは手に取るようにわかっている。
重なった気持ちに従い、瞼を下ろした。身体を支えている強い右腕に攫われて、背中がしなる。
滾る熱をひたすら受け入れる。
触れ合う感触は、まだ慣れていない。気ままに触れて離れる唇に、翻弄されるだけの時間。振り回しているのは彼の方だ。自覚がない分、ずっとずっとタチが悪い。
最後にされた長い口付けの後、薄く瞼を開く。鮮やかな漆黒の髪から、ランプの光がこぼれている。
それはまるで、木漏れ日のようで――青と一緒に眠っていた記憶が、泡のように浮かんで弾けた。
「――"華魂樹"って、どういう木か知っていますか?」
わくわくしながら聞いてみた。そうしたら、しょうがないなという風に笑われた。
もう……、笑っていないでちゃんと考えて欲しい。
「さあ。神話の中では、天空の彼方に存在している大木としか表現されていない。遥か古より時を刻んでいるというぐらいだから、たいそう立派な古木だろう。苔でも生えていそうだ」
ローグの回答に満足した。
やっぱり、ローグは知らない。彼が知らない事柄を、自分が知っているというのは実にめずらしい。
「残念、違います」
答えの切れ端だけを伝えれば、黒が大きく見開かれた。
「"華魂樹"には、苔なんか生えていませんよ。日当たりがすごくいいんですもの」
驚いたように息を詰めたローグを見ながら、あたたかい日差しの記憶を掬う。
「昔からあるのは本当です。でも、古木のようにごつごつしてたり、傷が出来ていたりはしません」
――本当は、内緒にしていなければいけない
「幹は水晶で出来てます。……ああ、でもちゃんと生きていますよ。大きくなり過ぎて、育っているかどうかは、見えづらいんですけどね。端っこの方の枝を見れば、新しい枝を見つけられますから……」
――だけど、ローグには特別に教えてあげる
「あと、"華魂樹"には葉がないのです。花だけの樹なんです。花の色は……そうですね朝焼けの色に、近いかもしれません」
――他の人には内緒だよ
「マーディエルもきれいだったけど、"華魂樹"の花の方が、もっとずっときれいで……」
――貴方は特別
「待ち合わせをしている人達も、こんなにきれいな花は見たことがないって、口を揃えるくらいで」
――特別なのだから
「降りるなら一緒にと、花弁を手にして召される人もいて」
――ねえ、わたしのローグ
「きれいなんですよ。本当に……」
瞼が重い。
まだまだ、話したいことがあるのに。どうしてこんなにも眠いのだろう?
ああ、彼の腕があたたかいから。
だからか。
残念だけど、また――今度。
次の日の朝。
寝床で目を覚ました時、大いに慌てた。
記憶がすっぽりと抜けていたからだ。赤い果実酒には"忘却の陣"が籠められていたらしいと、自分自身に言い訳をしてから、そうっと居間に顔を出した。
怒られるだろうと予想していた。それなのに待ち受けていたのは、あまりにせつない抱擁だった。
ローグの腕の中であわあわと混乱しながらも、昨夜の失態を詫び。記憶を失ってしまったと素直に告白したら、ひと言だけ言葉が返ってきた。
「それでいい……」
その日は、快晴と呼ぶにふさわしい天気だというのに、居間の窓掛けは下ろされたまま。
不思議に思って真眼を開いてみても。外への道を塞ぎ続けた彼の思惑だけは、ようとして知れなかったのである。




