真導士サキと二つ星

第六章 倉皇の迷宮

目的は

　滑稽なほどわざとらしい、空虚な溜息。

　作られた笑顔のまま、エドガーはもう一つの輝尚石を取り出した。

　後方に回り込んでいた燠火の男は、真術の展開を弾かれて意識を失っている。

　残るは一人。

　形勢は逆転している。

　七対一だ。

　それでもエドガーは、撤退の意思を見せずにいた。

　感情に乏しいギャスパルの相棒は、栗色の髪を風に揺らしながら、そこに立っている。

「想定外はよくあることですが、まったく喜べませんね」

　さらに取り出された輝尚石からも、劫火の――ギャスパルの真術の気配がしている。

「僕は失、敗が大嫌いなんですよ」

　だから、どうしたというのか。

　心の内だけで反論し、前方に守護を展開する。

　エドガーは、言霊を必要としない。

　展開を先読みできないから、予め防衛をしておくべきだ。

「諦めたら？　お友達も戦えなくなったし。無駄も嫌いなんでしょ」

「ええ、大嫌いですよ。でも、まだ諦める段階とは言えませんし。ここで帰るのが一番の無駄ですからね」

　二つの輝尚石が、光でうるむ。

　攻撃を予見して、ほかの六人が構えた。

　エドガーの細い目の奥にある瞳が、自分を――自分の足元を貫いている。

　その視線に勘が反応し、慌てて飛び退いた。

　大地を蹴った両足を、真円から生えてきた蔦がつかんで結び、そのまま天へと向かって伸びていく。

　むせ返るような土の匂いと、緑の香りにまみれたまま救済を叫んだ。

　まんまと嵌められてしまった。

　輝尚石はおとりだ。エドガーはずっとこれを狙っていたのだ。

「サキちゃん！」

　ユーリの悲鳴が、下方から聞こえる。

　幻影の植物が天高く育ち、自分を拘束したままそそり立った。

　抵抗もままならず、火炙りに処せられる生贄のように空で吊るされる。

　林の樹木よりも、ずっと高い位置にある自分の四肢。

　そこでは多数の蔦が絡まり、不気味に蠢いている。

　視界の下で、四つの真円から炎を吐き出された。

　焼き払おうと放たれた炎は、幻を通り抜け、林の樹木を焦がして流れるばかり。

　生木が炙られて、湿った煙が上って肺を犯していく。

　煙に苦しみ。

　それでも、どうにか気力を整えようと大気を吸っていたとき。幻の樹木に、毒々しい斑点をつけた白の大輪が咲いた。

「う……」

　光景が歪む。

　花がぐるりと旋回しながら、形をにじませ揺れる。

　真眼に、毒が触れる。

　頭の芯が痺れて、自分の輪郭が保てない。

　守護を編もうとした手が、寂しく風をかいた。いつの間にか、真円すらも描けなくなっている。

（……まだ、戦える）

　自力で真術は放てない。

　しかし、左のポケットにはまだ輝尚石が残っている。炎豪が籠められている奇跡の石に、意識を集中する。

「はな、て」

　言霊が世界に響く。

　だが、呼応する光はこぼれない。

（……まだ）

　もう一度。気力を整えて、集中して……。

「放て！！」

　がくりと身体がゆさぶられた。

　ゆさぶられた衝撃で、つい舌の先を噛んでしまった。

　じりとした痛みが、意識を覚醒させる。

　急にはっきりとした意識を総動員して、全景の把握を急ぐ。

　眼下では、クルトの言霊に合わせ、幻の植物が消失を開始していた。

　巻きついていた蔦が、見ている前で大気に溶けて――その瞬間、身体が浮遊した。

　落ちる！

　胃が浮くような感覚が走り、夢中で蒼天に手を伸ばした。

　宙を探った自分の手が、骨ばった熱に触れる。

「――ローグ！」

　もう駄目だと思ったそのとき、熱い旋風をまとった半身に、身体を抱き込まれた。

　腰に回った力強い腕に誘われて、白のローブに埋もれて舞う。

　振り仰げば、鮮やかな黒髪が、風に弄ばれて散っていた。

　黒の気高い瞳は、自分の姿を映した途端、わずかに光をこぼした。

　微笑み返そうとして、自分の足が宙に乗っていることを思い出す。

　あわあわと足を暴れさせて、落ち着く場所を探してみる。しかし、空中にそのようなものはない。

　焦りながらじたばたとしていると、腰を抱えている腕が、自分の身体をさらに強く引き寄せた。

「腕を――」

　蒼天に伸ばしていた腕を、彼の首に巻き直し。必死になってしがみついた。

　ローグが展開している旋風は、彼の足元からぐるぐると立ち昇り、彼と自分とを包みながら踊っている。

　空を飛ぶという奇跡に、目を丸くしていたら、耳に低い笑い声が届いてきた。

「絶対に落とさないから、怖がるな。……あいつは、誰だ？」

「エドガーという人です。ギャスパルの相棒だそうで」

「……奴らは」

　奴らと言った相棒は、光を含んだ黒を厳しく眇めた。

　その言葉は、きっとあの四人のことを指しているのだろう。

「林に逃げたら、たまたまここにいて。……助けてもらいました」

　答えると、厳しい表情のまま眉だけが上がった。

　痺れのせいだろうか。

　激しく波を打っている気配から、ローグが抱いている感情を抜き取ることができなかった。

「真術は使えそうか？」

「駄目です。頭がくらくらして、集中が利きません」

　大輪の妖花も、蠱惑の真術だったのだろう。

　紫炎を受けたときと同じような倦怠感が、身体を蝕んでいる。

　そうと返せば、振り仰いでいた横顔に、凄艶な笑みが浮かんだ。

　色を多分に含んだ端整な横顔が、目の前にある。

　盛んに動きだした心臓から、勢いよく血が流れ出たのがわかった。

「では、大人しく守られてくれ。ちゃんと掴まっていろよ」

　下方から、劫火の気配がただよってきた。

　うるむ二つの光が、眼下で冴え渡る。

　ローグの右手が、下に伸びた。

　二つの輝尚石を握っている手の甲に、濃い筋が浮いている。

「――放て」

　低い言霊が、火炎流を生み出した。

　生み出された火炎流は、下方から立ち昇ってきた火柱と衝突し、大気を焦がして痛めつける。

　高い熱が、頬に当たった。

　あまりに熱い光に耐えられず、ローグの首筋に顔を埋める。

　迸る真力が強過ぎて、真眼を開いているのもきつい。

　勝敗は、すぐに着いてしまった。下方からの火柱が、弾き飛ばされて消失したのだ。

　ふわんと風に乗って降下していく。

　それは、たいそう不思議な感覚だった。

　きっと風にとばされた布は、こういう心地なのだと詮ないことを考えてしまう。

「あっついよ！　少しは加減して撃ってくれ」

　二人一緒に大地へと降り立ったら、めずらしくヤクスが怒っていた。

　正鵠の真円の内側では、目を白黒させたまま立ち尽くしている友人達と、例の四人がいた。

　そんななかで、幼馴染の番だけは、地面に座り込んでいる。

　ユーリが、クルトに癒しを掛けていた。

　交戦の際、怪我をしてしまったのだろう。

　エドガーの姿は、場のどこにもなかった。

　ローグの火炎流に、吹き飛ばされてしまったのだろうか。

「お前なら、真術を飛ばせると思ってな。修行場で練習しただろう」

「いーや、絶対に練習のときよりも威力を上げたね。これだからカルデス商人は困るんだ。短気が過ぎるよ」

「ギャスパルの相棒は？」

「逃げた……かな。お仲間は置いて行ったみたいだけど」

　ヤクスの視線の先には、気を失ったままの燠火の真導士が倒れていた。

　ようやく安定した大地に、足を下ろせた。

　浮いている感覚が残っていて、まだ頭がふわふわとしているようだ。

　大地に立とうとしたのに、間違えて小石を踏みしめてしまい、足首がかくりとなる。

　腰を支えていた腕は、まだ離れていなかったので、再びローグに抱き込まれる格好となった。

「ローグ、ギャスパルはどうだったのですか？」

　道の後方から迫ってきていた劫火の男は、いったいどうしたのだろう。

「帰った……、というより来なかった。最初から分断させるのが狙いだったのだろうな。怪我はないか？」

「大したことは」

　黒の瞳の奥で、感情の炎が揺らめいていた。

　彼の真力を全身で感じて、胸の鼓動が騒がしくなる。

　ああ、これはまずい……。

　意識をローグから切り離しておこう。

　思い決めてから目を逸らし、周囲を見る。

　そこで、先ほどまで共に闘っていた燠火の四人が、この場から消えていると気づいた。

「あの……、彼らは？」

　ジェダスとティピアが顔を見合わせた。

「帰るって……」

　ティピアの小さい声に続けて、ジェダスが困惑顔のままローグに伝える。

「後日、挨拶に来るそうですよ」

「俺にか？」

「ええ、貴方とヤクス殿に。サキ殿にも詫びを、という話をしていたのですが……」

「ローグを通せって、オレが言っておいた。反省はしているみたいだけど、サキちゃんと直接話させない方がいいかと思って」

　話を聞いた途端、肩から強張りがとれた。

　どうも、知らぬ間に力が入っていたようだ。

　助けてもらいはしたが、まだまだ辛いところは残っている。あの出来事を振り返るためには、まだ時間が必要なようだ。

「狙いは何だったのでしょうね。やはりサキ殿を……？」

　自分を抱き込んでいる腕が、束縛する力を強めた。

　このまま彼の胸元に埋もれてしまいたい。

　そんな欲求もあるけれど、それはあまりにもはしたない。甘え心を宥め、胸のなかでどうにか鎮める。

「わたしだけではないようです。真力が高い者の相棒。……それが彼らの狙いみたいですから」

「ユーリも、危ないみたいだよ……」

　座り込んでいた赤毛の導士が、弾かれたように面を上げた。

　話し込みたがる空気を、低い声が裂いて整える。

「――後にしよう。早いところ中央棟に行くぞ」