勃発
"三の鐘の部"の座学は、もう少しで終わる。
学舎の門で集合という約束になっているので、最も近いヤクスの家でだらだらとしていた。
ジェダスとクルトの家の掃除は、今朝のうちにやっておいたと報告がきた。
四人とも霧の脅威には気づいておらず、暑さをしのごうと窓を開け放っていたという。
「朝起きて、どうもだるいというか……、気力が整っていない感じがしたのですが。霧の影響だったのでしょうかね」
ジェダス、ティピア、ユーリの三人は、同じような気だるさを覚えていた。
しかし、クルトは船の実習で感じていた通り、朝に弱い人であったようだ。
毎朝だるいのでよくわからないと、参考にならない発言をしていたらしい。
「霧のせいだと思って用心しておけ。"浄化の陣"を覚えるのは、まだ厳しいだろう。窓を開けないようにするか、"守護の陣"を展開するかだな」
「これから夏だというのに、迷惑な話ですね」
項垂れたジェダスに、悪徳商人殿が黒い笑いを浮かべた。
「夏がくるから……だ。窓を開ける家が増える」
目的も目標も見えてこないけれど、自分達を蝕もうとしている脅威がある。
この見解に、否定の声は上がらなかった。
だが、自分達だけでできることなど知れている。
まずは正師への報告。
それに適しているのが、この色紐である。
現物が手元にあるのだから、説明にはもってこいだ。
霧の件は、報告さえしておけば。次に発生した時にでも調査をしてくれるだろう。
「とにかく報告をして、原因を調査してもらうようにする。これだけ奇妙な現象が起きているんだ、他にも何かあると思って警戒は続けておこう」
「ねえ、ローグ。他の人達に知らせないのですか」
「それも考えたけどな……。俺達が言うよりも、正師達に伝えてもらった方が通りやすい」
彼の提案に、長身の友人が物言いたげな視線を飛ばしてきた。
何だろうと思ってそちらを見たら、今度は紫紺の瞳が逸れていく。
おや、と思ってローグに視線を戻せば、ローグにも視線を逸らされた。
そういえば、昨夜の議論中にも、同じようなことが何度かあった。
これは、自分に聞かせたくない話と解釈するべきであろう。
男達の間だけで、何かが成立している。
誰よりも鋭敏な自分の勘が、せっせと働き出した。
嘘を言ってはいない。
ただし、全部を言ってもいない。
なるほど、悪徳商人殿の話術に阻まれたのは、ヤクスだけではなかったようだ。
思い出してみれば、青銀の真導士も同じようなことをしていた。女子供を除者にする、男達の常套手段であるらしい。
警戒対象が増えてしまったではないか。
……まったく面倒なことである。
悶々としていれば、家の外から賑やかな声が響いてきた。
"三の鐘の部"が終わったのだろう。
約束の刻限がきたと、全員が外に出て門へと向かう。
学舎と中央棟の位置は近い。しかし壁で区切られているので、ぐるりと回り込むしか道がない。
正師達は転送で行き来している。
転送が使えない導士達は、どうしても遠回りをするはめになる。
中央棟への道は、見回りが少ない道だ。できれば通りたくなかったのだけれど、今日ばかりは仕方ない。
門で待っていれば、幼馴染の番がすぐにやってきた。
明るい赤が、背後を気にして歩いている。それがどうにも引っ掛かった。
「どうしましたか?」
「早く中央棟へ。また揉め事が起こりそうだ」
ローグが歩き出したのに合わせ、全員が門から離れて道を行く。
「ギャスパル達か?」
「いや、違う。あいつら、今日は座学に顔を出さなかった……」
歩む速度が上がった。
否応なく息も上がる。
遅れるものかと必死になって足を進める。
「それは、まずいですね」
ちりりと左肩が熱を帯びた。
咄嗟に真眼を開いて、その方角を視る。
ジェダスが言う「まずい」の意味が理解できた。
ギャスパル達が座学に来ないということは、学舎に姿がないということ。
――つまり、居場所がわからないということだ。
「ローグ!」
すかさず彼を呼ぶ。
黒の瞳が自分を見て、そして視線の先を辿っていく。
サガノトスは、樹木が多い。
道と建物と湖の他は、すべて樹木だと言ってもいいくらいだ。
門から中央棟へ繋がる道の脇。
緑で覆い尽くされた林の奥に、すべてを焼き尽くそうと狙う劫火の気配がある。
「走れ!」
低い声の号令に、全員が駆け出した。
門から中央棟までは、まだまだ道が続いている。
劫火の気配からは距離があった。こちらが駆け出しても歩調は変わらずだ。
先頭を歩いていたローグが、走りながら自分の位置を最後方に下げた。
代わって先頭をクルトが行く。
(変……)
待ち伏せしていただろう劫火は、真力を発しながら焦っていなかった。
自分達が駆け出した後も、ゆっくりと歩いている。
これだけの人数……しかもローグがいるのだ。
自分達の移動速度は、認識しているだろう。
足は進み続ける。
まるで悪夢の出来事に当てはめたようだ。
劫火から逃れんがために、足を止められない。
ギャスパルの気配を視て、位置を確認して――大声で叫んだ。
「クルトさん、横!」
林の奥から撃ち込まれた白が、大地を擦りながら飛んできていた。
「放てっ」
ユーリの守護で弾き飛ばされた風は、道に沿って作られている壁に、音もなく吸い込まれて消えた。
「挟み撃ちか……。面倒くせえ奴らだな」
後ろからは、ギャスパルの気配。
クルトの横には、劫火に"共鳴"した五つの気配が視えている。
「サキ、何人来ている?」
「後ろから一人、横から五人です……」
六対七。
数的には、自分達が有利。
ただ、こちらには天水が三人もいる。
「六人って、喫茶室で会った人達と同じかな」
「わかりません。真力が"共鳴"していて、見分けがつけにくい」
微々たる差はあれど、どの気配も劫火に飲み込まれていた。
をのせいで、個体差が隠されてしまっている。ギャスパルの真力も相当高いという証拠だ。
「あの六人だとしたら、燠火が三人と蠱惑が三人……」
「ギャスパルは」
「燠火だ。どうする、ユーリ達だけでも先に行かせるか?」
クルトが真円を描く。
左右に規則正しく旋回する、白の円。
問われたローグは、まだ答えない。
後方を睨みながら、何ごとかを思案をしている。
「わたし達、中央棟までだったら走っていけるよ」
クルトの言を後押ししようと、ユーリが元気な声で請け負った。
そうこうしているうちに、林から人影があらわれる。
間を空けて隠れ潜んでいるのか。姿を現したのは三人だけだ。
「やっと出てきたか。逃げ回ってばかりで、揃いも揃って腑抜けらしいな」
くすんだ金の髪の男が、挑発的な口調で言う。
好戦的なように思えるのは、本人の気質か。はたまたギャスパルの影響なのか。
判別がつかないほどに、気配が炎で染められている。
「お前らに構う時間がもったいねえ。陣取り合戦なら、餓鬼の頃に卒業しておけよ」
クルトの足元で、真円が広がる。
七人がすっぽりと入る大きさにまでなった、蠱惑の真円。
クルトは何を狙っているのだろう?
蠱惑の真術は種類が多過ぎて、見当もつかない。
「腹が立つな、この赤毛野郎。どれがお前の女だったか……。真っ先に髪を刈り取ってやるよ」
男は、三人の娘をそれぞれ指差し、最後に肩口で髪を落とす仕草をした。
顔を傷つけることと、髪を切り落とすことは。女に対する最大の侮辱行為だ。
卑劣極まりないと評していい。
「ギャスパルは、下衆しか飼ってないのか? 趣味が悪いったらねえな」
クルトはそれに乗らず、再び挑発を返した。
気力を乱した方が負け。
戦いは、もうはじまっている。
男とクルトがやり合っている影で、ジェダスがティピアに何かをささやいた。
ティピアの頭が、小さく上下に揺れる。
蠱惑の二人は、何かを仕掛けようとしているらしい。
反撃に備えて呼吸を調整していたとき、林の中で白が生まれる姿を視た。
「撃ってきます!」
警告への返答は、旋風で示された。
目の前に立つ、三人の敵。
その脇をすり抜けて飛んできた炎と、ローグが放った旋風が、正面からぶつかり合う。
勝敗は、一瞬で喫した。
真術の炎は、蝋燭を吹き消すかのように、揉まれて消失していった。
ざっと流れる風。
仲間の攻撃が消されたというのに、三人の敵は、ふいに笑みを浮かべた。
劫火の気配が、男達の間で燃え広がる。
「この声だ……。あいつが家にいた女。ローグレストの相棒――見つけたぞ"落ちこぼれ"!」
ローグから、熱い海の真力が放出される。
傍で立っているだけで足がすくわれそうなほど、強く強く押し出される真力。
彼を援護しようと真円を描く途中で、ヤクスに腕を取られた。
ぐいと引かれて、ジェダスとクルトの後ろに配される。
クルトの真円が、展開を開始する。
大きく描かれた真円から、白く輝く水蒸気が放たれた。
光の水蒸気に紛れて、ジェダスも真術を展開する。赤毛の導士の後方で、小さい真円がいくつも展開されていく。
目を凝らして見ていれば、真円から人影が出てきた。
自分とユーリとティピア。
三人の娘に似せた、いくつもの人影。
ジェダスが言霊を発すると同時に、真円から生まれた人影達が、駆け出していった。
幾人も生み出された人影は、道を行き、道を戻り、林の方へと勢いよく走り去る。
「行け!」
クルトの声に合わせて、ユーリが駆け出す。
一目散に前方へと向かう彼女の背を、ティピアが追いかけていく。
陽動している白の影に紛れ、脱出しようとの試みだと理解し、二人の背中を追って自分も駆け出した。
背後で、ローグの真術が展開される。
馴染み深い波が、再び熱い風を巻き起こした。
真術の水蒸気が一面に広がり、さらに視界を遮る幕となる。
クルトとジェダスの真力、そしてローグの圧倒的な真力が地を這い、まとわりつきながら場に満ちる。
真術の煙幕を抜けて、駆けながら道を振り返れば。濃密な気配のなかから喧騒が聞こえてきた。
こちらに向かってくる気配がないと確認して、中央棟へとひた走る。
祈りは捧げなかった。
加護よりも先に、信じたい力が自分にはあったからだ。




